「再野生化する地球」にあって、人類が生き残るための大転換の必要性を強調してやまない、今話題のジェレミー・リフキン氏の『レジリエンスの時代』━━ここでの「代議制民主政治が分散型ピア政治に道を譲る」という一章がとりわけ私には興味深く迫ってくる。民主政治の行き詰まりを指摘する声はあまた満ちていても、それに代わりうるものとなると、直ちには思いつかない。そんな中で著者が注目する「分散型ピア政治」なるものは、世界各地で効果を上げていて興味深い◆そもそも「レジリエンス」とは何か。そして「ピア」とは。著者(訳者)は、効率を重視する「進歩」の時代から、今世紀後半には「適応」を重んじる「レジリエンス」の時代へ移行すると、表現している。あえて訳語を与えていないのだが、一般的には「回復する力」を意味する。私としては「蘇生」の意味合いを持たせて理解したい。また「ピア政治」については、「対等者政治」との訳語をあてている。これも聴き慣れぬ言葉でイメージしづらいが、ギリシア語に由来する民主政治(デモクラシー)を踏まえた英語の造語である。裁判における陪審員制度が近いかもしれない。市民の中から、選挙ではなく、無作為に選び出された人たちが、統治に関わる意思決定を能動的に行うというのだ◆ピア議会で最もポピュラーなものとして導入されてきているのは、「参加型予算編成」と呼ばれるもの。自分たちで予算を組むとは魅惑的ではないか。ことの発端は1989年にブラジルのある州でのこと。労働者党がこの地の主導権を握ったことから始まった。地域内のコミュニティ組織を中心に新たな予算提案を募る一方、代表者を選んで「ピア議会」を開催し、皆で話し合って合意を得ていった。もちろん最初からすんなりまとまったわけではなく、あれこれと試行錯誤を繰り返したようだが、それなりの成功を収めた。その結果、上下水道の普及率、医療と教育に回される予算の割合、学校や道路建設が飛躍的に増えていったと報告されている。「ピア議会」の市民参加者数は約10年で、40倍になったという。入れ替わり立ち替わり、普通の市民たちが統治を議論する場に出ていったというわけだ◆現時点で、こうした仕組みを用いて、世界各国の地方自治体で参加型予算編成が積極的に行われているケースは、ニューヨークやパリを含めて一万を超えているというのだから驚く。今や、教育、公衆衛生、警察活動に関するコミュニティの監視、インフラ計画などへと対象は広がっているともいう。市民社会組織の時代の到来として大いに注目されよう。選挙で選ばれた政治家に任せて当たり前だと思っているばかりの日本社会では考え辛い事態だが、自分たちが選んだ政治家の酷い現実にぼやいているだけではいけない。こうした市民参加型統治の仕組みをわれわれも取り入れない手はない、と思われる。(2023-11-11)
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【100】熱い思い伝わるも虚しい実現性━━斎藤幸平+ 松本卓也編『コモンの「自治論」』を読む/11-2
『人新世の資本論』以後の斎藤幸平氏の著作に注目してきた。資本主義の次にくるものは何かをめぐる考察について、である。環境危機や経済格差が一層広まって、国家も大衆も今や危機に喘いでいる。それにつれて崖っぷちに立たされたといえる民主主義の危機を乗り越えるにはどうすればいいのか。破壊されゆくコモン(共有財と公共財)を再生し、その管理に市民が参画していく中で「自治」を育てていくしかない、というのが斎藤氏の目論みであろう。その第一歩を踏み出すための実践の書だと銘打って、松本卓也氏ら6人と共同で書いた本に大いに期待した。刺激的な内容ではあったが、実現への道筋は果てしなく遠いというのが実感だ◆我々は身の回りで「資本による略奪」とでも言うべき事態が静かに進行していることになかなか気づかない。公園などの公共の場を、市民の反対の声を排除しながら商業施設に変えてしまおうという大資本の動きがあったり、公営事業としての水道事業の民営化を持ち込み、そこに利潤獲得の道を開こうとする大資本の試みがあるのにもかかわらず。そうしたコモンが直面している危機的な事態を打開し、逆に蘇らせていくには、ひたすら自治の力を磨きゆくしかないという。コモンを耕し、それを管理する方法を模索するなかで、私たちの「自治」の力を鍛えていくべきだ、と。資本の浸透は、放置していると、全てを乗り越え迫りくる。対抗するには万人が立ち上がるしかない、と◆この本では、斎藤氏以外の6人が、それぞれ大学、商店、区役所、市民科学、精神医療、食と農業といった、現場における「自治」の現状について興味深い問題提起を展開している。とりわけ、白井聡氏の大学における「自治」の危機についての言及には、呆然とするほかない。「教授会自治」も「学生自治」も形骸化は歴然としており、かつての「産学共同反対」はどこへやら、「産業界の意向を受け入れ、他大学と競争しながら予算を獲得することが自明視されて」おり、「『稼げる大学』といったスローガンさえもがはばかりなく語られる」ほどだという。しかも、学生たちのものの考え方も大きく変化し、権力に対して批判的な視点を持つことが当然だとの常識はもはや通用しないとまで。人材育成の要・教育の現場がこれでは、心許ない◆こう書いてくると、「コモンの自治」は前途遼遠で、何を言っても絵空事の感は免れないのだが、斎藤氏はめげずに、最終章で自治実現への手立てを説く。「垂直型の政治や運動に代わる新しい形の参加型『自治』に向けた、21世紀の理論と実践の可能性です」とし、「そのカギとなるのが、万人が〈コモン〉の再生に関与していく民主的プロジェクトです」と力説する。ただ、残念ながら、いかにもわかりづらい言い回しである。「これはユートピアではなく、世界でも、日本でも萌芽の出てきている二十一世紀のコミュニズム(コモン型社会)のプロジェクトです。そして、そうした自治の実践こそが、資本主義の暴走から民主主義を守るための道なのです」というのだが、虚しく聴こえてくるのはいかんともし難い。事態打開への熱い思いは伝わってくるものの、空回りは否めないのである。(2023-11-2)
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【99】境家史郎『戦後日本政治史』を公明党をめぐる「老若対話」で読む/10-22
この本は、占領期から今に至る戦後日本政治の77年余を振り返ったものである。著者が「コンパクトな通史」と規定しているように、政治についてよく知らない若い人びとむけに書かれたものだ。全体の流れを掴むには重宝だろうが、より玄人的な日本政治論を好む向きには、ふさわしくないかもしれない。憲法9条を変えたがってきた自民党だが、その憲法のお陰で「軍事力強化」の是非をめぐるイデオロギー対決が続き、結果的にその地位が安泰となっているとの逆説の効用を説いている。憲法論争ある限り「日本の戦後」は終わらないというわけだ。この本での公明党に関する記述をめぐって、結党当時を知る古い世代(叔父=70代)と、自公連立政権の有り様に関心を持つ若い世代(甥=40代)との対話を試みてみた。
◆ ◆ ◆
甥】この本は、日本が戦争に負けて米国に占領されてから、今に至る戦後77年余の政治の歴史がよく分かって、随分ためになったよ。ただ、公明党に関する記述がほとんど無くて、ちょっと寂しい気がした。こんなにも戦後政治史において公明党は存在感がないのか、と。
叔父】 確かに著者は殆ど公明党を無視しているように見えるね。党結成、PKO 法制定、新進党結成、自公連立あたりのところでほんのちょっぴり出てくるだけ。君と同じくらいの歳の気鋭の政治学者の本なので、世の中で注目されているだけにとても残念だよ。尤も、自民党以外の政党への眼差しも似たようなもんだけど。
甥】そんなに気にしなくてもいいんじゃないの?政権の中軸の動きから公明党はどうしても傍流に位置してると見られるけど、自公政権が長続きしているのは、「政治の安定」という観点からすると、それなりに評価されていると思うよ。ところで、叔父さんが悔しがるのは、公明党のどういう役割が見えてこないからなの?
叔父】そりゃあ、「55年体制打破」に青春を賭けた身からすると、現実に自民党一党支配にピリオドを打たせた公明党の役割が評価されていないことは悔しいね。その上、40年ほど経って結局は「ネオ55年体制」という形で、「日本政治は『元いた場所』に戻っただけなのか」と、問いかけ、〝元の木阿弥〟だというのはねぇ。
甥】いえ、それって当たってるよ。かつての社会党が様々の紆余曲折を経て、いまの立憲民主党になってるし、旧民社党はまるで現在の国民民主党そっくり。あの頃「維新」はなかったといっても、今はなき日本新党に似てなくもないしね。尤も著者が言いたいのは、憲法をめぐる対立が変わらんということなんだろうけど。
叔父】確かに、昔の55年体制と今の政党分布のありようは違うと言っても、通用しないとは認めるよ。自民党が再び野党を圧倒しまくっている現実が甦ってきていることに疑問はないからね。かつてこの本でいう「改革の時代」に、公明党は野党の中核として頑張ってたのに、今では与党の一角を厳然と形成してるんだからね。いわば菓子箱の包装は同じだけど、中の饅頭の味は違うと言ってるようなもんで、わかりづらいだろうね。
甥】今の例えからいうと、中身の饅頭の味が向上してれば、良いってことじゃあないのかなあ。公明党がかつて外から自民党政治を壊そうとしてあれこれやったけど、うまくいかず、内側から変えようとした努力が認められていないと、叔父さんは言うんだろうけど、僕らから見て結構公明党は、子育て政策や若者政策の分野で、頑張ってきてるよ。携帯電話料金の引き下げ、出産一時金の増額、奨学金制度の拡充など中々いいよ。例えとしての饅頭の味はかなり良くなっている。こんな味じゃあ不満?(笑)。
叔父】君のような若い世代が公明党の現状を肯定的に見るのは意外に思うよ。あまりに野党がだらしないからだろうね。私の世代は、もっと激しく世の中を変えていかないと、日本は益々ダメになってしまう、と自分たち世代の無責任がもたらした現状を棚上げして、焦ってる感なきにしもあらずだけど。
甥】ん?我々世代も、改革志向はあるよ。与党公明党の現状に100%は満足していないけど、必ず、今の政治を一歩ずつでも変えてくれるものと、信じてるよ。もし、公明党が与党から外れてしまうと、自民党政治のチェックをどの党がするのか?昔のような政治腐敗が一段と強まってしまうのはごめんだね。
叔父】 ウーン。その辺の現状認識がかなり違うね。我々世代の友だち連中は、公明党って、自民党との間で、選挙協力とか政策の合意などにとどまらず、もっとこの国をどういう方向に持って行くのかについて、与党内議論をやって、国家ビジョンを明確にすべしという意見が多いね。現状では、自公政権の方向性が見えないとの声が強い。東京から東北か信越北陸方面に行くのか、はたまた飛行機に乗って、九州、北海道に連れて行かれるのか分からん。まるで行き先の定まらぬまま旅行会社でああだこうだと言ってるだけみたいだ、と(笑)。
甥】「政治はよりマシ選択だ」って、叔父さんはいつも言ってるよね。理想には遠くても、現実政治を見た時に、野党は勿論、自民党に比べても公明党がよりマシだと思うよ。その辺を選挙戦では訴えていきたいね。(2023-10-21)
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【98】「脱成長コミュニズム」の由来を探る━━大澤真幸/斎藤幸平『未来のための終末論』を読む/10-17
斎藤幸平の『人新世の「資本論」』を読んでから、世界を見る目が変わったという人が多い。私も様々の気づきを得た。とりわけ、資本主義の後に来るものとしての「コミュニズム」の存在、捉え方に新鮮なものを感じてきた。冷戦の終了と共に、社会主義が後衛に退き、資本主義の栄華が続くと見たことが、いかに単純で脆いものであったかを痛切に自覚する。そんな折に、大澤真幸との対談をベースにした『未来のための終末論』はとても読みやすくて、刺激に溢れた本だった◆若き俊英・斎藤に比べ、ほぼ30歳年上の大澤の礼を尽くした大人の姿勢は、実に好感がもてる。大澤自身の学問上の師である見田宗介の思想との類似点と相違点を持ち出しての議論は中々わかりやすい。前述の斎藤の本には幾つもの論点があるが、最大のものは「脱成長はいかにして可能か」であろう。斎藤は資本主義に代わるシステムとしての「コミュニズム」を提唱しており、見田は「資本主義の内的な転回によって脱成長は可能」との立場である。両者は似て非なるものだが、大きな違いはない◆「成長至上主義」とでも言うべきものが横行する現状の日本社会にあって、「脱成長コミュニズム」を導入するしか、気候変動、自然環境破壊に対応するすべはないとの主張は明快そのものである。斎藤は、人類はいまウクライナ戦争の泥沼化と共に、❶経済成長を優先させるために2050年までの脱炭素化を諦める❷原発を再稼働させようとしている━━がそれは誤りで、「脱成長」しか本当に進むべき方向はないとしている。だが現状はどうか。「世界を見ていると希望を感じることはあります。それに対して、日本の現状は少し寂しい」(大澤)し、「海外のような発火点になる運動には(日本は)なかなか発展しません。悲観主義に陥らず、新しい運動に繋がるような言説をどうつくっていけばいいのか、考えどころです」(斎藤)というあたりが残念ながら実態であろう◆ここでカギを握るのは公明党だと私は思っている。「人間主義」を掲げ、〝自然との共生〟を基本に据える政党が、旧態依然とした「経済成長一辺倒」的態度に凝り固まっているのは時代錯誤ではないか。例えば、神宮の森を伐採する動きなどに真っ先に反対する動きをなぜ見せないのだろうか。自民党を始めとする既成の勢力に与党として、気兼ねしている場合ではないと思うのは私だけではないはず。かつて、党創立者が提唱した「人間性社会主義」(「新社会主義」)なる言葉の実体こそ、斎藤のいう「脱成長コミュニズム」を先取りしたものだったに違いない。その理論構築を怠ってきた党人としての怠慢を心底から後悔しつつ、そう思う。(敬称略 2023-10-17)
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【97】冷戦期から冷戦後への橋渡し━━『大統領から読むアメリカ史』から考える③/10-10
ニクソンの失敗のリリーフ役だったフォードの後に登場したカーターは、本格的な政治信頼構築への立て直しを期待された。しかし、この人は国内的な問題処理というよりも、国際政治での活躍が記憶に残る。「人権外交」の展開で知られるが、補佐役として歴史学者のブレジンスキーの活躍があった。最も著名なのは、エジプトとイスラエルの和平合意への尽力であり、米中国交正常化やソ連との戦略兵器削減交渉の前進に寄与したことだ。のちに、ノーベル平和賞を受賞するものの、対イランでは、アメリカ大使館を占拠される「人質事件」を起こし、救出作戦でも失敗してしまい、大統領の権威は完全に失墜した。こうした過程を通じ、著者はこの人物には「世論を妄信し、支持率の上下に右往左往する傾向」があったと指摘している◆ついで、登場したレーガンは、俳優出身であり、テレビ番組の司会をも務めた。大統領になって、「小さな政府を核とする『新自由主義』のもと、『サプライサイド経済学』を実践」し、投資や雇用を活性化することに努めた。と共に、「悪の帝国」とのレッテルを貼ったソ連に勝利すべく「SDI(戦略防衛構想)」を推進し、ソ連の国防予算を拡大させ、最終的に〝軍拡戦争〟に巻き込むことに成功、財政破綻に導いたとされる。彼は、「俳優に大統領は務まるか」との批判に「俳優でない人に大統領が務まるのか」と反論した。「自らの政策をわかりやすい言葉で伝えて世論を形成し、市民の力を結集しながら国家の威信と繁栄を担保」して、「強いアメリカを復活させ、冷戦の終焉に道筋をつけた、傑出した指導者であった」と筆者は讃える。これについて、私はそうならしめた参謀役は誰だったのか。また後のトランプはレーガンを真似ようとしたはずと見てしまう◆ブッシュ(父)は、歴史上2組目の親子大統領だが、筆者は、彼をして「東西冷戦後の激動期に、民主・共和両党の利害関係に配慮し、中道政治を追求した保守政治家」で、「伝統的な〝共和党らしさ〟を体現した最後の指導者である」と高く評価する。既に見たように、後に続く息子も、トランプも惨憺たる存在ぶりが明確なだけに自然に首肯できよう。この人の実績は国内的には、ADA(障害を持つアメリカ人法)の制定で、従来の公民権法に含まれていなかった「障害」について、雇用差別を禁じ、あらゆる施設の利便性を法によって保障したことだ。外交では、「湾岸戦争」で優れた指導力を発揮し、クウエート解放を実現した。こうしたこともさることながら、私は前任者のレーガン大統領が道筋をつけた「米ソ冷戦の終焉」を、彼がゴルバチョフソ連大統領とのマルタ首脳会談で実現させた功績も大きいと思う◆次のクリントンは、「内政にあっては、制度改革や規制緩和で経済を立て直し、外交にあってはポスト冷戦後期における国際秩序の安定に寄与したリーダーだと位置付けられる。具体的には、ゴア副大統領の提唱した「情報スーパーハイウエイ構想」を後押しし、IT産業の勃興に寄与し、重化学工業重視からの転換を可能にした。また外交面では、中東での「パレスチナ暫定自治協定」の成立を主導したり、NAFTA(北米自由協定)の締結や、IAEA(国際原子力機関)の査察を拒否する北朝鮮に、カーター前大統領を派遣して、重油の提供と引き換えに核開発を凍結させるなど一連の実績をあげた。しかし、再選後に、前代未聞のスキャンダルが発覚した。ホワイトハウス内で女性インターンと性的行為に及んでいたというのだ。これによって、米史上2回目の大統領弾劾裁判にかけられることになった。辛くも罷免は逃れたものの、拭い難い政治的汚点を残した。これには、ケネディを深く尊敬していた彼が、著名な女優と浮名を流した先輩の負の側面を見倣ったのかと思わざるを得ない。また、彼が罷免されて、ゴア副大統領が後を継いでいた方が面白かったのではないか、との「歴史のイフ」に思いを馳せてしまうのだ。(2023-10-10)
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【96】占領期から冷戦の同盟者として━━『大統領から読むアメリカ史』から考える②/10-3
2回目は、第二次世界大戦後の冷戦期の前半。日本がアメリカとの戦争に敗北した時の大統領はハリー・S・トルーマン。実は、戦争の間中は、4期にもわたってずっとフランクリン・D・ルーズベルトが第32代大統領だったが、1945年4月に急逝し、副大統領だったトルーマンが昇格した。彼は苦労人で大学も卒業していない、庶民出身の大統領であった。私のこれまでの印象は、彼が原爆投下を決断した点と、日本人に人気のあった連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーを更迭したことの2点で、あまり芳しいものではなかった。だが、著者は、原爆投下でソ連の侵攻に伴う日本の分断国家化を防ぐに至ったこと、大戦の早期終結で、日米間に抜きがたい怨恨が残らなかったことなどをプラス材料にして、高い評価を与えている◆日本は1952年(昭和27年)まで米国占領下におかれるが、この占領政策の直接の最高責任者はマッカーサーであった。トルーマンと次の大統領のドワイト・D・アイゼンハワーとの間に、筆者は戦後の日本社会に民主主義を確立したリーダーとしてマッカーサーを挙げ、それを番外のコラムに詳しく書いている。そこでは「後期の占領政策には、戦争の勝者が敗者に強いるような一方的な押し付けは見られなかった」などと、持ち上げていることは特筆に値しよう。「敗戦を奇貨として変革に取り組み、アメリカと手を携え、時には対立しつつも、したたかに戦後復興に注力した」日本だったからこそ、との側面はあるものの、日米両者による共同作業によって、奇跡が起こったと見ても言い過ぎでないかもしれない◆一方、トルーマンに代わって大統領になったのは、軍人として欧州戦線で大きな功績のあったアイゼンハワーだった。彼が1953年から8年間大統領を務め、現代アメリカを完成させたと言われるが、マッカーサーといい、アイゼンハワーといい、軍人出身の人材に恵まれたことが日本との違いだったと言えるかもしれない。その後がジョン・F・ケネディである。「キューバ危機の13日間」や、黒人の政治的権利を大幅に拡大する「公民権法案」の提出など光の面と、ベトナム戦争への介入など影の面が交錯するものの、「アメリカをよりよい方向へと前進させた類まれな指導者」だったと見るのが素直なところだろう。狙撃死したケネディに代わって副大統領から昇格したリンドン・B・ジョンソンは、前任者から受け継いだ「偉大な社会の建設」にはいい結果を出したものの、戦争継続という負の遺産に押し潰されてしまう◆この後、リチャード・ニクソンは、ウオーターゲート事件で辞職に追い込まれる(1974年)までは、国際政治学者のヘンリー・キッシンジャーを大統領補佐官に抜擢し、電撃的訪中で米中接近を図ったり、米ソデタント(緊張緩和)に貢献するなど幾多の実績を上げた。だが、最終的には政治不信の元凶として最悪の烙印を押されることになった。日本ではドル価値下落に伴う衝撃などと併せて「ニクソンショック」の名で呼ばれることになった。途中で大統領職を受け継いだのが、ジェラルド・フォード。この人は前任者の汚辱という「前代未聞の状況からアメリカを救った」大統領として、筆者は高く評価している。トルーマンといい、ジョンソンといい、フォードといい、副大統領からのリリーフ役に恵まれるアメリカは凄いと言うほかない。(2023-10-3)
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【95】没落の兆し漂う超大国と日本━蓑原俊洋『大統領から読むアメリカ史』から考える/9-28
いま、超大国アメリカはおかしくないかとの懸念がつきまとっている。それを言い出すなら、英国も、中国も、もちろんロシアもとっくに狂ってる、そして我が日本も、との声が聞こえてこよう。つまり地球全体、全人類にそこはかとない不安が漂っている。その問題意識の上に立ち、まずアメリカという国の歴史をつぶさに見てみたい、と思った。そんな折、『大統領から読むアメリカ史』を手にすることになった。建国の父ジョージ・ワシントン初代大統領から46代のジョー・バイデンに至るまでの46人を6つの章に分けて解説している。順序よく「建国期」からスタートせず、最後の「冷戦後」から読み始めた。なぜ「分断」が常態になったのかを探るために◆ドナルド・トランプ前大統領の登場がもたらした「危機」に至る「転換点」となったのは43代のジョージ・ブッシュ(息子ブッシュ)だと、著者は見る。学生時代は、殆ど勉学に背を向け、酒に溺れていたことはつとに有名だが、結婚を機にキリスト教メソジスト派の妻の献身的な働きで立ち直る。といった家族や周辺の努力もあり、大統領になったものの、本人はいたって凡庸な指導者だったことが描かれる。しかも2001年9月の同時多発テロの勃発以降、政権内のネオコン(新保守主義者)に主導権を握られ、急速に自由主義世界のリーダーとしての矜持を捨て去り、単独行動主義へと邁進することになった。著者は、「ブッシュの最大の過ちは、建国の父たちが希求した崇高な理想を蔑ろにしたこと」と断じ、「かつてのアメリカの輝きはブッシュの時代に一気にその明るさを減じた」と言い切る◆実はその背景に、深く横たわるのが、カナダのジャーナリスト・ナオミ・クラインいうところの「ショック・ドクトリン」の蔓延という問題があると思われる。これは、テロや大災害などの恐怖で国民が思考停止している最中に、政治指導者や巨大資本がどさくさ紛れに過激な政策を推し進める悪辣な手法のことを言うのだが、ブッシュの時代に一気にこれが広まったと見られる。「ハリケーン・カトリーナ」への対応の中で、この魔の手法が被災地を蹂躙したことなども、国際ジャーナリスト・堤未果の解説が詳しく暴いている。この辺りについては、既にこの欄の89回(「特筆すべき民衆からの反撃」)で書いた通りだ。このあと、44代のバラク・オバマがブッシュの残した禍根を払拭するべく、果敢に改革に挑戦する。ただ、オバマは変革の風を吹かせたのだが、多くの実績を残した半面、同性婚の容認などリベラルな価値観をいしずえとする変革の動きが、畏怖の念を抱く保守層の反動の機運を一気に高めることになった。さらにオバマはシリアによる化学兵器の使用や、ロシアのクリミアへの侵略・併合といった肝心の場面で、弱腰な姿勢に終始し、口先だけの指導者との印象を内外に与えてしまう。黒人のリーダーであるが故のリベラルなスタンスも逆に作用し、一部白人の経済的苦境をベースにした、貧富の差への被害者意識を助長したのである◆つまり、トランプが登場する前に、ブッシュがアメリカ国内に「悪魔的手法」が跋扈するのを放置し、次のオバマが、アンバランスな形で「人種差別の空気」や、共和、民主両党の過激な差異化をもたらしてしまった。そんなお膳立ての上に、45代のトランプが自由勝手な大統領として君臨し、米国内の「分断」を決定的なものにしたというのだ。現在のバイデン大統領に、その「分断」を根底的に是正する力は、トランプとの直接的対決の当事者だけに、望めそうにない。それよりもむしろ、プーチンのウクライナ侵攻から始まった世界の「分断」という、もう一つの攻めに喘いでいるのが米国の現実だといえよう。著者は、これからの世界が、応仁の乱以後の日本の戦国時代のようになるのか、ナポレオン戦争終結後の「ウイーン体制」のように、超大国が不在でも大国同士の連携が進むのか、という二つのシナリオを想定している。その上で、後者への道が日本の積極的関与で可能になると希望的観測を述べ、それこそ「意味をなす国家」日本の生き方だというのだが‥‥。(2023-9-28)
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【94】画竜点睛を欠く「ウクライナ」記述の欠如──山崎雅弘『第二次世界大戦秘史』を読む/9-18
「周辺国から解く 独ソ英仏の知られざる暗闘」とのサブタイトルが付くこの本が発行されたのは昨年2月末。ロシアのウクライナ侵攻とほぼ同時期。筆者と出版社は戦争勃発に驚いたのか、折り込み済みだったのかは分からない。「ウクライナ」に無知だった読者としては、この本に取り上げられた、先の大戦の舞台になった周辺国20に、ウクライナが入っていないのは画竜点睛を欠くと見えてしまう。と、いきなり、この本に注文をつけた上で、大国による戦争遂行の経緯に偏りがちの一般的な歴史記述に対して、小国の視点を重視するこの本の独自性を称賛したい◆小国の立ち位置でまず注目されるのは、ポーランド。この国への侵略が引き金になり、またユダヤ人虐殺の元凶の地となったアウシュビッツが同国内にあることから、ただひたすら蹂躙されただけの国に見えてしまいがちだが、さにあらず。著者は、自由ポーランド軍が「国家そのものが地図上から抹殺されてしまったにもかかわらず、「(欧州の)各戦域でドイツ軍と戦い、1944年の夏からはノルマンディーやオランダ、ドイツ領内でも激闘を繰り広げて、米英連合軍の勝利に少なからず貢献した」ことを強調する。また、ポーランドが「どれほどの苦難に直面しても決してギブアップしな」かったし、「誇り高い国民性」や「不死鳥にも喩えられる強靭な精神力」を持つという風に、過剰なまでに美辞麗句を連ねてほめそやす◆また、フィンランドについては、歴史的には硬軟取り混ぜての外交、軍事戦略を駆使して隣国ソ連と長く対峙してきたことで知られる。だが、大戦時にあっては、対ドイツ戦がこれに加わり、独ソとの「板挟み」状態となった。その苦労の末、大戦終結後にフィンランドが得たものは、ソ連の軍事支配をあきらめさせたうえに、「非共産主義の資本主義国として独立を維持することを容認」させたことだった。大戦中にソ連がいかにフィンランドに手を焼いたかがわかろうというものである◆独ソの狭間での苦難といえば、フィンランドに並んで、バルト三国(リトアニア、ラトヴィア、エストニア)のそれが挙げられている。1934年にソ連に併合された三国は、5年後独ソ戦の開始と共に、ドイツの対ソ進撃の通路と化す。実は当初はドイツをソ連からの解放軍的存在として捉える向きもあったが、やがてそれは失望することになる。このように、20の小国が置かれた位置について事細かに著者は書き上げていく。400頁にも及ぶ紙数を割いて「(これまでの歴史書は)大国の動向ばかりが記述され、周辺国兵士の戦いは、脇に追いやられたり、無視されることがほとんど」だったことを批判しているのだ。という観点からも、冒頭に述べたように、「ウクライナ」が全く欠落していることは訝しい。バルト三国と同様に、当初はドイツを救世主とする向きがあった彼の国について、なぜ触れなかったのだろうか。この辺り、この本の出版元系列の雑誌が補足的に場を提供したことをネットを通して知ったが、時すでに遅しの感は否めない。(2023-9-18)
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【93】日本近代化への遥かなる光線──司馬遼太郎『オランダ紀行』を読む/9-8
夏の高校野球──107年ぶりの優勝を果たした慶應義塾高校の校歌(塾歌)が映像で日本中に流れた。実はこの歌はオランダに深い関わりを持つ。富田正文(作家・福沢諭吉研究者)によって昭和15年に作詞される際に、諭吉の塾創設への深い思いが込められた。福沢はオランダ語の習得を通じて西洋の思想に深く拘泥していったのだが、17世紀に世界の覇権国家として一時代を築いたオランダも、200年を経て衰退の道に陥っていた。明治維新(1868年/慶應4年)当時には、世界各地からオランダは後退。その国旗がひるがえる地は長崎・出島ぐらいしかなかった。諭吉は当時戦乱の巷にあった日本の国内情勢と覇権国家・オランダとを重ね合わせて、学問に励むことこそ一国の自主独立を成り立たせると、塾生に強調した。🎶見よ 風に鳴る 我が旗を で始まる歌詞は、慶應義塾の旗を指す一方、オランダへの福沢のあつい思いも込められたのだ。このことは歌詞を追っても殆ど分からないが、私は福沢諭吉研究センターの都倉武之准教授から聞いて知った◆司馬遼太郎はこの紀行を「事始め」と題して、オランダ製の咸臨丸に乗って諭吉や勝海舟らが1860年(万延元年)春に米西海岸に到着したことから書き出している。と共に、「(『自伝』に)オランダ人はどうしても日本人と縁が近いので‥‥。とあるのが印象的」だと、続けている。1600年(慶長5年)は「関ヶ原」の年である。と同時に、徳川の時代の幕開けを待っていたかのように、オランダ人が日本に通商を求めて初めてやってきた。のちに長崎・出島という4000坪足らずの扇状の埋め立て地に橋を架け、外界と遮断しつつ接続をも可能にした。「針で突いたような穴」にかすかに射し込む光が、幕末まで続き、諭吉がその光の恩恵を最も適確に浴びたことを、司馬はいとおしむかのように紹介している◆オランダは、「大航海時代」(15世紀半ばから17世紀途中まで)に、ポルトガル、スペインの二か国が世界の海を席巻した後に、世界史における植民地争奪戦の三番手として姿を見せる。そして、後に控えた英国の本格的登場に替わって、後衛に退く。キリスト教カトリックのポルトガル、スペイン両国は布教の下に鎧が見え隠れしていたことを、時の支配者・秀吉は見抜いた。それに比べて、オランダは新教プロテスタントによる自由な通商国家であった。布教よりも実利中心で交易熱心だったのである。司馬はこの国の実像を、様々の歴史的事例、文化的様相などを通じて、ジグゾーパズルのように描いてみせ、やさしく引き込む◆オランダが出島で細々と、日本とのよすがを繋いでいるほぼ2世紀のあいだ、同国は東インド(現インドネシア)の植民地支配に精を出し、台湾支配をもうかがった。アジア全域でタイを除く各国がヨーロッパ先進諸国の餌食になったことに着眼すれば、1633年からの日本の「鎖国」(オランダと清国だけを例外とした)の持った〝国力温存の効果〟に驚く。このことは「関ヶ原」前夜に至る「秀吉の時代」のキリシタン浸透への「弾圧」からくる「脅威」が大きかったに違いない。カトリックの二国がキリスト教の布教を矢面にかざしたことで、慎重極まる「覇王・家康」は、海外からの侵略の狙いを警戒した。結果として、江戸から明治に至る「日本防衛」を可能にした。おまけに、出島ルートで近代化への準備をも可能にしたことは、まさに僥倖だったといえよう。(2023-9-11 一部再修正)
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【92】凄味漂う朝鮮民族との付き合い方━━司馬遼太郎『韓のくに紀行』を読む/8-31
司馬遼太郎さんは、韓国に行きたいと思ったのは十代の終わり頃だと『韓(から)のくに紀行』を書き出している。その目的を問われて「韓国への想いのたけというのが深すぎてひとことで言いにくかった」から、「(たがいに一つだと思っていた)大昔の韓国の農村などに行って、もし味わえればとおもって」と答えたと、続けている。この時(1971年)に遡ること30年ほど前に、彼は現実のその地に念願叶って行った。だが、その時の記憶は、徴兵で運ばれた列車のレールの上から垣間見た風景の断片でしかない、とさりげない◆朝鮮半島と日本の関係史にあって、大きないくさは3つ。最初は白村江の海戦である。西暦663年8月のこと。唐と新羅の連合軍と百済と組んだ日本のいくさだったが、「日本の水軍は恐れも知らず全軍突入し簡単にやぶれた」。「わが水軍が、それぞれ先を争って猛進すれば唐の水軍はしりぞくだろう」との見立てだった。「日本人のいくさの仕方は、この時代から本質としては変わっていない」と、司馬さんは厳しい。「おろかなことをした」のちの日本の政治的心情は、「国際環境についての恐怖心」であり、唐と新羅が攻めて来はしないか、と怯えたという。いらい1360年ほど、この心情は今も大筋変わっていないと思われる◆その一方で、日本は朝鮮民族を舐めきってきたと言わざるを得ない経緯がある。それは後の秀吉の朝鮮出兵であり、日清戦争での勝利に起因する。司馬さんは、どういう方法で誰が計算したか知らないが、「朝鮮民族が外敵の侵入を受けた回数は有史以来五百数十回だそうである」と驚き、北から南から常に侵入されながら「ほろびることなく、南北とも堂々たる近代国家として国際社会に存在している。こういう例は世界史でもめずらしい」とまで褒め称えて、「凄味がある」としている。南の韓国はともかく、北朝鮮が堂々たる近代国家と言えるかどうか。大いに疑問だが、専制国家としてのマイナスの存在感は確かに大きい◆七十代後半の今の歳になるまで、私が韓国に行かなかったのは、ひとえに「気が重い」ことに尽きる。日韓、日朝の関係史を思いやるにつけ、「創氏改名」を代表とする、彼らの日本人への「怨恨」にまともに付き合いたくないからだ。司馬さんも「朝鮮人と政治問題を語ることを無数の理由から好まない」と明言している。この人は、あたかも美味しい魚を食べる際に、小骨が喉に刺さらぬように、「政治」を選り分けているかに見える。「文化・芸術」的視点から、この民族の持つ素晴らしさを語ってやまないのだ。ただ、選別され取り出された骨のなかに、「中国」という大骨が混じっていることが気にかかる。ここは骨までしゃぶる覚悟で、小骨は噛み砕くしかないのかもしれない。(2023-8-31)
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