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(第3章)第5節 米大統領の「議会襲撃」扇動から━━阿川尚之『憲法改正とは何か』

南北戦争の再来思わせる分断状況

 選挙結果に疑念を持った大統領が自分を支持する有権者を扇動、暴徒化させ、議会乱入を許した──2021年1月のアメリカでの出来事である。我々は報道を通じて、トランプ氏のしでかしたことをそう認識した。2024年の大統領選挙の結果しだいでは、再び大混乱が起こるのではないか、と内乱状態になりかねないことを懸念する向きも多かったと思われる。彼の国はいったいどうなっているのか。太平洋の彼方から見ていて不思議さは募る一方である。そんな懸念から米国の憲法についての歴史に思いを馳せるに至った。

 そこで米国憲法に詳しい阿川尚之さんの本を読むことにした。偶々私が読んだこの本はトランプ大統領誕生後の2016年5月に発刊されたもので、当時日本では安保法制が大騒ぎの末に決着をみた頃だ。むしろ「日本人の硬直した憲法観を解きほぐす快著」との触れ込み通り、我が日本国憲法に考えが及ぶ。日米の憲法比較についての興味深い内容であった。

 「大統領が憲法に挑むとき」(第9章)では、「私の知るかぎり、憲法に公然と反して、あるいは憲法を無視して、政策を実行すると明言した大統領は1人もいない」とあるのは当然のことであろう。ただ、南北戦争の時のリンカーン大統領が講じた一連の措置は、憲法上の措置を踏まずに行われた。民兵の召集や戦費をまかなう債務保証の発行、南部諸港の封鎖などを、憲法上の手続きを踏まずにやったのである。後にこうした行為の一部は大統領の合憲性をめぐって争われた。阿川さんは、米国憲法では、連邦議会の権限については「相当細かく規定」しているが、大統領のそれについては、「比較的おおまかに定めている」ことに注意を促す。戦争をめぐっては、「議会は憲法が与えた自らの憲法権限を盾に、しばしば大統領の戦争のやり方を掣肘する」ため、「制限を嫌う大統領とのあいだでは、争いが絶えない」──これはよく分かる。ただ、選挙結果をめぐっての大統領の議会襲撃扇動は、憲法の想定範囲外だったに違いない。

 示唆に富む日本の憲法をめぐる状況への指摘

 「アメリカ憲法改正の歴史から何を学ぶか」(第10章)は、正式な手続きによるものと、それによらない実質的な改憲の是非についての考え方の例示が参考になる。①憲法の制定と改正は一体②憲法の改正は国民の権利③簡単過ぎる改正は危ない④憲法は解釈しないと始まらない⑤解釈によって憲法は変わる⑥護る憲法、破る憲法⑦国のかたちは国民が決める──このくだりではとくに④⑤と⑥について、日本との違いを痛感する。年がら年中戦争をしまくっているように見える国と、戦争を放棄している国とを比較すること自体に無理があるのだが、国のかたちを考える上で興味深い。米国の場合は大統領の権限が強い。対外的な戦争に踏み出す際に、「戦争権限の限界について論争が繰り返される」が、その都度「国民は『仕方がない』と受け止めてきたように思われる」。大統領は事後的に議会の承認を求め、選挙を通じて、国民はその評価を表明する。およそ、そんなことが許されない日本の場合は、安保法制のように憲法の解釈そのものから大騒ぎになる。

 最後に、日本の憲法について感想を述べているところが興味深い。❶改正が一度もない日本の憲法❷保守的な護憲派、進歩的な改憲派?❸憲法の全面改正は望ましいか❹改正手続き条項改正の是非❺日本国憲法は硬すぎるか❻解釈改憲はすでになされている❼司法審査と憲法論争の活性化❽国際情勢の変化と憲法の解釈❾たかが憲法、されど憲法──ここで披歴された感想はこの本の白眉で、いずれも私には極めて穏当に思える。とりわけ、❻で、安保法制は合憲か違憲かで論争が続くが、「ひとえに国民のあいだで今後この法律が定着するかどうかにかかっている」との結論には我が意を得たり、である。最終的に「一種の知的ゲームとして、無謬性を排し、多少のユーモアも交えて、正式の改憲や実質的な改憲も含めあらゆる可能性を検討することこそ望まれる」と締めくくっている。この線で我が国会もいくしかない。

【他生のご縁 妹御・阿川佐和子さんとの面談】

 阿川さんにお会いしたのは「慶大出身の国会議員の集い」の場が初めて。私の現役の頃は毎年恒例で、楽しみな会合のひとつでした。この時とばかりに色んな方々と交歓のひとときを持ちました。阿川さんはかの有名な作家・故阿川弘之氏を父に、『聞く力』の著者で、マルチタレントの阿川佐和子さんを妹に持つ方です。

 初対面の時に、「佐和子さんに会わせてください」などとミーハーそのものの発言をしてしまいました。「いいですよ、言っておきます」と温かくも嬉しい返事。それからしばらくして、偶然にも新幹線車中で彼女とばったりと出会いました。束の間、『聞く力』についての読後感のさわりに触れたのです。素晴らしい笑顔に満足したひとときでした。

 

 

 

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【56】5-① 豪快無比のジャーナリスト魂──大森実『我が闘争 我が闘病』

◆私の人生を方向付けた〝運命の講演〟

 大森実──間違いなく私の人生を方向づけた人のひとりである。17歳の年に初めて会った。母校長田高校(旧制神戸三中)の大先輩として高校の講堂の一角でその講演を聴いて、新聞記者になりたいと心底から思った。海外特派員に憧れた。尊敬して止まない超大物記者はその頃、ワシントン支局長を終えて、東京本社外信部長として帰国して間もなかった。この人の一大転機になったライシャワー大使事件(1964年)や、それを書いた『石に書く』の出版は未だ少し先のことである。

 今回、私が読む気になったのは、大森さんの自伝的作品『我が闘争 我が闘病』。2003年刊だからほぼ20年前。81歳。凄まじいまでのジャーナリスト魂の炸裂ぶりと、それに勝るとも劣らぬいのちへの執念を目の当たりにして只々驚くと共に、改めてその豪快無比の生きざまに感じ入った。この本は、奥方の恢子さんも筆をとり共著の体裁をとっている。ご本人が三途の川を彷徨った人事不省の時期を補ったものだが、これがまたとんでもない出来栄え。このひとありてこその「大森実」だと思い知らされた。

 「東京からハノイまで、思えば近くて遠い距離だった」──この書き出しで、大森実外信部長の西側ハノイ一番乗りの記事は始まる。1965年9月25日。私が大学一年の時。ベトナム戦争只中の青春だった。先輩の闘いが誇らしかった。「二週間の滞在で、連日連夜、紙面を飾り、僕のスクープはUPI、AP通信などを通じて、世界の新聞、テレビに転電された」──こう、ご本人は述懐している。

 ジョンソン大統領ら米首脳が怒り猛った。そして当時のライシャワー駐日大使による「オーモリは共産主義独裁国家の代弁者である。オーモリが書いた米軍機による北ベトナムのハンセン病病院爆撃記事は、捏造されたウソである」との爆弾発言が飛び出す。それに毎日新聞は社長以下米国に、「塩を振りかけられたナメクジのように」降伏してしまう。大森さんは怒りを持って同社を辞めた。この報道の正しかったことは後に天下に明らかになる。後輩は、心の底から感激した。この本は、それ以後の彼の苦闘を描いている。

◆仕事上の苦闘と災厄との戦い

 毎日新聞に辞表を叩きつけた大森さんは「東京オブザーバー」なるクオリティペーパーを立ち上げ、獅子奮迅の闘いを展開する一方、「太平洋大学」という洋上大学を企画、滑り出した。だが、身内の背信行為で敢えなく挫折、沈没の憂き目に。2億円もの膨大な借財を背負う羽目になる。それをもものともせず、夜を日に継いで原稿を書きまくり、やがて数年後に返済してしまうというから凄い。

 この本では、そうした彼の仕事上の苦闘と、それとは別に、人生終盤に襲ってきた自宅の全焼始め様々の災厄との闘いを描き切っている。幾たびものいまわの際をその都度乗り切ってしまういのち冥加な大森さんには底知れぬ運の強さを思い知らされる。同時に、とことん看病しきる奥さんには、感動を通り越えて呆れ返るほどだ。仮に私たち夫婦なら、恐らく早い段階で揃って諦めの境地になり、匙を投げたに違いないと思われる。

 この本を大森さんが書き終えたのが2002年暮れ。2010年に88歳で亡くなってるので、8年もこのあと健在だったことに驚く。若い頃のメニエル症候群、直腸癌手術に加え、老後の悪性肺炎、心臓切開手術、網膜症などなど。満身創痍のまま人生を終わりにはしないと、文末にこう書く。「もっともっとリハビリに精進し、週一ゴルフを週二ゴルフに増やして、バックヤードのプールでの泳ぎの回数を増やすことで、身体に力をつけていく!人間の命には限りがあるが、不死鳥のようにサバイバルしたい!そうすることによって、死ぬまでジャーナリストの本領を貫いていきたい」と述べて、「死ぬまで書くぞ」と、締めくくっている。

 意気込みだけは負けぬつもりだが、当方は早々と『回顧録』を書き上げ、一巻の終わりを決め込んでいる。大森さんは、そんなものは自らは書いていない。高校生の時に、壇上の姿を仰ぎ見てからほぼ60年。健在のうちに再会したかったなあ、との思いが募る。

【他生のご縁 電話で直撃コメントを依頼】

 大森実さんに私は直接電話をしたことがあります。公明新聞政治部記者時代のこと。ニクソン米国大統領の電撃訪中(1972年2月)をめぐって、200字ばかりのコメントを求めたのです。依頼の前に、長田高校の後輩としてかつて講演を聴いたことを告げました。電話の向こうから、おうそうか、との明るい声が聞こえてきました。後で、電話をいただければと言いかけたら、今からいうぞ、と直ちに反応が返ってきました。言い終わって、どうだ字数は?ピッタリだろ?と。驚きました。まったく神技だと私には思えました。

 ちょうどその頃、『週刊現代』に「大森実直撃インタビュー」なる連載コーナーがあり、池田大作先生が登場。その後、『革命と生と死』(1973年講談社刊)の中にまとめられています。この頃大森さんは、フリーのジャーナリストとして八面六臂の活躍中。翌74年には米国カリフォルニアに移住されたのです。

 

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【55】1-③ 今もみんなの心の中にいる「小市民」━━ 池内紀『ヒトラーの時代』

 

◆独裁者にドイツ国民はなぜ熱狂したのか

 2022年2月末のロシアのウクライナ侵攻に始まった戦争は今なお激しい攻防が続く。この間、プーチン・ロシア大統領をナチス・ドイツの独裁者ヒトラーになぞらえる向きもあり、西側国家群では憎悪する声が強い。この比較の当否は別にして、両者の非人間性は似ていなくもない。改めてヒトラー及びその政権のしでかしたことを追ってみたくなり、ドイツ文学者・池内紀氏の『ヒトラーの時代』を読んだ。

 この人は私と出身地(姫路市)を同じくすることもあり、これまでその著作をあれこれ読んできた。この本も期待に違わず、何故にドイツ国民がこのような独裁者の出現を許したのかがよく分かり、読み応えがある。池内氏はあとがきで、「ドイツ文学者」を名のるかぎり、ヒトラーの時代を考え、自分なりの答えを出すことは、「自分が選んだ生き方の必然のなりゆき」だと思ってきたと書いている。著者の気合いを知って読む方も張り合いを感じた。歴史エッセイとして読みやすく、写真がふんだんに使われており、時代の空気が汲み取れる力作だ。

 副題に「ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」とある。池内さんの答えを読み解くと、二つある。第一次世界大戦後の記録的な超インフレとその後のデフレの中で猛烈な失業者増というドイツの悲惨極まる時代背景が一つ。もう一つは、40にも及ぶ政党が離合集散を繰り返し、やっと成立した内閣も半年も持たず、何も決められなかった政治背景がある。そこに現れたヒトラーが、国民大衆の望みを叶えてくれる「天才だった」からということになろうか。

 後世に生きる我々からすると、およそ信じられないことかもしれないが、ヒトラーの時代の最初の頃は、経済が安定して、暮らしが豊かになった「平穏の時代」だったのである。ヒトラー評伝の著者ジョン・トーランドが「もしこの独裁者が政権4年目ごろに死んでいたら、ドイツ史上、もっとも偉大な人物の一人として後世に残ったであろう」と称賛していることには驚かざるをえない。もちろん、この本ではナチスの残虐無比の悪行の数々も挙げている、だが、「ナチス体制は多少窮屈ではあるが、口出しさえしなければ、平穏に暮らせる。ユダヤ苛めは目に余るが、我関せずを決め込めば済むこと」だったのだから。

◆興味深い「写真」を追う

 私が興味深く追ったのは挿入された幾葉かの「写真」である。「消された過去」から「顔の行方」まで22もの角度から、独裁者ヒトラー及びナチスの〝かたち〟がデッサンされているなかで、最初と最後のものがヒトラーの顔の秘密を追っている。「ふつうであってかつふつうでないヒトラーの顔を後世の私たちは知らない」と、意味慎重な書き方がなされている。じっと見ると、確かにそれぞれ微妙に違う。顔と同様に「ナチズムについては、いまに至るまで解明がつかない」との「むすびに代えて」の表現が言い得て妙である。

 そのほか、随所に「こまかくながめると気がつくことがある」との記述通り、人々のギョッとした顔の表情や、金属製マイク群とシュロの小枝に囲まれたヒトラーの演台に、目が自ずと向いてしまう。更に、みんながハイルヒトラーと、手をかざしている時に、右上に一人憮然とした顔で腕組みしている人物がいるといった風に指摘される。謎めいた書き振りは、読者をして懸命に追わせる迫力に満ちているのだ。

 池内さんは、この時代にナチスに反抗した人々を追うことも忘れない。「別かれ道」と題して、ドイツ人女優のマレーネ・ディートリヒ(嘆きの天使)がナチスの執拗な誘いを拒否しブロードウェイで人気者であり続けたことや、ドイツで活躍した写真家の名取洋之介が密かに後世へのメッセージを撮り続けたこと(死後40年後に公開)などを紹介しており、胸打たずにおかない。

 最後の「小市民について」で、ナチスの側に立った反ユダヤ主義的根性が誰の心の中にも存在していることを挙げている。あなたの中にも、この私の中にもいるとしたうえで、「これは永遠の小市民であり、とりわけ自分を偽るのがうまいのだ。過去を話すとき、巧みに事実をすり替える」と。ウクライナ戦争に思いを馳せると、背後に横たわるドイツ(NATO)とロシア(ソ連)の、世紀を跨いだ抗争に胸が痛む。我が体内の「小市民」は、この歴史的事実を間違って捉えていないだろうか。

【他生のご縁 息子さん(池内恵)の本を話題に】

 池内紀さんと最初にして最後に会ったのは、私の現役最後の頃です。姫路市内の講演会場に来られた際に、舞台裏の控室にひとり押しかけました。池内さんもポツンとおひとりでした。私が姫路・城西地域の生まれであることや、かつて感激のうちに観た池内さんと銅板画家の山本容子さんとのイタリアの街道をめぐるテレビ放映のことを語りました。が、「ほう」と仰るだけ。

 共通の知人のことなど何を持ち出しても反応なく、とりつく島なし。仕方なく、イスラム研究者で息子さんの池内恵さんの本について語りました。すると、「彼は頑張ってますか、ねぇ」と反応がありました。短い出会いでしたが、今なおこの記憶は鮮明に残っています。

 

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【54】7-② ものごとの本質を追う真摯な姿勢━━田原総一朗『創価学会』

◆テレビ出演で「挑発」にハマってしまった私

 ひとまわりほど歳上のジャーナリストの田原総一朗氏のことを、私はかつて畏敬の念を持って見ていた。新聞記者願望の強かった私ゆえ、その道の大先輩として憧れていたといってよい。特に取材対象を追い詰めるその手法の鮮やかさには惚れぼれする思いだった。ただし、こちらが政治家になって、勝手が違った。2回ほどテレビで彼の番組に出て、この人お得意の「挑発」を受け、まんまと嵌ってしまった。屈辱感を味わった。それ以来どうも好きになれない。他にも理由はあるのだが、ここでは触れない。

 そんな私だから、テレビの司会番組は観ても、彼の著作はあまり読まずにきた。ただ、『創価学会』については読まないわけにいかない。むかしよく見た懐かしい映画をDVDで見直すかのように読んだ。この道60年の辣腕の人がもたらす手際の良さには唸るばかり。ただし、この人らしいツッコミが足りないところも指摘せざるを得ない。

 田原氏がこの本で解き明かそうとした重要な関心事は2つ。一つは「来世は本当にあるのか」との思想・哲学的関心。もう一つは「創価学会が『深刻な危機』を幾度も経験してきていながらその都度乗り越えられたのはなぜか」との組織論的関心。前者は池田先生との対談で極めて興味深い答えを聞き出したことを明かす。後者は、池田先生と会員一人ひとりとの絆の確かさにあるとの実態を彼は発見した。これに付随する展開を追いながら、ものごとの本質を追う真摯な著者の姿勢に強い感銘を受けた。ほぼ60年程創価学会員として生き、公明党に深く関わってきた人間として、多くの新たな気づきをも得ることが出来た。子どもや孫、友人たちに読ませたいと心底思った。

 ◆〝得意のツッコミ〟の足らなさ随所に

 一方、自民党を批判してきた公明党が今や連立政権を組むに至っていることを、リアリズムに徹したリベラリストの田原さんはどう見ているか。時系列的に追ってみよう。初めて連立政権を組んだ1999年10月の自自公内閣発足時。「(自民党を腐敗政党と批判してきたのに)明らかに豹変であり、私には納得し難い」。世間を分断する賛否両論が飛び交った2015年9月の安保法制成立時。「(自民党のブレーキ役を演じている)公明党がこの姿勢で頑張るかぎり、私は公明党を支持する」──16年後の見立ての変化の謎解き──原田稔会長とのやりとりが興味深い。

 立正安国という信念を持ちながら、どうして日本の政党で一番腐敗している自民党と連立するのかと、田原氏が訊く。それに会長は「連立することで、庶民目線を政治に反映させ、また、政治を浄化させることを目指したのでは」と答える。田原氏は「全然浄化できてないじゃない、どうしてそんな自民党とくっついているんですか」とたたみ込む。会長が「おっしゃられることはよくわかります(笑)」と述べた後、政治の安定の必要性から見て、果たして連立から公明党が外れるのがいいのかどうか、「慎重に(公明党には)考えながら進めてもらいたい」と答える。そこで田原氏は矛を納めている。

 かつて山口代表との対談本で、安倍元首相のいわゆる「モリ、カケ、さくら」問題を取り上げたくだりがあった。あの当時、「さくら」について、安倍さんと山口代表との新宿御苑での壇上でのツーショットが話題になっていた。それだけに田原氏のツッコミには緊張感を持って読んだ。しかし、ほとんど彼らしさがない中身だった。いつもの彼とは違って甘い田原氏が浮かび上がってこざるを得ない。恐らく根っこは人がいいに違いない。この本の締めくくりは「世界広宣流布に挑戦し続ける創価学会がどこに向かうのか。池田が育ててきた弟子たちの動向に、これからも注目していきたい」と結ばれている。

【他生のご縁 テレビで「冬柴さん」と呼ばれて】

 田原総一郎さんのテレビ番組に、出た時のこと。あれこれやりとりした最中に、私に返答を促す際に、「ふゆしばさん」と明確に問いかけられました。瞬時、私は、「赤松ですよ」と大きく言い返しました。彼は、バツが悪そうに「ああ、失礼」と言ったように聞こえました。その後、直ぐコマーシャルタイムになったので、その合間に「田原さん、酷いですねぇ。わざと言ったでしょ?」と伝えました。尊敬する先輩に間違われることに、目クジラ立てずともいいのでは、ということもあるかもしれません。しかし、名札も付けているし、似てもいない私に大きな声で違う人の名を呼ぶのは、失礼千万です。

 また、私が初めて出版した本を田原さんに届けたことがあります。ぜひ一読してほしいと思ったからですが、なしのつぶて。いちいち反応はしておれないということでしょうか。

2023年12月5日の正午過ぎ。上京中だった私は後輩の公明新聞のT 記者とランチを食べるべく、第一議員会館の地下食堂に行きました。入ってすぐのところに田原さんが座っておられました。私は直ちに、上に述べたような過去の思いをぶつけました。遠い過去のこと、恐らくわからなかったのでしょう。それには答えず、「アメリカとの関係が大事だよ、公明党頑張って」とだけ。嗚呼。

 

 

 

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【53】5-④ 映画に歌に昭和を駆け抜けたマイトガイ──小林旭『さすらい』

◆息を飲みっぱなしの連続活劇

 長嶋か王か?若乃花か栃錦か?〝戦後第一世代〟は、プロ野球、大相撲の人気を二分するスターに熱中した。そして映画や歌の世界では、裕ちゃんかアキラか?の選択が今になお続く。石原裕次郎と小林旭。残念ながら裕次郎は52歳で逝ってしまったが、アキラは芸能生活60年を超えて未だ健在。ここで、芸能人を取り扱うのは初めてだが、何を隠そう、私は学生時代に日活調布の撮影所にエキストラのバイトで通ったし、後述するように彼の歌ともご縁がある。そして『渡り鳥シリーズ』の脚本を書いたとされる、後の原健三郎衆院議長は郷土・兵庫の大先輩である。様々な思いをめぐらせながら、「小説風自伝」を一気に読んだ。

 若かりし頃のアキラのタフぶりは、ともかく凄い。「大部屋時代」のバットで襲われるシーン。思いっきり振られたバットが彼の腹の腹筋力で真っ二つに折れた(という)。いくらなんでもこれは怪しい。しかしそれもあるかも、と思わせるような話が次々登場する。

 「渡り鳥誕生」のアキラが殴られて2階から落ちるシーン。吹き替えをやってくれた鳶職人が大腿部骨折をしてしまう。病院に見舞いに行くも、「痛ぇよ、痛ぇよ」と唸り声が聞こえてきた。いらい、自分で痛みを感じる方がまだマシ、と一切吹き替えなしですませたという。保険会社も恐れて逃げたとの逸話も本当だろう。「命知らずのマイトガイ」では、八路軍に殴り込みをかけるシーンで、爆発係の手違いのため相方の左足が大腿部ごと吹き飛んだ。アキラ自身も生死を彷徨って、首の骨を折る寸前の大事故を起こした。息を飲みっぱなしの連続活劇は、怖さをもともないつつ実に面白い。

◆迫力溢れる「日本映画論」

 やがて「昭和42年」に大きな転機がきて日活をやめる。その際に展開される「日本映画論」が実に迫力に満ちていて、この本の白眉である。一言でいえば、作る側も観る方もアメリカ映画に魂を奪われ、骨抜きにされてしまったということに尽きる。アキラは「アメリカにしてやられた」責任は、「先を読めず目先のことに奔走し、セコい作りをし始めていた日本映画界にある」と断罪する。「映画が斜陽だからといっても、まだまだその流れを食い止め、我慢して来る時を待つという手はいくらでもあったのに、ロマンポルノだとか目先の利益ばっかり追いかけた結果、今なお続く映画不毛の国になってしまった」と、手厳しい。

 この本の出版は20年ほど前だが、この流れは止まってはいない。昭和30年代まで日本映画界は、黒澤明、小津安二郎、溝口健二ら枚挙にいとまがないほどの巨匠たちが輩出した。アキラの演じたアクション映画の世界も然りだ。今では欧米どころか、韓国にもすっかりお株を奪われた感がして悔しい限りだ。

 映画界を去ったアキラは事業に手を出し、大火傷をする。いや、その前に、美空ひばりとの結婚(昭和37年)という一大イベントがあって、「公表同棲から理解離婚」の章が一部始終を物語る。世紀の大歌手とのカップルには私も心底驚いたものだが、裏話は興味津々だ。慣れぬ事業の失敗で巨額の負債を背負うものの、へこたれぬ姿は胸を打つ。さぞかし辛かったに違いない。そして、ひょんなことから本格的に歌手への道が開く。

 きっかけは、一世風靡の曲『昔の名前で出ています』だった。私はカラオケは苦手だが、ある時、仲のいい後輩からアドバイスを受け、この曲を練習した。せっせと歌ううちに段々それなりに様になってきた。そのうち、何を歌っても、声が、節回しがアキラにそっくりとまで言われるようになってしまう。その噂が当のご本人周辺に届いてしまった。選挙の初挑戦で落選し、苦節4年の後に当選するまでの間に、アキラの4曲を部分的に替え歌にした。それがなんと、彼の前で私が歌うことになったのである。その顛末はまたの機会に譲りたい。(敬称略)

【他生のご縁 一緒に歩きながら替え歌を唄う】

 私が替え歌にした小林旭の4曲とは?「私の名前が変わります」「ごめんね」「もう一度一から出直します」「お世話になったあの方へ」です。最初のは、選挙に出るにあたり、私の仕事が変わるということに引っ掛けました。次のは、みんなに応援いただきながら落選してしまってごめんなさいとの意味に変えました。三つ目は、文字通り、落ちた時の心境です。最後のは、応援していただいた皆さんへの感謝の言葉です。時に応じて、カラオケで歌っていました。

 アキラさんの曲を私が歌うのを聴いた仲間が、噂していたのが、ある著名な方の耳に入りました。その人は、知る人ぞ知る小林旭の友人で、毎年年末恒例の「小林旭ショー」に幾人もの知人を招いていました。そんなときに、私に白羽の矢が立ちました。会場を移動する際に、挨拶もそこそこに「アキラさん、私の替え歌聞いてください」と言いつつ、触りの部分を歩きながら歌ったのです。「うーむ。俺の歌をそんな風に歌ってくれるの、あんただけだねぇ」と、感心されたのはいうまでもありません。天下のアキラと並んで歩きながら、彼の持ち歌を替え歌にせよ、聞かせるとは。我ながら呆れると同時に、誇りに思っています。

 

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【52】4-① ものづくりは何処へいったのか──内橋克人『新版 匠の時代』

◆「市場原理優先」への反抗心

 神戸新聞で先年連載されていた『共生の大地へ 没後一年 内橋克人の歩いた道』で改めて内橋さんの凄さを知った。この人は、同紙記者を7年ほどの間勤めた後にフリーのライター、経済評論家になって、88歳の死の間際まで書き続けた。世に最も知られているのは『匠の時代』全12巻だが、その仕事はひたすら市場原理優先の政治経済への反抗に貫かれ、ものづくりにこだわり、人びとの「共生」への道を探し求めたことに尽きるだろう。

 神戸が生み出したジャーナリストの先達として、かねて畏敬の念を持ち続けてきた私とも交流の接点があり、それを大事にしてきた。今でこそ、政権与党の一翼を担う存在であるが、かつて反自民の中核であった公明党とも内橋さんはそれなりの絆があったのだが、この20年はいささか遠い存在になったのは口惜しい。今に健在ならば、その辺りについて弁明をしつつ、教えを乞いたかった。

 実は『匠の時代』を読むよう私に勧めたのは、市川雄一元公明党書記長だった。市川さんはNHKの人気番組「プロジェクトX  挑戦者たち」の主題歌・中島みゆきの「地上の星」が大好きだった。そのわけはこの歌詞のこの部分だと、しばしば講釈を聞かされたものだ。内橋さんとほぼ同世代の市川さんは、新たなものを生み出す挑戦の姿勢を共有していたように思われた。TV番組は一世風靡したが、この本の刊行はそれより遥か前のことである。

 再読したのは、岩波現代文庫全6巻の新版。「余りに多くのことを語らねばならない」との書き出しで始まる「諸言」が胸を撃つ。記述は、2011年3月20日の夜。あの東日本大震災、福島第一原発事故に直撃された9日後のことだ。ここで、特に印象深いのは、このシリーズに著者が取りかかってから35年を経ており(現実には更にその後の10年がプラスされる)、「(この間に)日本社会と経済・産業・技術のすべてが、姿も本質も、歴史的に入れ替わってしまったように思われる」と書かれていることだ。

◆地から空から「もう待てない」との声

 「失われ続ける」日本の現実を横目で見ながら、この本に出てくる栄光の匠たちの姿を追う。世界初のクオーツ腕時計、電卓の開発。汚水、海水をも真水に変えてしまう「逆浸透膜」を可能にした東レの超極細繊維。世界に誇る新幹線の技術、「人のいのち」を救う人工透析の技術などなど、限りなく眩しい技術発掘の歴史が続く。内橋さんは、「技術と人のどんな〝めぐり合い〟あって誕生したものか」と問いかけ、答えを求めて、この本を書き始めた。それが、今やすべてが変容してしまった。「グローバル化時代の当然の帰結という宿命論が通念となった」という結論で済ませていいのだろうか。

 かつて、かの戦争に負けて欧米の技術との差を思い知らされ、日本は立ち上がった。苦節30数年を経てバブル絶頂期を迎える。そして今、半導体を始めあらゆる分野で、中国の後塵を拝し、台湾、韓国に並ばれた。今再びの技術差に喘ぐ。「『市場主語』ではなくて、『人間主語』の時代へ向けて、『匠たちよ、再び』と呼びかけたい」との内橋さんの声がぐっと胸に迫る。

 私はこの人のNHKラジオ第一での朝のニュース解説にいつも聞き入った。フーズ(食料、農業)、エネルギー、ケア(介護、コミュニティ)の頭文字を取った「FEC(フェック)自給圏構想」を提唱し、この三つは市場原理に委ねてはならない、市民が手放してはならないものだと、力説されたものである。こうした言葉の数々を聞くたびに、政治の現場を預かるものの一人としてその非力が恥ずかしかった。

 公明党が世に出て60年。前半は庶民大衆の声を真正面から体して闘った存在であったことは紛れもない。だが、後半の30年は、格差拡大が止まらない。中流層の下流化が懸念されている。グローバル化の帰結やら、失われた年数の増大を自民党のせいだけにはできない。一緒に政権与党を構成してきた責任も問われよう。保守政治の悪弊を中道化の波で変えていくので、今しばらくの猶予をと言い続けて、久しい時間が経った。もう待てないとの声が地の底から、空の闇から聞こえてくる。

【他生のご縁 「神戸空襲を記録する会」】

 「神戸空襲を記録する会」という団体があります。先の大戦での神戸空襲で犠牲になった人々の慰霊祭を毎年開催する一方、死没者の名簿を収集確定する作業を進めてきました。1971年から始まり、2013年には神戸市大倉山公園に慰霊碑を作りました。その第二代会長になったのが、私の高校同級生の中田 政子(故人=旧姓三木谷政子)さんです。この本の挿絵を描いてくれた冨士繁一君共々高校時代からの仲間です。

 この会に神戸新聞出身の内橋さんは多大な応援をしてくれ、2015年5月17日には神戸で『『戦後70年」を抱きしめて──「再びの暗い時代」を許さない』という印象的な講演もしてくれました。公明新聞時代に僅かなご縁もあった私は会場でお会いし言葉を交わしました。中田さんの業績は甚大なものですが、常々内橋さんに精神的支柱になって貰ったと、口にしていたことを記憶しています。

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【51】全文を英語で読みたくなる──岡田光世『ニューヨークのとけない魔法』を読む/9-23

 この本を読むきっかけは、公明新聞の文化欄だった。そこでは、『ニューヨークがくれた私だけの英語』というタイトルの新刊本を紹介していた。中学英語ですべてオッケーといった言い回しが気に入り、本屋に行って、立ち読みした。なんだ、違うじゃないか、が直感的な印象。当方の勝手な思い込みと違って、日本語ばかりが目立つどこにでもありそうな体験記と思え、読む気は失せた。ただし、著者の人物像に好感を持ち、本屋の上の階にある図書館に行き、『ニューヨークのとけない魔法』を借りることにした。全8巻もあるシリーズの第1冊目である▲読みやすく、とても面白い。いっぱしのニューヨーク通になったような気になる。実は私はアメリカ本土には3-4回行ったが、ワシントンが多くて、ニューヨークは一度だけ。そんな人間でも馴染みのあるセントラルパークと、エンパイアステートビルについての記述が気になった。「セントラルパークの丘にすわっていた数人のために、デービッドはギター片手に歌い始めた」で始まるその一文は、That’s what Central Park is all about.   まさにそのためにセントラルパークはここにあるのだ。で終わるのだが、そこに至るまでの文章展開が切なく、胸に響く▲「エンパステートビルの灯」なる一文も。──時に応じてライトの色具合が変わる。同ビルの管理事務所には、昨日の夜のライトは何を意味してたの?との問い合わせがくる。年老いた未亡人と思しき女性からいつも電話があった。I feel like I’m in touch with the world.   世の中と接触があるように感じるのよ、とそのおばあさんは言っていた。が、ある日からその電話が途絶えてしまった。著者は「夜のエンパイアステートビルを見上げる時、私は会ったこともないそのおばあさんが、ひとり窓辺にたたずみ、カーテンの隙間からそのライトを眺める姿を思い浮かべる」と結ばれる▲「世界一お節介で、おしゃべりで、図々しくて、でも憎めないニューヨーカーたち」の立居振る舞いが、とても変わっていて不思議に思えるということが、「ニューヨークの魔法」だというのだが、これって、人種の坩堝といえる場所柄だからだろう。東京との比較が随所に顔を出すものの、アメリカという国がみなこんな風とは違うはず。要するに、世界中からやってきた寄せ集めの人々に構成されるニューヨークの特殊性だと思われる。ともあれ1巻を読み終えて、続けて読みたくなった。ついでに、一文だけの英語ではなく、丸ごと英語で書いてくれないかなあと、魔法にかかったように、ろくに読めないくせに思ってしまう。(2022-9-23)

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【50】稀代の名文家の足跡を追う金婚旅──志賀直哉『城崎にて』を読む/9-17

 若き日に志賀直哉という作家に取り組んだ時期がある。文章研究の一環として、『城崎にて』とか『小僧の神様』などの短編を読んだものだ。後に、長編『暗夜行路』にも挑戦した。人生最終盤になって再び『城崎にて』を取り出したのは他でもない。私ども夫婦が結婚50年の佳節を迎え、どこかに行こうかとなって、兵庫の名湯・城崎温泉を目指し、ついでにこの著名な作品の再読となった次第である。温泉・酒好きの妻の思いとは別に、私の密かな目的はこの作家の跡追いにもあった★この短編は、著者が交通事故(山手線の電車に跳ね飛ばされた)に遭って傷ついた身体を癒すために、この地に逗留した際の実話に基づく。3週間にも及ぶ長逗留の無聊の気まぐれに目にした、蜂、鼠、いもり、蜥蜴など小さな生き物の生と死の描写に過ぎないのだが、名作の地位を不動にしたのはなぜだろう。それはひとえに、〈死ぬはずのところを助かり、何かが自分を殺さなかった、自分にはしなければならぬ仕事があるのだ〉との思いが支配していた時に、生き物の儚さを見たからに他ならない★生と死は両極でなく、「それほどに差がないような気がした」との表現が終わり近くに出てくるが、それこそ、仏教でいう「生死一如」を悟ったということと思われる。私自身も、幼き日に祖母と一緒に伯母の家に行った際に、祖母が急死したことが強い衝撃になった。また、中学校の理科の時間に、蛙を解剖すべく机の端に蛙を叩きつけて殺したことが妙に後味の悪い印象として胸に残り、いまもある。また、つい先年、地域のお堂の脇に生えていた大きな古木を切り倒した際に、その生木の悲鳴が聞こえた(気がした)。こんなことがらがまざまざと時空を超えて甦ってくる★志賀直哉については、奈良にある彼の住居跡を見学したことや、3週間もの温泉療養を思うにつけ、豊かな生活ぶりが気になる。私たちの金婚旅は、わずかに一泊。彼我の差に考え込んでしまう。僅かな散策先に城崎文学館を選んだところ、この地に彼が来てこの小説を書いたことが、今になお〝地域おこし〟の糧になっていることに複雑な思いを禁じ得ない。私たちが訪れた日から25日までの11日間、『豊岡演劇祭2022』が始まった。偶々城崎温泉駅でもスイッチ総研なる演劇集団の観光列車「うみやまむすび」を使っての劇のリハーサルとぶつかった。直哉に代わって、大成功を祈りつつ、一日一本の「はまかぜ」の人になった。(2022-9-17)

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【49】中秋の名月にふさわしい──『竹取物語』を読む/9-10

 9月10日は中秋の名月にあたる満月でした(わが地域では曇天で見えず)。偶々、月にゆかり深い『竹取物語』を読みましたので、それにまつわるお話を。先月のNHKテレビ「100分de名著」で『竹取物語』を取り上げた木ノ下裕一さん(木ノ下歌舞伎主宰)の解説を聞いたのがきっかけです。この人、実にうまいしゃべり口調でした。テレビの後、テキストを読みそして原作を改めて読む気になりました。読後、ぜひ孫たち始め、まわりの子どもたちに勧めたいと思ったのです★この物語こそ日本の読みものの原点でしょう。成熟した大人たちの原点が『源氏物語』なら、こっちは未来ある子どもたちの究極の古典かもしれません。いわくつきの月からの使者・かぐや姫が竹の中に生まれ落ち、やがて言い寄る5人の男たちを手玉に取るといった経験ののちに月に戻るってお話ですが、まさに宇宙を股にかけた壮大なストーリーに魅惑されます。幸か不幸か私はシャーロック・ホームズ的冒険推理小説の世界に魅了された少年時代で、こんなSF(空想科学小説)もどきのものとは無縁でしたが★木ノ下さんは、この物語から「小さ子物語」「異常出生譚」「長者譚」「婚姻譚」「貴種流離譚」などといったさまざまな物語におけるパターンが織り込まれていることを明かしています。さらに、「かぐや姫、月、神秘、竹」などといった物語の設定にすべて意味があることなど、小説作法の入門書の趣きがあるとも語っていました。そして、生きづらさを感じがちの現代の子どもたちにとって、この物語を辛さから逃げ込むための入り口にして、小説、物語の世界にのめり込むことを勧めているのです。私の身近にも自殺願望の強い少女がいますが、何とかそこから救い出すためにも読ませたいと思います★そんな思いで見えぬ月を見上げている時に、残念ながら胸を去来するのは、老老介護に迫られているわが(正確には妻ですが)現実です。亡くなったエリザベス女王と同年齢の義母と同居しているのですが、いま彼女を責め苛んでいる(であろう)ことは、「被害妄想」です。これって、ある種マイナスの想像力の極致といえようかと思います。そんな身内の惨めな姿を見るにつけ、想像力がなまじっかあるために〝狂う〟のであって、無い方がどんなにいいかと思わずにいられません。健康な状態で歳を重ねることがどんなに貴重で難しいかに悩みつつ、見えぬ満月を想像力で見上げつつ考えてしまいました。これを書き終えた直後に埼玉・行田市に住む友人から見事な満月の映像が届きました。(2022-9-10)

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【48】4- ③ 忘れ難いラストバンカーとの因縁── 西川善文『仕事と人生』

◆衆議院総務委員会での出会い

 ラストバンカーこと西川善文さんが亡くなったのは、2019年の9月11日。生前に同氏が受けておられたインタビュー(2013年11月-2014年2月)をもとに、出版された『仕事と人生』を読んだ。この本を読むきっかけは、大阪のある中小企業(食品スーパー)の従業員の皆さんを前に、同じタイトルでお話をする機会が予定され、参考にしようと思ったことが一つ。もう一つは、この人と私には、一つだけだが忘れ難い接点があったからだ。

 それは衆議院総務委員会の場でのこと。日本郵政公社社長としての西川さんに同委員会への出席を願ったのだが、その時の委員長が私だった。三井住友銀行の頭取を終え、郵政民営化直後の中枢として活躍をしておられた同氏。そして、私たちにはそれなりの因縁があった。

 それは、私が銀行マンの倅であったということである。親父の背中を尊敬の眼差しで見ながらも、到底乗り越えられないがゆえに、私は銀行を就職先に選ばなかった。親父が私に銀行員になって欲しかったことは折りに触れ、陰に陽に聞かさていた。だが、その道に入ることの厳しさ、辛さをそこはかとなく知っていた私は、断じて避けたかった。親不孝者である。そんな私は、あろうことか親父が最も気に入らなかった「新聞記者の道」を選んだ。しかも、宗教団体が作った政党の機関紙という、およそ銀行とは縁遠い位置にある「仕事」をすることにしたのである。それには〝巡り合わせの妙〟があるのだが、ここでは触れない。2008年秋のこと、私の高校の同期A君と後輩S君が住友銀行出身で、入社当時に西川さんの厳しい訓練を受けた身であったことも手伝い、ひと夜、4人で「仕事と人生」を語り合いもしたのである。

 ◆失敗したら責任は自分が負う気構え

 この本は、「評価される人」「成長する人」「部下がついてくる人」「仕事ができる人」「成果を出す人」「危機に強い人」の6つの章からできている。亡くなられてから、急遽遺稿を、ということで、慌てて用意されたことが見え見えではある。生前に出された、バンカーとしての回顧録と、日本郵政との取り組みへの意欲を示されたものとの別の二冊の方が重い価値を持つ、とは思う。しかし、より率直に西川さんのお人柄が滲み出ているのはこの本だろうと睨んだ。

 例えば、「わかしお銀行との逆さ合併」についてのくだりが興味深い。ご本人も正直に「私自身、『奇策』と言われるような『逆さ合併』などやりたくなかったが、生き残るためにはしようがない」と、述べている。「感傷的な思いを押し切り、私は住友銀行の法人格を消滅させた」と、小さい下位の企業を残し、大きい上位の方を切った経緯を明かす。ここにこの人の真骨頂がうかがえよう。「失敗したら責任は自分が負う」との強い気構えである。

 この本をつぶさに読んで、私には到底真似が出来ないことばかりだと、早々に白旗を掲げた。と同時に、私の仕事上のボスであり、上司であった市川雄一公明党書記長(元公明新聞編集主幹)を思い出す。このふたり、眼の鋭さが酷似していた。私とは正反対に6つのことがすべてできる人だったことは多くの人が認めよう。

 その市川さんが常日頃口にしていた言葉で忘れ難いのは、「百人ほどを超える部下を持ったことのない人間に、真の意味での政治家は務まらない」というものがある。家族を含め生身の人々の生活をどう守るかということが寝ても覚めても気になる──こういった経験を持たない人間の責任感はたかが知れている、と。

 それを聞くたびに、百人はおろか、まともな数の部下を持ったことのない私は恐れを抱いた。尤も、会社社長経験者なら政治家は務まるのか、と内心呟いたのだが。市川さんは、親父やじいさんから地盤、看板、鞄を継いだに過ぎない2世、3世議員を批判したかったのだろう。西川さんも政治家になっていれば、いい仕事をされたに違いない。

【他生のご縁 「西川学校」で鍛えられた友人たち】

 私の高校同期のA君と一年後輩のS君は共に京大卒で、住友銀行に勤めていました。A君とは中学から一緒。S 君は熊谷組に出向して再建に尽力した強者。どっちもとても優秀な男たちでしたから、西川さんが二人を知らないはずはないと思って、国会の委員会の場でお会いした時に、聞いてみました。ドンピシャでした。入行した時の幹部候補生を鍛える担当が西川さんで、飛び切り念入りに指導訓育されたようです。ぜひ4人でお会いしましょうということになり、A、S両君とも実に久しぶりに会うことが出来たのです。

 この時の話題は野球のことを始め多岐にわたり、まことに楽しいひと夜になりました。西川さんが猛烈な阪神ファンだったことに、南海贔屓だった私が〝セパの違いの講釈〟をたれました。この出会いを通じて私は親父を思い起こさざるをえませんでした。父は旧神戸銀行に一生を捧げたのですが、当時ひたすら仕えた〝岡崎忠頭取いのち〟の人でした。生きていれば西川さんとの出会いを喜んでくれたはずです。銀行員になることを嫌った私が、岡崎さんのずっと後の三井住友銀行頭取と一献傾けるに至ったことに。

 

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