NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が年末に終わって、脚本家の三谷幸喜を改めて見直してみたり、あれこれの俳優の出来栄えを、ひとしきり友人たちと論じたりもした。一番の効用は「鎌倉」という時代や武士の捉え方について関心を深めたことであろう。偶々、図書館で呉座勇一の『武士とは何か』の存在を知って読むに至り、大いに刺激を受けた。この人については新進気鋭の歴史家としてかねて注目してきたが、我が見立てに狂いなきことを実感した。この本は源義家から、伊達政宗までの33人の「中世武士たち」の言葉──名言、暴言、失言──を抽出した上で、その特徴を描きだしている。対比されるのは江戸時代に生きた「近世武士たち」の『葉隠』『武士道』といった書物で確立されたいわゆる〝武士的なるもの〟とは全く違う武士像が展開されて、まことに興味深い。『鎌倉殿』の時代を生きた武士たちがほぼ半分ほど登場して来ることから、映像を後追いする感もあり、懐かしさの中で、日本史の学び直しにもなる◆「武士とは何か」と、あらためて問われると、天皇=朝廷を武力で守ることを職業にした人たちというところだろうか。私は、平家と源氏の抗争の中で確立していった集団という風に、漠然と考えてきた。学問的には、「荘園の中で成長した上層農民が自衛のために武装して武士になった」との説が定着していたが、今は完全に否定され、発生を京都の武官に求める新説が唱えられたものの、論証は十分でなく、「武士発生論は手詰まりの状況にある」という。そこで、呉座は、歴史学会の伝統的なアプローチではなく、「武士の気風、メンタリティーを考える」ことにしたというのである。学者の世界の面倒でうるさい議論をとりあえず棚上げして、下世話な角度から考えようという姿勢は大いに賛成である◆中世と近世の武士──大河ドラマで比較すると、鎌倉殿の時代の武士たちと、家康が作った徳川の時代の武士とでは、気風が全く違うというわけだ。頼朝は御家人に所領を与え、御家人は頼朝のために戦う。この基本が崩れると、さっさと離れて違う主人を求める。「つまり、中世の主従関係は互いに義務を負う双務的関係である」。一方、江戸時代に出来上がった武士の世界は主君への忠義が絶対視された片務的関係である。現代日本では、ややもすると今に近い江戸時代の武士に親しみを感じる傾向があり、その眼で鎌倉殿・北条執権の時代を見てしまう。すると、簡単に主従関係が壊れることに違和感を抱く。身内でも次々と殺し殺される残虐性に少々辟易する一方、ドライな主従関係に新鮮さを持った向きもあろうか。江戸期に比べて、鎌倉期では独立心が旺盛だったといえるのだ。その辺りを比較して描いていく手法は小気味いい◆著者は、33人の武士たちの様々な発言を手際よく料理しながら、様々な歴史学者たちの旧説や新説を紹介していく。例えば、有名な藤原定家の「紅旗征戎、我が事にあらず」について、戦や政治にまつわる出世に関心を向けず、詩歌の世界に没頭した定家のこころぶりといったこれまでの定説を破って、彼がその道についていくだけの力がなかったからだとする説を紹介している。天の邪鬼な私など大いに共鳴する。また小説家の井沢元彦との論争をめぐっても触れられており、面白い。歴史学者をいいように叩いてきた井沢と、呉座の間では週刊誌上での公開質問状などのやりとりがあるが、私は井沢ファンとして、歴史学会を向こうに回して、喧嘩をふっかけた意気や壮なりと評価してきた。呉座がこの本で学者の様々な新旧の学説をわかりやすく紹介しているのは、この論争の影響もあるに違いない。(敬称略 2023-1-4)
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(第5章)第6節 仏像、古物に取り憑かれた記者──武田良彦『骨董病は治りません』を読む/12-28
骨董品で溢れかえったマンション
いやはや、呆れ果てた。4LDKのマンションの部屋のすべてが骨董品でいっぱいなのだ。著者との付き合いは、私が新人議員だった頃に遡るが、神戸新聞の東京詰め記者だった。それからほぼ30年。こんな趣味があるとは知らなかった。先年ある日。突然にこの本が送られてきたので、お礼を言うべく電話をかけたところ、偶々彼が主宰する「芋煮会」が近日にあるという。これは行くしかないと即断した。
リビングには仏像やら埴輪のようなものが林立。ソファの上にも大日如来像が。普段は武田さんの枕元で寝姿を見つめてるとのことだが、来客で布団を片付けるついでに、その像もソファに移動するとのこと。徳利、花瓶茶碗、急須、お皿と思しきものや古銭など、本来収まるところからはみ出て、ところ狭しと並ぶ。絵画の類も同様。壁にかけられたもの以外はあちこちに立てかけられている。
およそ私は骨董なるものに興味がなかった。旧友が京都や奈良の古寺漫遊のついでに、骨董品を見て回るということを楽しげに語っても、聞き流してきた。そんな私がこの本を読む羽目になった。元々新聞に連載されたものだけあって、実に読みやすく面白い。全部で66編。一つずつにオチがあり、まるで落語集。導入噺が泣かせる。
骨董屋の店主との25年前の神戸での〝処女体験〟だ。松の図柄入りの古伊万里のそば猪口に目が止まった。値段は、聞くと15000円。額の汗を拭う彼に店主は「お客さん、骨董を買うの初めてやね」と。店主の骨董入門のご高説を聞くも決断がつかない。結局は値段が半額だった傷ものを買った。その夜。念入りに漂白剤をつけて洗ったのち晩酌を始める。すると、買いそびれたあの松の図柄が脳裏に。なぜ買わなかったかと、夜通し後悔する。翌日仕事後、直ぐに店に行く。亡母への香典が入っていた財布から、店頭に並ぶ5個全て買った。猪口の飲み口の傷には、恐るべき「骨董病のウイルス」が入っていたに違いない、と。ここから先、次々と体内に広がった病の進む様子が語られる。
店の主人との駆け引き、お金との相談。パターンは似ているものの、対象が変わる上、段々上手くなる買い方の手口に、引きこまれる。ページを捲るうちに読む方にまで病がうつってきそう。怖くなる。ただ、この病、うつって欲しい気もする。日本の歴史、文化への関心が大きく変化するという副作用つきだから。
「紅旗征戎吾が事に非ず」
藤原定家の短歌の掛け軸を、京都の古美術品オークションで20数万円で落札した話が出てくる。堀田善衛の『定家明月記私抄』を読んで以来、定家が日記に残した「紅旗征戎吾が事に非ず」が気になっていた彼は飛びつく。1989年のベルリンの壁崩壊を機に、文学、政治に関心をなくしていた胸に響いたのだ。政治には関与せず、歌の道に専念するとの芸術至上の生き方に共鳴するものがあったのだろう。尤も、私はかつて定家のこの言葉を知った頃に、彼とは違う感慨を持った。定家は当時の政治に直接関与できない故に別の道に進んだに違いないと、思ったのである。
「1989年」は確かに大きな転換期であったが、私は一段と政治にのめり込んだ。ほぼ30年が経って、ゴルバチョフの「理想」はうたかたのごとく消え、プーチンの「現実」が執拗に世界をさいなみ、消えない。人の生き方では、武田さんの見立てが正しかったのかもしれない。
一番高い買い物を彼がしたと思われるのが200万円の脇差(小刀)。鳥取の古美術店で一目惚れして、定期預金を解約する。15万円以上のものを買ったことがないのに。この病に罹る人が不定期に起こす〝発作〟らしい。毎夜、寝る前に刀を抜き、刃紋や拵(外装)を眺めるのが日課になる。3日目の夜、深酒をして帰った彼が刀を眺めていると、突然、両手が勝手に右首筋にその刃を寄せた。逆らえない力が両手を動かしたのだ。そこへ、天井から声が降りてきて、「切れ」「切れ」と。「背筋に異様な寒気が走り、すんでの所でわれに返った」という。幸か不幸か、翌朝店主に事の次第を話すと、快く返品に応じてくれた。いらい、刀剣には手を出すまいと彼は決めるものの、20数年ぶりにまた発作に見舞われる‥‥といった具合に続く。
芋煮会の場で、こんなに集めてどうするの?と訊いた。眼鏡をかけた仏像のような顔はニコニコするばかり。その時私は、この御仁は骨董品屋になるに違いないと思った。
【他生のご縁 〝おひとりさま〟ゆえの〝求道〟】
武田さんはかつて但馬支局時代に、出石出身の加藤弘之第二代東大総長の史伝を書きました。なかなかの出来栄えに、いつの日か2作目をと期待していたら、ようやくこの本が出たのです。
こうした趣味が続くのも一人暮らしだからに違いありません。仏像に添い寝されるよりも生身の、と思うのですが‥‥。古いものを愛する彼には若い娘さんは、似合わないのかも。そのうちに、大年増を紹介されるのかも、と睨んでいます。
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【65】最後の〝日本男児〟ここにあり──佐々淳行『香港領事動乱日誌』
◆惚れ惚れする気概に満ちた生き方
およそ30年越しだろうか。読まねばと思いながら、先送りしてしまい、ついに今頃になってしまった。佐々淳行といえば、『東大落城』『連合赤軍「あさま山荘」事件』などで有名な警察官僚の現場指揮官だった。危機管理のプロ中のプロである。私が国会で初めてお会いした頃は、評論家として縦横無尽の活躍中。そうした佐々さんにとって、この本は原点とも言える時代の記録である。
これを選んだのは、20世紀末の香港を中心にした東南アジアが舞台であることが最大の理由である。警察庁から外務省に出向された当時の彼の目から見た緊迫するアジア情勢やら、便宜供与を強要する政治家たちの呆れる行状(これは心底恥ずかしい)など、硬軟取り混ぜた面白い話が満載されていて飽きさせない。極め付けのエンタメ本とも読める。
全編通じて伝わってくるのは、「日本男児ここにあり」と表現したくなるほどの心意気であり、惚れ惚れするような気概に満ちた佐々さんの生き方がある。香港着任前の米国での「ケネディ暗殺事件調査」や、後段のベトナム戦争時の「サイゴン籠城記」も滅法面白い。冒険活劇に溢れた展開に危機管理のエッセンスが詰め込まれた小説を読むかのような興奮を感じる。
官僚、政治家、企業家は勿論のこと、老いも若きも日本人ならみな読むべき本だと私は思う。1965年から68年までの4年間、彼は香港に勤務したのだが、実はこの期間はちょうど私の大学生時代と重なる。その意味では、私にとっては異次元であるもののタイムスリップを経験したようでもあった。
◆常にとっさの行動が出来る様に
未知の場所で仕事をする際に、どう無縁のターゲットに近づくか。戦時における生死を分ける場面で、とっさにどう振る舞うか。前者では、有力な紹介状の威力が語られている。正門からがダメなら裏門、勝手口からでもというわけで、人脈の大事さが強調される。信用第一に常日頃からの所作振る舞いが肝心と改めて知る。後者は、銃を突きつけられても、ビクビクせずに、「胸をはり、相手にこんなに威張ってるところをみると、それだけの権力と理由があると信じ込ませる」ことだ、と。このくだりでは、「脳内に蓄積された知識は役に立たず、全部外にある情報によって常にとっさの行動をする知恵」としての「アフォーダンス(生態環境情報適応能力)」が必要だ、と力説する。
佐々さんは「生死関頭に立つと私の神経は研ぎ澄まされ、頭は冷たく冴え、しかもフル回転しどう行動すべきか本能的に即断即決できる」と豪語する。さもありなんと思わせるものの、「この能力はゴキブリなどが優れている」と付言されていて、笑いを誘うのだ。
新米香港領事の最初の大仕事は、香港島と九龍半島の中間に横たわるストーンカッターズ島の日本海軍将兵の遺骨収集だった。百数十体の茶褐色に変色した人骨を発掘して三十ほどの麻の叺に入れていく作業。日本海軍の鎮魂歌を歌った後に、ジリジリと照りつける太陽のもと、頭骨は手掘りで、後はスコップを使って掘り出す。腐食した鉄兜、ガスマスク、軍靴から、千人針に縫いこまれた5銭銅貨に至るなどまで、沢山出てきて胸がつまったと、ある。すべて終えて去りゆく舟艇に、英軍兵士たちが不動の姿勢で見送る場面に、佐々さんは「思わず目頭が熱くなってきた」と心情を吐露する。
香港暴動のさなかに、一時帰国の機会が巡ってきた時、佐々さんは悩む。帰りたいがこんな時に〝敵前逃亡〟と言われたくない。そんな折、緊急脱出の手立てを協議してこいとの特命が下る。先輩の配慮だ。身重の妻や2人の幼児を連れて帰国する。一転、香港へ帰任する際に、妻を連れ帰れるかどうかで悩む。単身赴任すれば、香港は危ないと、周りに危惧される。家族の安全を考えるのは人情である。事態打開は「私、一緒に帰ります」との妻の一言だった。
彼女が後になって香港で英国軍人たちと懇談する際のやりとりが面白い。「東京に残れたのに、戻って来てくれて、偉い」「主人ひとりで香港に帰すわけにはいきませんでした」「それはまたどうして」「だって香港には舞庁(ダンスホール)が沢山あるから」──この会話の見事なユーモアセンスに微笑むばかり。ともあれ、この本から大いなる収穫を得た。
【他生のご縁 「励ます会」で講演していただく】
佐々さんとは、僅かでしたが一緒に仕事をしました。防衛関連法案などをまとめる際に、与野党の作業チームに助っ人として参加してくれたのです。それがご縁で、あれこれと親しくさせていただきました。最大の思い出は姫路での励ます会の講演にスピーカーを引き受けてくれたことです。開口一番、「私は多くの政治家の応援で講演をしてきましたが、公明党では赤松さんが初めてです」と。
かつて、石破茂さんを励ます会に招くときに、支援団体から反発されました。防衛についての姿勢に問題あり、と見られたのかどうかは定かではありません。しかし、佐々さんの時にはさして反対の声はありませんでした。彼の方が筋金入りの右派の立場でしたが。時代の変化だったのかも知れません。私はどちらともウマが合いました。
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(第4章)第4節 すべては母親の「胎内環境」から──D・バーカー著/福岡秀興監修・解説『胎内で成人病は始まっている』を読む/12-13
「遺伝主義」「環境決定説」を退ける仮説
「心臓病、糖尿病、脳卒中などの病気(成人病)は、胎児期にできあがる胎内環境にその起源がある」──「成人病胎児期発症説」を詳しく説明したのがこの本である。従来からの「受胎時に決まる遺伝子が赤ん坊の身体を左右する」との「遺伝主義」を否定し、「生活習慣病」という名が意味する「環境決定説」も退ける。1980年代から提唱してきた英国の医学者・デイヴィッド・バーカー教授のこの仮説を、「21世紀最大の医学仮説」として、日本にあって高く評価し続けているのが、福岡秀興医学博士である。この本の監修者であり、「日本の危機的状況」というタイトルの解説を書いて、ダイエットに勤しむ若い母親たちに警告を発している。兵庫県姫路市生まれ、私とは同郷であり、30年来の友人でもある。初めて会った頃から今に至るまで、一貫して変わらず日本の若い女性たちに対して、スタイルを気にする〝やせ願望〟への苦言を呈し、正しい食生活の大事さを説き続ける。
「ジョン・クレッグは角を曲がってブランチ・ロードに出ると、堤防に続く下り坂を歩いていく」と、小説風の書き出しで始まる。この人物がその後、突然、胸から左腕、首にかけて鋭い痛みが走り、救急車で病院に運ばれる。医師の診断を受け心臓病発症を告げられた。クレッグ氏はいったいなぜこうなったのか、タバコも吸わないのにと、ぼやく。看護師は「あなたのお父さんも心臓病だったそうですね。だからこれは家系ですよ。遺伝なんです」と、伝える。その会話を聞いていた、隣のベッドのモハン・ラオというインド系の男性が口を開き「私の場合は、インド人の遺伝子が悪いんだとさ。糖尿病になりやすいんだ。出身地のマイソールは糖尿病が多くて、心臓病になる人がたくさんいる。わたしはその両方になっちまった。まだ、35歳で、肥満でもないっていうのに」と。実は私もこの会話に似たような経験をした。かつて脳梗塞で入院した時に、「運動もしてきたし、タバコも吸わない。そやのになんでこうなるんだ」とぼやいた私に「運動してても、タバコ吸わずともなる人はなるのよ!」と、女医から言われたものだ。
「成人病胎児期発症説」の起源
著者は、いわゆる成人病がなぜ発症するのかについて、地理的な分析に始まり、個人の一生、とりわけ発育期の研究に取り組む。一方、胎児の栄養源を追うため、妊娠女性の食生活を検証するなど、広範囲な分野からの調査内容を分かりやすく解き明かす。その結果として、「成人病胎児期発症説」を提案するに至っている。このことを監修者の福岡さんは「読み進むうちに、最初は荒唐無稽であると考えていた人であっても、次第に納得していく自分の姿に気付かれる」「ごくごく常識的な考え方なのである」と推奨する。
福岡さんは、「日本では成人病を生活習慣病と名付けたことから、厚生労働省には生活習慣病対策室という成人病に対する部局があり、一般的にも生活習慣病検診という名称が定着しつつある」として、「成人病は遺伝素因に加え、生活習慣に起因するところが大きいとの認識が独り歩きしてしまい、(中略) そこから成人後の生活習慣のみ注意すれば成人病が予防できるという考えが起こってくる可能性があり、これはまさに、成人病の本質を大きく見誤る」と、厚労省の責任を力説しているのだ。
福岡さんが昨今の若い女性たちの平均体重の低下について警鐘を鳴らしていることには十分にうなづける。「やせ状態の女性が妊娠した場合は、すでに低栄養状態で妊娠したことになるし、妊婦健診では、体重増加を抑制する指導が多い。このような環境では胎児発育に大きな影響が出ると考えられる」と述べ、「小さく産んで大きく育てる」との日本の慣用的パターンが、いかに危険であるかを強調しているのだ。
妊娠中も母体本体を痩せたままの状態にしておき、小さく生まれた赤ん坊に一転過剰な栄養を与えるというやり方は、理にかなっているとは思えず、危険なことだといえよう。胎児期の栄養状態が成人病の主犯であるかどうかについては、異論があろう。遺伝、生活習慣との複合的相互作用ではないかと言うのが常識的見解のように思える。だが、「人生のベストスタートは胎内で始まる」から、母親の健康が第一ということには誰しも首肯できると思われる。
【他生のご縁 奇人会ならぬ姫人会で】
物腰柔らかく、紳士然とした福岡さんですが、成人病が胎内から始まってるとの主張については一歩も引かぬ強い姿勢を崩されません。姫路出身の仲間たちが集まると、時にこのテーマが話題になり、侃侃諤諤の論議となってきました。
私の父も糖尿病を患っていましたし、私自身盛んな飲み食いを生活習慣にしてきました。加えて、母親から、お前がお腹にいるときは、大豆だけが栄養だったと聞かされて育ちました。戦争末期の生まれですから当然でしょう。となると、やはり、三つの要因が重なってるように私には思われてなりませんが‥‥。
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(第4章)第1節 天の企みと人の巧みさに酔う──伏見康治、安野光雅、中村義作『美の幾何学』を読む/12-7
文様にこだわる物理学者
伏見康治さんってどんな人か?───「統計力学の分野で多大の研究業績を残し、また日本の科学研究体制の確立と発展に大きく貢献している原子物理学の泰斗」。共著者のひとり、数学者の中村義作さんの言である。さらに続く。「伏見康治先生のお名前は学生時代からよく知っていた。河出書房から出版された先生の名著『確率論及統計論』は小生の座右の書で、学生時代に徹底的に勉強し、その内容の深さと明快な解説で強烈な刺激を受けていた。小生のような若輩者からは、伏見先生はまさに雲の上の存在で、対等にお話しするなど夢想もできない」と。そんな伏見さんと、私は一時期親しくお付き合いさせて頂いた。公明党から参議院議員に出馬されたとき(1983年)に、機関紙での人物紹介欄を担当することになったからだ。
ここで取り上げた本は「文様にこだわる物理学者」として、「数学マインドにあふれる絵本作家、そして遊び心旺盛な数学者」と、自由闊達な鼎談を繰り広げたものである。幾何学の面白さが縦横無尽に語られていて、全く数学が苦手だった私にもそれなりに楽しく読めた。かねて、伏見さんは「折り紙」に、ご夫妻揃ってはまっておられた。そこを中心にして「人物像」は書いた。「折り紙」というと、「千羽鶴」を選挙のたびに皆さんから頂きながら、自分では全く折った経験のない無粋者なのだが、改めてこの本を読み、その奥深さを垣間見る思いがした。「鶴を折るのに、最初の出発点の紙を正方形にしないで、菱形にするわけですよ。それでも折れるわけです。そうすると、翼が長くなったり、短くなったり、首が長くなったり、短くなったり、いろんな形の鶴がワーッと出てくるわけですね。まさに神様になったような感じがしますね」と笑っている。
自然界はなぜ対称が美しいのか
この鼎談の冒頭で、伏見さんは「(自然界は)なぜ対称が美しいのか」という疑問から初めて、次々と読者を深みに誘う。例えば、北斎の富嶽三十六景の中の富士山の絵。前にある湖面に映った逆さまの影が左に偏っている。これはなぜか?北斎が「この絵で鏡映以外にも対象性があるんだということを教えようとした」のではないかと睨むのだ。絵や文様、紋章などをふんだんに織り込んでの解説にはグイグイ惹きつけられていく。例えば、紋と文様の魅力について。「シンメトリーにすると、とにかく何かが出てくる」し、「紋というのは対称的なんですよ。(中略) ある対象に対称性があれば、それはパターン認識の一つの有力な手がかりになる。で、紋章に対称性があるのは、これがなにかマークだということを思いつかせるのに非常にいい端緒になる」という。しかし、日本中の都市の紋章には「どうしてあんなくだらないものを作るのか」と嘆く。「(福島市は)フの字が九つあって、マの字が四つある(笑)。大阪の『みおつくし』とか、神戸の『扇面二つ』とか、古いのにはいいのがある」と褒められて、関西人の私はニンマリする。
次にだまし絵で有名なエッシャーを語るところでは、「あれは本当に美と関係あるのかな」と問いかけ、「美しさよりも面白さというもの」とし、ヨーロッパ人は、「不気味なものを平気で描く」し、「妖怪変化に満ち満ちている」と断定される。私には興味深い日欧の美的感覚比較論に思われた。安野さんは伏見流「寄せ木絵」について、「幾何学的数理の裏づけ」に加えて「絵描きとしてのセンス」があると持ち上げ、楽しい会話が続く。
こうした会話の端々に、自然界の不思議さと人間の知恵の力をめぐる考察が仄見えてくる。中でも、道路の敷石と、石垣の石についての日欧比較は面白い。すべての道はローマに通ずる、という慣用句通り、ヨーロッパでは石の道路が発達した。だが「日本の石垣は、『桧垣』とか『網代』とかよばれている文様の形になっているのが非常に多い」とし、その理由は「斜めに積んだ石が互いに左右に力を及ぼして、非常に堅固なものにしてくれる」から、軍事的要求の結果かもしれないという。初めから狙ったのでなく、「力学的合理性を狙った結果が美しくなった例になる」との解説には大いに納得できた。最後は、幾何学が昨今顧みられていないことへの抗議で締め括られる。「代数」が苦手で、一本の補助線を引いて解決する「幾何」の魅力を感じた私など、大いに賛同する結論に満足した。
【他生のご縁 参議院議員候補として取材を担当】
伏見さんのお宅にお邪魔した時の思い出は忘れ難いものがあります。ベテランカメラマンのSさんと同道したのですが、スナップ写真をとる段になって、彼がいきなり、伏見さんの頭髪の乱れを手で撫で始めたのです。名だたる学者の毛数少ない頭部をなでなでする先輩の仕草に一瞬私は固まってしまいました。
神妙な顔つきでされるがままになっている伏見さんの姿が目に焼きついています。僅か1期6年だけの議員生活のあらゆる場面で、「稔るほど、頭を垂れる稲穂かな」という格言を思い知らされる深いお人柄に感じ入ったしだいです。
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【62】5-③「まだ未だ遠いあの旗のところ」──安野光雅『絵のある自伝』
◆『即興詩人』を口語で訳す
絵本作家の安野光雅さんが亡くなって、昨年12月24日で3年になった。先年三回忌を前に、この偉大な芸術家の自伝を読んだ。2011年に日経新聞の『私の履歴書』に掲載された(2月)ものが、加筆され出版の運び(11月)となった。実は今からちょうど40年前の1982年に私は、この人のご自宅を訪れて、お会いした。安野さんが56歳くらい、私は37歳ほどだった。なぜ会ったかは、もう1人の偉大な人物が関わっているのだが、その人のことも含めて後ほど明かす。ともあれ、思い出深い人だ。
この人の絵にはファンが多い。淡い水彩画というのだろうか、じっと目を凝らして細部を見ると、子どもの描いた絵のようで、うまいようには見えない。だが、全貌はなんともいえぬ味わい深さが漂う。目にするたびに、ほっこりとした気持ちになり、癒される。素晴らしい絵だといつも感心する。絵描きが本業だが、文章も達人の域である。その上、人との交流が広く深く、そして卓越した読書家でもあり、ユーモアに満ち溢れた洒落者でもある。
安野さんは島根県津和野町の生まれ。実はこの地は森鴎外の生まれたところでもある。2022年は鴎外没後100年(同時に、生誕160年)とあって、様々な企画がメディアで展開されてきた。この本でも随所に鴎外に関することが出てくるが、何と言っても『即興詩人』が極めつけ。北欧デンマークの童話作家アンデルセンの描いた、イタリアを舞台にした小説を文語で訳したのが鴎外で、それを安野さんは口語で訳したのだ。12年前のことである。
この本は「青年時代からずっと、無人島へ持って行く一冊の書として思ってきた」し、「数えあげればきりがないほど人生について考えさせられる主題がある」と言い切る。80歳まであと2年になろうとする私は今まで読んでこなかった。まったく、笑うしかない。「白髪は死の花にして、その咲くや心の火は消え血は氷とならんとす」「恋せよ汝の血の猶熱き間に」といったセリフは、みなこの本ゆかりの歌にあるというのに。
◆司馬遼太郎『街道を行く』の挿絵を担当
司馬遼太郎の『街道を行く』には、この人の挿絵が添えられた。こっちの方は、安野さんの絵に引き寄せられてそれなりに読んだ。「司馬史観」なるものにはいささか疑念を持つ私だが、このシリーズは大好きである。一人旅をしたダブリンには『アイルランド紀行』を持って行ったほどだ。「司馬さんと過ごした取材旅行は、近年になく楽しい日々だった」という安野さんだが、奇妙な〝弥次喜多風コンビ〟だったのではないかと、私は睨んでいる。
司馬さんがいかに心遣い細やかな人だったかに触れているが、安野さんもその人となりの深さが汲み取れる。例えば、バス停でひとりバスを待っていた彼のところに、朝鮮人の老婆がやってきて「バスキタカ」と言った。「モーリーヨ」(知らないとの意味)と安野さんは聞き覚えの言葉を発した。すると、彼女は目を輝かして「ニガチョウセンサリミヤ」(お前は朝鮮人だったのかの意味)というと共に「ヒトリダマリノミチナガイ フタリハナシノミチミジカイ」と言ったことを紹介し、「私はそれまでこのように美しいことばを聞いたことがないし、これからも聞かないだろう」と述べている。
さて、私がこの本で最も胸うたれたのは、最終コーナーに出てくる「空想犯」。読んで笑い止まらず。絵があれば一目瞭然なのだが、文章のみでは、少々残念である。「旧年中は世間の皆様にいろいろご迷惑をおかけしました 今年は真人間になってまじめに働きますので どうかよろしくおたのみもうします」との年賀文と、小金井刑務所 八一独房3023号の差し出し人住所。謹賀新年の上には、マル検の印と、所長犬井 看守長犬塚 看守犬飼 との印も。手の込んだ冗談であるが、これを真に受けた親戚友人たちの大騒ぎが披露されて、まさに抱腹絶倒ものである。
「誰もが大志を抱くだろう。少年のころ『あの旗のところまで』と思い描いた大志は今もかわらない。エキマエエカキでもいい、と願っていたら、果たせるかな津和野の駅前に美術館ができた。それなのに、まだおもう。あの旗の立っているところはまだまだ遠いらしいのだ」──このようにあつい志満ちたことばを私は未だ目にしたことがない。
【他生のご縁 普段から政治を学習する大事さ】
40年ほど前のこと。参院選に公明党が党外候補として担ぎ出した著名文化人の一人に学術会議議長だった原子核物理学者の伏見康治さんがいました。私が公明新聞記者として推薦原稿を書く担当になった伏見さんを推した人が安野さん。趣味の折り紙と絵の繋がりでした。早速安野宅を訪れました。
その時の彼の話。ここには公明党の応援をされる学会員さんも見えますが、共産党の支持者も来ます。公明党の人は大概が候補者の名前をだし、いい候補者だから応援してくださいとしか言わない。一方共産党の方は政治に関する様々な主張を毎回述べていく。その都度、成長がある、と。痛烈でした。昔の話ですが、悔しい思いがしたものです。いらい、政治学習の大事さを心に銘記しました。
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【61】4-② 人間らしい暮らしへあくなき挑戦──中内㓛『流通革命は終わらない』
◆経営者に邁進する決意が固まったひとこと
中内㓛といえば、高度成長期の日本にあって、「主婦の店ダイエー」で「流通革命」を起こした〝偉大な経営者〟である。その彼がもしかすると中途半端な経営者に終わったかもしれないというエピソードが、この本に出てくる。〝経済界ご意見番〟として著名だった三鬼陽之助氏との出会いの場面である。当時、中内さんの『我が安売り哲学』(昭和44年出版)は、「消費者主権」の考え方を初めて打ち出したものとしてベストセラーになっていた。経済学者・伊東光晴氏らの手になる『戦後日本思想大系』の中に取り入れられたほど評価は高かった。
ところが三鬼氏は「バカヤロー!経営者になるのか、物書きになるのか、どっちだ」と、怒鳴ったというのだ。この言葉で絶版を決断できたと、中内さんは感謝している。経営者に邁進する決意が固まったということに違いない。昭和49年、53歳だった。これ以後一切本は書かなかった。若き日、「新聞記者になりたかった」という中内さんだけに、書くことへの執着は強かったはず。それを断ち切った一言だった。
『流通革命は終わらない』は、日経新聞の『私の履歴書』が原型である。中内さんは、メーカー、生産者に代わり、スーパー、消費者が主権者になる、それが流通革命だとテープレコーダーのように言い続け、どんな批判にも屈せず行動し抜いた。その信念に貫かれた人生だったことがここには描かれている。
既成の概念、権威に対抗し続けた顛末の圧巻は「松下幸之助氏との対決」のくだりである。昭和40年代初頭、ナショナルとダイエーの対立は国会も巻き込む話題となった。「水道から出る水のように、豊富に、世の中の人たちに電化製品を供給したい」という「水道哲学」と、「ひとたび市場に出た商品の価格は、需要と供給の関係で決定されるべきである」との「安売り哲学」がぶつかった。「もう覇道はやめて、王道を歩むことを考えたらどうか」──〝流通経路破壊はやめてくれ〟との松下氏の苦言に中内さんは無言で抵抗した後、「そうですか」とだけ答えた。反論を呑み込んだのである。「会談が物別れに終わり、『真々庵』を出ると、雨が降っていた。松下さんが傘を自分で差して、私を送ってくれた。それを最後に、再び会うことはなかった」。
◆戦争一色だった青春
スーパーの登場に怯えたのは地域の小売店も同様だった。スーパー進出反対のデモが各地で展開された。それには「日用の生活必需品を最低の値段で消費者に提供するために 商人が精魂を傾けて努力し その努力の合理性が商品の売価を最低にできたという事が何で悪いのであろうか?」との張り紙で反論した。「地元商店街とは共存共栄するつもり。反対はないと思う」と、中内さんが語った言葉が第二部の資料集にある。「革命」に犠牲はつきもの。時代の流れにさをさす人と抵抗する動きは避けられない。私は、現役時代から大型スーパーに圧迫される小売市場を救済する試みに、現在に至るまで参画し続けている。政治がなすべきことの大きさを実感してきたものである。
大正11年生まれの中内さんの青春は戦争一色だった。従軍体験が後々の人生の骨格を形成した。関東軍二等兵として昭和18年1月に入隊。鼻毛も眉毛も凍る零下40度の極寒の地での従軍から、19年夏には炎熱のフィリピンへと軍曹として転戦。6月6日未明に北部山岳地帯での敵塹壕への切り込みで、手榴弾のさく裂に遭う。全身に破片が突き刺さり、大腿部と腕から「ドクドクと血が噴き出し、出血多量で眠くなる」──偶然近くにいた衛生兵や古参の上等兵ら戦友の対応のお陰で、「これで一巻の終わりだ」と覚悟した窮地から救われた。
「傷口にはウジ虫がわき、腐った肉を食う」「アブラ虫、みみず、山ヒル‥‥。食べられそうなものは何でも食う。靴の革に雨水を含ませ、かみしめたこともあった」などの悲惨な体験は、大岡昇平の『野火』の世界そのものだと振り返っている。この辺り、「とても長いあとがき」の「野火は今も燃えている」に詳しい。「人生は、一期一会の出会いの旅。若者との対話を大切にし、逃げて行く今を懸命に生きる。緊張感を持った、今、今、今の連続。刹那生滅、刹那無情」といった心情の発露は、後に続く私たちへの遺言のように響く。
【他生のご縁 母校の80周年での語らいと共演】
私は長田高校(旧制神戸三中)の中内さんの後輩になります。同校80周年記念式典に、神撫会会長(同窓会長)と、現役衆議院議員として一緒に招かれました。控室で、中内先輩はちょっと精彩がないように見えました。「何もかもうまくいかないよ、最悪だ。福岡ダイエーホークスが優勝したことだけが嬉しいけど」と呟くように口にされました。「大丈夫ですよ、元気出してください」と精一杯私は激励したものです。
私は高校時代に、母校の先輩であるジャーナリストの大森実さんの講演を聴き、志を立てました。この日の壇上挨拶で、そのことに触れました。大森、中内の御両人はこの本に登場する友人同士。私の後に話された中内さんは本来の元気さをすっかり取り戻されたように思えました。
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【60】3-① ウクライナ情勢とダブらせて──中村正軌『元首の謀叛』
◆日航社員から転身し直木賞受賞
東西両ドイツが背後にそれぞれWTO軍とNATO軍を擁してツノ突き合わせる。この本が世に出た当時(1980年)は緊迫した状況が続いていた。著者の中村正軌さんは米、独など海外勤務の長い「日本航空」の社員だった。帰国後、横浜から東京への通勤途上に、満員電車の中で本の構想を練り、自宅に帰ってせっせと原稿を書き続けた。その作品が直木賞を受賞した。「国際情報小説」に当時浸っていた私は、同じ趣味を持つ上司の市川雄一編集主幹からこの本の存在を聞いた。もう40年も前のことである。
タイトルは印象に残っていたが、内容はほぼ忘却のかなただ。それを再読してみる気にさせたのは、もちろんロシアによる「ウクライナ戦争」である。プーチンとゼレンスキー。2人の大統領の存在と、この本のタイトルにある「謀叛」が気にかかった。「ぼうはん」と読ませるが、裏切りを意味する「むほん」のことである。仮にいまもしかして、と〝想像のつばさ〟も広がる。もちろん舞台は全く違う。当時ソ連圏の一部であったウクライナが、独立したはずなのに、かつての盟主国に攻め込まれ、防戦が続く。現在只今の戦争を横目に、過去のフィクション小説を読んでみた。
「月の無い真暗な湖面に頭だけを出して周囲を見霽かすと、じっと動かぬ陸上の多数の光と、微かに揺れているヨットやボートの点々とした光が見える西岸の光景とは対照的に、東側には何一つ光るものがなかった」──東ドイツ側から「西」に潜入する若い将校。彼が地下トンネルを這って、森と湖を見やる冒頭のシーンは、幻想的な風景描写で、一気に当時の国際環境を想起させる。東西ドイツを分つ壁を舞台として、のっけから手に汗握るドラマが展開されていく。
◆豊富な情報量を基に奇想天外な想像性
中村さんが書き進めていた頃、現実の国際政治では虚々実々の駆け引きが壁の内と外とで展開されていた。西ドイツに攻め込むことを押し付けられた東ドイツのトップ・ホーネッカー書記長がソ連に叛逆し妥協を選ぶという驚き呆れる筋立て。若い将校が相手方のシュミット首相への密書を隠密裡に運ぶ離れ業を担わされて動く。ヒチコック映画「鳥」のような飛び立つ無数の鳥、敵と見定めたひとに襲いかかる一匹の「犬」のリアルな動き、老夫婦の豊かな人情などを挟み込む見事な活写。東欧の経済的困窮ぶりをめぐる考察とか、血を分けた兄弟、親子の運命的別れと再会、ドイツ・ゲルマン民族の統一への夢が織り込まれて興奮させられずにはおかない。
豊富な情報量を基に、奇想天外な想像性、正確無比と思しき事実認識力などが横溢している内容にただ感嘆するほかない。劇画風の小説を読み慣れた向きや、男女の絡み合いがお好きな読者には不向きかも知れないが、正統派には堪らないはずである。
初めて世に問われてから長い時間が経った。東西の壁が崩壊して、中村さんの描いたようにはならず、ひとたびは平和裡にことが運んだ。〝事実は小説より奇なり〟とのことわざ通り、戦争に発展せずに、ソ連の自滅を招いた。その背景には、伝統的なソ連の政治家とは肌合いを異にする理想主義者ゴルバチョフと、統一ドイツを目指してひたすら現実主義に徹したコールという〝2人の役者〟の存在があった。
結果から見ると、ゴルバチョフが楽観的に過ぎて、NATOのその後の展開を封じ込めることに失敗した。それが、今のプーチン・ロシアの怨念に繋がり、ウクライナの犠牲をもたらしたとも言えよう。「元首の謀叛」というタイトルを今に当て嵌める誘惑に駆られる。ロシアのウクライナ侵略が始まった当時は、ゼレンスキー大統領が逃げ出すのではないかと見る人がいたり、プーチン大統領暗殺を口にする人々が後をたたなかった。中村さん風に今の状況を見立てると、誰かの謀叛こそ世界を救う一歩足り得るのに、と思うのだが‥。
【他生のご縁 新聞小説執筆を依頼するも‥‥】
公明新聞紙上に連載小説を中村さんに書いて貰おうと、市川雄一さんが言い出しました。お前も来いと言われて、中村さんとの執筆依頼の場に同席させていただいたのです。だが、新聞連載は荷が重いと固辞され、こちらの企ては沙汰止みになったのですが、その場での語らいは実に愉快なものでした。『元首の謀叛』原稿は書き溜めたものの、ものにならぬと思い込み、押し入れに放りこんでいたそうです。ある編集者との酒席で話題になり、陽の目を見るに至ったと聞きました。
私が『忙中本あり』の出版記念の集いを開いた際には壇上花を添えていただきました。政治家の皆さんを壇上にあげず、中村さんを始めとする作家や学者、文化人ばかりに並んでいただいたのですが、衆院憲法調査会長の中山太郎さんから、「赤松さんのパーティーは政治家のものというより、文化人の集まりだったね」と感心されたものです。中村さんとはその後会う機会がないまま永遠の別れをしてしまいました。今ありせば欧露関係で蘊蓄を傾けて欲しかったとしきりに思います。
(注)中村正軌の軌は、車へんに几で、まさのりと呼ぶのですが活字が発見できず、簡易的に済ませたことお断りします。
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【59】6-⑦ 地獄の沙汰にも屈しない──村木厚子『日本型組織の病を考える』
◆まるで犯罪推理小説のおもむき
村木厚子さん──郵便不正事件で不当逮捕(2009)され、454日間勾留され、無罪が証明(2010)されて今度は一転、厚生労働事務次官に就任(2013年)、退官後(2015年〜)は様々な福祉活動を展開する。話題になり続け、最近は忘れられているこの人のことを改めて考えたいと思い、出版から4年経ったこの本を選んだ。まるで犯罪推理小説を読むように吸い込まれながら、胸打たれ涙することもしばしばだった。検察官のデタラメに歯ぎしりする思いに陥りながら、心温まる家族愛や友情溢れる仲間たちの支援に感激する。そして「日本型組織」のもつ病理に思いをいたすことになった。
これほど起伏に富んだ読み応えのある事実に基づく問題提起をする本はそうザラにない。働く女性たちは、その逞しい〝燃える魂〟に感化され、己が平穏な日々を自省する。働く男たちは、こんな難事が自分の人生に降りかかってきたらどうするかと身構える。私のような後期高齢者は、のほほんとして生きてきた人生との比較に慄然とする。いやはや凄い。あまりのスーパーウーマンぶりに驚くばかりである。これは優等生たちの〝別世界の物語〟だと、凡人が思い込む危険性さえ潜んでいよう。
というのは全部読み終えての読後感。前半1-2章はひたすら検察の無謀な悪だくみに呆れ果て、半年近くに及んだ彼女の拘置所生活に怒り天を突く思いになる。後半の3-4章からは視点が背景に広がる。決済文書の改竄という〝前代未聞〟の出来事が繰り返されるのは一体何故だろうか。村木さんは、それは建前と本音の乖離にあり、間違いを軌道修正出来ない組織の病弊に起因するという。権力、権限、プライドがあって外からのチェックが入りにくい「財務省、防衛省、検察、警察などが典型」で、「マスコミや、教師や医者など『先生』と呼ばれる職種も危ない」と、具体性を持たせた記述は興味深い。実は、この本の発行元はKADOKAWA(角川書店)。「東京五輪汚職」を連想し、ブラックユーモアを感じてしまうのはご愛嬌と言えようか。
◆退官後も世直しに取り組み続ける
様々に思いを広げさせてくれる好著だが、家族愛については超弩級に抜きん出ている。地検から呼び出しを受ける前に、郷里高知に住む父親に村木さんは心配しているだろうと、電話を入れる。──父「やったのか」私「やってない」父「それなら徹底的に戦え」私「徹底的に戦う」──ここは、グッときた。地方公務員だった父とのこのやりとりで、娘の腹は決まった。厚労省同期の夫は、もとより動じるはずがない。共戦の同志として一体だ。「相談しやすく、信用できる、一番の親友が彼」とくると、読者は「もうご馳走様」というしかない。「イクメン」で2人の娘さんを徹して可愛がり大事に育ててくれたとのくだりに接すると、非のつけどころなしの百点満点のパートナーであり、共稼ぎ夫婦の鑑である。厳しい検事たちとの壮絶な戦いから、感動的な勝利を経て、日常の生活ぶりに至る村木さんの生き様を見ると、ほんのりした人間性が一貫していて気持ちいい。「いい人っていいなあ」というどこかで聞いたセリフが浮かんでくる。
事務次官を終えて退官をした後も村木さんは、「若草プロジェクト」という、貧困、虐待、ネグレクトなど厳しい環境に置かれた少女たちを救い、支援する運動に関わってきた。また、「共生社会を創る愛の基金」なる累犯障害者への支援にも取り組む。福祉と結びついていないため困窮した挙句罪を犯してしまう人に手を差し伸べている。共に、彼女の拘置所での体験がきっかけだ。「退官後も『世直し』を続ける」との第6章にこうした活動の全貌が明らかにされていく。強い刺激を与えずにはおかない。
この本は、無実の罪に突然はめられた「女性巌窟王」のようなドラマであると共に、働く女性にとっての参考書でもある。極上のカタルシスを味わえるうえ、いかに生きるかのとっておきの指南も受けられる。ついでに日本の行く末に思いを凝らす老政治家はこの上ない気づきを貰えた。
【他生のご縁 無罪後に直接会って体験を聞く】
この事件を知った時は私は厚労省をとっくのむかしに去っていました。直接のご縁はなかったものの、落ち着かれたら是非会って話が聞きたいと思いました。30年ほど長田高校の後輩Kさん(厚労省勤務)に仲立ちを頼みました。彼女は日頃から尊敬してやまない村木先輩のことゆえ、直ちに連絡を取ってくれました。10年ほど前のことです。女性官僚2人との有意義な語らいでした。
村木さんのお話で印象深かったのは、既に書いたように、夫・太郎さんや2人の娘さんら家族と多くの友人らの支えで、周りがあったればこそと言っていたことです。父上の話はこの本を読んで初めて知りました。加えて、拘置所内で、本を沢山読まれたとのことなので、どんなものを?と聞いてみました。塩野七生さんの『ローマ人の物語』全15巻です、と真っ先に挙げられました。自分も既に読んでて良かったと、ほっとした気分になったものです。全部で150冊読まれたとのことですが、逞しい精神力に感銘します。
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(第2章)第5節 世界の名画を陶板で一堂に──玉岡かおる『われ去りゆくとも美は朽ちず』
幾たびも訪れたい大塚国際美術館
四国は徳島県鳴門市の小高い丘の麓にある大塚国際美術館。そこに私は過去幾たびか行ったことがある。最初はただただそのスケールに驚き、2回目は専ら感心するだけ。3度目の正直よろしく今度こそじっくり鑑賞してみたいと思っていた。その矢先に、兵庫は東播磨・加古川市在住の作家玉岡かおるさんが同美術館完成への一部始終を題材にした小説を書いた。先年出版されるやいなや、直ちに飛びつき一気に読んだ。かねて人生最大の事業は、後世に不朽のものを残すことにまさるものはない、と思ってきた男の話だ。世に巨万の富を築くも、単に私腹を肥やすだけではむなしい。古今東西の一千点もの名芸術作品を、未来永劫にわたって朽ちないであろう陶板で作り直し、一箇所に集めるという離れ業をやってのけた。その人こそ「大塚製薬」の創業者大塚正士氏だ。彼をモデルに、そのもとでのプロジェクトチームの労作業を克明に描いた中編小説である。
陶板による名画再現と聞いてまず思うのが、本当に長く持つのかとの疑問であり、持ったところで、所詮コピー、複製ではないかとの本質的疑念である。この小説でもその辺りについて、登場人物相互間で賛否が戦わされる。陶板の持つ寿命の長さは、既に発掘されたイタリアのポンペイや中国、エジプトの遺跡で証明されており、数千年の歴史を経て、今我々は見ることが出来る。
一方オリジナルな現物はせいぜい数百年しかもたない。陶板によって長く保存が可能なことは実証済みなのだから、世界に現に存在する原画を陶板化すれば、半永久的に持たせられるというわけである。陶板の技術で本物と寸分違わぬものを作ることが出来、それを日本の徳島・鳴門に集めることで、大勢の日本人に見せたい──それこそ「地域観光」、「郷土起こし」の究極に繋がるとの発想だ。この世に今ある芸術作品を一生のうちに見られるか、見られないか。当初抱いた私の〝真贋の疑念〟は次元が異なる比較として吹っ飛んだ。
「美しさ」へのあくなき執念
この本の読みどころは、一つは主人公の〝陶板国際美術館〟実現へのあくなき信念。次に関係者、とりわけ美術の専門家たちそれぞれの執念であろう。1000点の作品をどの分野からどう割り振って集めるかをめぐる会議の場面はとりわけ面白い。古代ローマ、スペイン宗教画、ルネサンスなどを専門とする個性豊かな登場人物の丁々発止のやりとりに引き込まれる。また、著作権利所有者にどう許可を得るのか。これも興味深い展開がなされているが、現実にはこちらが想像する以上に、うまく運んだようで、ほっとさせられた。この小説を生み出すに当たって、著者の取材と構成への苦労がしのばれる。尤も、「存外に楽しかったわ」って、玉岡さんのことゆえ、いわれるかも。
人間は長く生きても100年前後。それに比して美は永遠である。いかにして美しい芸術作品を生きながらえさせるかは、人類永遠の課題だろう。だが、我々個人にとって、それらを生きてるうちにどれだけ見ることが出来るか?美術全集で見るのがせいぜいで、ヨーロッパの美術館で直接見ることができる人はそう滅多にはいない。この本の主人公はそれを陶板で蘇らせるという画期的な方法を踏襲することで可能にし、しかも1箇所に結集させた。この辺りを考えると、この本はやや淡白な印象を抱く。もう少し背景を深掘りして長編にしても良かったのではないか、と。また、美術館に展示されている作品の一部でも写真で掲載されていたら‥‥(おっと、それでは小説ではなくなってしまうか)。絵画芸術、美術作品の奥深さをペンで描くことの難しさを感じつつ、あれこれ想像の翼が羽ばたく。
昨年夏に徳島在住の地域活性化アドバイザーの勝瀬典雄さんと、島根の仲間たちと一緒に淡路・鳴門旅に行った。その際にまたしても大塚国際美術館を訪れたのだが、たまたま翌日午後に玉岡さんの「作家デビュー30年を祝う会」が神戸で行われた。美術館で目にした美の数々の余韻覚めやらぬなか、彼女の華麗なる作品群を映像で追う会場での試みに、眼と心を奪われたものである。
【他生のご縁 作家デビュー直後の自宅訪問】
玉岡さんのご自宅に随分前に実は行ったことがあります。初当選以来、色々な面で親しく付き合っていただいた、播磨地域を拠点にする建設業界の雄・ソネックの渡辺健一社長(現相談役)と一緒に。彼が偶々地域のお茶会の場で玉岡さんにお会いして意気投合、お誘いいただいたのでとのことでした。
いらい、彼女の小説はデビュー作『夢食い魚のブルー・グッドバイ』(1989年)から、織田作之助賞に輝いた『お家さん』(2007年)など、それなりに読んできました。つい先年には、北前船に取り組んだ男を描き、新田次郎文学賞を受賞し、一段と円熟味を増しています。
一方、この人は、この地域特有の「溜池問題」にも取り組んできています。環境保護団体と共に企画したフォーラムに対し、泉房穂明石市長(当時)から「税金の無駄遣い」だとの暴言を浴びたことが話題になりました。よりによって、播磨生え抜きの著名な女流作家に噛み付くとは無謀なことと、皆彼を憐れんだものです。
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