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【47】②-1 「吉田」ドクトリンは永遠か──永井陽之助『新編 現代と戦略』

 

◆「非核・軽武装・経済大国」路線

 世に「棺を蓋いて事定まる」(人の真価は死後に定まるという意味)というが、事はそう簡単ではない。安倍晋三元首相が狙撃死に遭ってから1年余り、その評価は依然定まりそうにない。彼の死の直後に書いた論考(朝日新聞Webサイト『論座』)において、私は、光と影の両面からその政治的足跡を評価した。光は、混迷する国際政治の中で発揮された外交的手腕。影は内政面での反民主主義的ともとれる強権的手法。このうち、前者について、考えをめぐらす中で、吉田茂元首相との対比に思いが至った。興奮覚めやらぬ中で、岸田首相が「国葬」を決めたことから、1962年当時の吉田のケースと対比されてきたが、私の関心事はそれではない。日本の戦後外交史における吉田、安倍の果たした役割について、である。

 吉田茂といえば、「吉田ドクトリンは永遠なり」との言葉を世に広めた政治学者の永井陽之助『現代と戦略』(1985年3月出版)を思いだす。世に出てから(初出は文藝春秋1984年1-12月号連載)、もう40年近くが経っており、国際政治学における古典といってもいい位置にあるとの評価が一般的だ。再読を思い立ったのは他でもない。この本は、読む角度を変えると、元外務省高官の岡崎久彦批判の書でもある。そして、岡崎といえば、安倍晋三元首相のご意見番ともいうべき親密な関係であったことはよく知られている。2016年発刊の「新編」(第一部)の方には、岡崎による反論と共に、永井との対談「何が戦略的リアリズムか」(1984年中央公論7月号)も併せて巻末に収録されており、極めて興味深い。遠い昔に読んだ記憶を後追いしつつ、「新編」を追った。取り扱われている素材は勿論、古い出来事ばかり。だが底に流れるものの考え方、掴み方は今になお有効であり、大いに参考になる。

 永井はこの書の中で、吉田の「非核・軽武装・経済大国」路線を長く受け継がれるべきものとして位置付けた。確かに、吉田の用いた路線は、ドクトリンと呼ぶかどうかは別にして、この40年というもの、日本の国是とでも言うべき位置を形成してきた。しかし、改めてこの書を追っていくと、岡崎久彦への言及が目立つ。偶々、彼が『戦略的思考とは何か』を発表した直後でもあり、2人の間での積年の議論の焦点が改めて浮上したといえよう。

◆「政治的リアリスト」と「軍事的リアリスト」

 永井は「政治的リアリスト」の自身に対して、岡崎を「軍事的リアリスト」と見立てて、多様な角度から論じている。とりわけ、「日本の防衛論争の配置図」(座標軸)は、論争的興味を惹きつけてやまない。永井からすると、アングロサクソン(米英)絶対視の岡崎への批判の眼差しが伺える。岡崎からすれば、吉田路線への反発があり、2人は食い違う。

 慶大教授の細谷雄一は、安倍がかねて吉田ドクトリンを「安全保障についての思考を後退させた」と、否定的に捉えていた(『新しい国へ』)ことを紹介。その上で、「より厳しい世界の現実に直面する勇気を」持つものとしての「安倍ドクトリン」を推奨している(中央公論2022年9月号「宰相安倍晋三論」)。永井が岡崎を否定的に捉える背景には、軍事的リアリストの立ち位置に、フランスのド・ゴール元大統領風に自国の栄光を追う、日本型ゴーリストの影を見たからではないか、と私は見る。

 40年前と違って、吉田の定めた路線を取り巻く環境は激変した。安倍の捉え方が、より正鵠を射てると思う向きは左右の立場を問わず多いように思われる。先の永井版「座標軸」で、「福祉と自立」重視のグループに組み入れられていた公明党も、その後大きく安保政策を転換した。「同盟・安全」重視の政治的リアリストの仲間入りをして久しい。今、永井ありせば、こうした変化を何というか。それでも「吉田ドクトリンを忘れるな」というに違いない。(敬称略)

【他生のご縁  謦咳に接し得たのは生涯の誇り】

 菅義偉と菅直人──首相経験者の2人が共に、永井陽之助先生に影響を受けたことを国会の場でそれぞれ口にしたことがあります。また、渡辺喜美氏(元みんなの党代表)も菅直人氏への質疑の際にわざわざ取り上げていました。このうち、菅直人氏は東京工大の出身ですが、後の2人は法政と早稲田。どちらも学外から講義を聞きに行ったと思われます。それほど、先生の講義は当時の学生に聞き応えが轟いていたということでしょう。

 遠い昔のことゆえ、慶大での講義の中身は定かではありませんが、私もその謦咳に接したことを生涯の誇りにしています。先生は総合雑誌『潮』にしばしば寄稿されており、公明党についての理解も同誌を通じてのことだったように思われます。私が大学卒業後初めて先生とお会いする機会も同誌関係者による懇談の場でした。先生は後年青山学院大に移られましたが、そこでの門下のひとりに防衛研究所の長尾雄一郎君が加わり(国際政治学博士)ました。彼はかつて私が激励した創価学会高等部員だっただけに、ことのほか嬉しい出来事でした。残念ながら47歳で同研究所第一室長の時に亡くなってしまったのは痛恨事でした。

 

 

 

 

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【46】未だ日本は「米軍の占領下」という現実──山本章子/宮城裕也『日米地位協定の現場を行く』を読む/8-20

 結党当時からの公明党を知っているものにとって、在日米軍基地というとすぐに思い出すことがある。「総点検」である。米国の占領、朝鮮戦争の勃発、自衛隊の発足、日米安保条約の発効から改定と進んだ、戦後20数年の歴史は、思い返すと即米軍との〝内なる戦いの連続〟であった。戦火を交えた国との関係は直ちに収まり変わるものではない。日米軍事協力の基礎である基地の実態を調査点検し、不必要なものは返還してもらおう──これが初期の公明党の発想だった▼1965年(昭和40年)に大学入学と同時に公明党員になった私は、〝調査なくして発言なし〟というこの党の姿勢に痺れる思いで共鳴した。あの頃から60年足らず。米軍基地の現状は残念ながら殆ど変化しているようには見えない。米軍人の犯罪を日本の司法が裁けない。航空機そのものの墜落や落下物も後を絶たない。騒音被害や環境汚染も止められない。これらすべて「日米地位協定」が邪魔をする。私は1993年(平成5年)の初当選いらい、20年間というもの、ほぼ全期間を外交・安保分野で仕事をしてきた。その間、この「協定」の壁に遮られ、幾度となく溜息をついてきた▼要するに日本、公明党、そして我が身の力不足を実感してきたのである。この本のサブタイトルは、「『基地のある街』の現実」。これは、かつて公明党の先輩たちがやった調査をもっと細かくさらに徹底して調べ上げたものだ。著者はふたり。大学准教授と新聞記者。特に前者には沖縄研究奨励賞、石橋湛山賞を受賞した『日米地位協定』なる著作があり、既にこの欄で取り扱っている▼この本を実際に手にするまで、山本さんが沖縄の基地を徹底して歩き書いたものと誤解していた。現実には全国北は三沢から、南は嘉手納基地まで7箇所(首都圏は一括り)が対象になっていて、沖縄はそのうちの一つだけ。その点は失望したが、それは私の勝手な思い込み。改めて、日本全国が米軍のもとで金縛りにあっていることがよくわかった。日本は未だに米軍の支配下にあるのだ。要するに、〝未だ独立ならず〟ということが分かった。「戦場で失ったものは、(話し合いの)テーブルでは取り返せない」という格言が胸に響く。(2022-8-21   一部修正)

 

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【45】気分は「日清、日露に勝った」直後──鈴置高史『韓国民主政治の自壊』を読む/8-12

 韓国は鑑賞する分においては、映画と同じように面白い国だ。尤も、当事者としてこの国と付き合うとなると厄介で、とても面白いなどと言っておれないだろうが。私には韓国ウオッチャーが友人に多い。つい先ほど、新しくその仲間に付け加えたいと思いたくなる人に出会った。といっても、テレビの解説番組を通じて一方的に見染めただけである。失礼ながら、お顔は見れば見るほどユニークである。この人物の書いたものも読もうと言う気になった。それがこの本だ。一読、裏切られなかった。章ごとのポイントを挙げる▼出だしの第1章は、コロナ禍。一度は抑え込んだように見えた。「西洋の没落」到来とばかりに喜んだのも束の間。瞬く間に自らの新規感染者数が世界最高レベルへと逆流。「K防疫こそ韓国人の優秀さを示す」などと呑気なこと言っておれなくなった。次いで、「あっという間にベネズエラ」の第2章。民主主義を掲げて当選しながら、その制度を壊してしまったベネズエラのチャペス大統領と文在寅前大統領は同じ穴のむじな、だと暴く。司法を掌握しようとの試みは、権威主義の国では左派だろうと右派だろうとどこでも起こるから、との指摘は納得がいく▼「そして、友達がいなくなった」との第3章は「反米、従中、親北」路線の当然の帰結だ。米国に歯向かうそぶりを見せつつ、中国に迎合し、北朝鮮と仲良くするとの路線では、誰にも相手にされないのは当たり前だろう。「政治の自壊が止まらない。韓国の知識人は今、激しい内部抗争のあげく滅んだ李氏朝鮮を思い出す」で始まる最終章は、韓国の行方を、縮んだ経済では国民をなだめるだけの分配が難しいと占う▼それでいて、「韓国は経済、外交、内政とあらゆる面で岐路に立っている」と、決定的な断定を避けた口ぶりは、韓国が苦手の日本人には物足りないかも。でも、ご安心を。「おわりに」では、きっちり、落とし前をつけている。まず、「35年間の植民地と独立後の南北分裂、朝鮮戦争による貧困」で、「周辺国から、一人前には扱われず、その劣等感は積もりに積もった」韓国人だが、「今や旧・宗主国の日本を豊かさで超え、誰からも無視されない国になったと自信満々だ」と持ち上げる。その上で、「せっかく描いた『世界に冠たる韓国』という自画像を壊す気にはならない」がゆえに、「韓国の気分は『日清・日露に勝った』直後」だと結ぶ。虚像の上に立った韓国は、波打ち際の砂の城のように、あっという間に流されるとの見立てなのである。(2022-8-12)

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【44】1-⑧ 東西文明の融合を果たすのは日本か?──安田喜憲『水の恵みと生命文明』を読む/8-10

◆人間中心主義と自然との共生主義

 人間による「自然収奪」を中心においた文明は、「自然との共生」を主眼にした文明とは全く違う。この本における著者の主張は、ここが最大のポイントである。前者を〝人間中心主義〟と呼び、畑作牧畜民による「動物文明」と位置付ける。一方、後者は、〝自然との共生主義〟とでも呼ばれるもので、稲作漁撈民による「植物文明」とする。この二分化を基本に、収奪文明と共生文明、物質エネルギー文明と生命文明、男性原理の文明と女性原理の文明などが対比されつつ語られていく。

 実はこの本は、著者が各地で講演された内容をベースに、様々な媒体に発表されたもので、全部で9つのパートにわけて掲載されている。ユーモア巧みな講演上手の著者が年来の持論を展開したもので、冒頭のエッセンスが繰り返し登場する。わかりやすく読みやすい。「国連SDGSの動き」に見るように、2030年が地球にとっての命運を決する分岐点とされ、これからの10年足らずの人類の振る舞いが注目されている。まさにその時に多くの人々に読んで欲しい本である。

 安田喜憲さんは、日本で初めて、文明や歴史と自然環境の関係を解き明かす「環境考古学」を提唱したことで知られる。湖の底に沈んだ堆積物、花粉の分析などに取り組んできたことが機縁となったという。この本の第1章は「『人生地理学』と私」。当初「地理学」を志した安田さんは、その道の先達・創価学会の初代会長牧口常三郎先生との学問上の出会いをされる。伝統的な「地理学」が、中心都市を基点に同心円状に広がって形成される「中心地論」に拘泥したのに対して、牧口先生はそれを日本には合わないと否定された。川の流域に沿って、水との関わりが強い空間認識を持たれていた。加えて「郷土」「文明」に着目されたことも合わせ、安田氏が高く評価されていることは興味深い。

 また、学者として15年ほども不遇をかこっていた同氏は、哲学者・梅原猛氏(国際日本文化センター)と運命的な出会いをし、世に大きく浮かび上がっていく。学問の世界の異端児ぶりは師匠譲りだということも分かった気がして実に面白い。人の世の出会いの摩訶不思議なることを改めて痛感する。

 ◆畑作牧畜民と稲作漁撈民との相剋の行方

 この本において、様々なことを気づかされ、再認識したが、そのうち最大のものが富士山の「世界文化遺産」認定問題だ。これに深く関わってきた同氏は、三保松原を含めるべきだとの議論に固執した。これこそ、森と里と海の生命の水の循環の場であり、生物多様性を守る格好の舞台だったからだ。それを分からず、富士山頂と駿河湾は離れ過ぎている、分けて考えるのが当然としたユネスコのイコモス(国際記念物遺跡会議)。それに同調する日本人。最終的に安田さん達の粘り勝ちで、三保松原が認められたことの意義は極めて大きい。単に距離の問題ではないことが改めて分かった自分が恥ずかしい。

 この本を読んで考えることは多いが、最大のものは、冒頭に挙げたように、畑作牧畜民と総称されるヨーロッパ系の文明と共に生きてきた人々と、稲作漁撈民と呼ばれるアジア系住民の相剋の行方である。ここで注意すべきは中国はアジアに位置するが、この両文明の対決では、欧米の側に括られる(ただし、安田さんがいう長江文明は例外として)。この帰趨については、「『植物文明』は『動物文明』にやられっぱなし。(中略) 勝たなければ、稲作漁撈民、『植物文明』としての日本民族は自滅するしかない」と、ある。

 そう危機感を述べる一方、安田さんは、東洋と西洋のバランスをとっていくことができるのは、「明治以降、欧米の文明原理を真摯に導入したにもかかわらず、江戸時代以降の歴史と伝統文化をも失わなかった日本人をおいてほかにない」と述べる。尤も、長江文明の遺産に中国が気づけば、この国もまた東西融合の鍵を握りうると思うのだが、さてどうだろうか。

【他生のご縁 劇的な出会いと次々続くハプニング】

   公明党総務部会に当時NHK経営委員だった安田さんが来られて、NHK会長人事をめぐる経緯を釈明されるというので、待ってましたとばかりに〝おっとり刀〟で出向きました。偶々慶應大の同期で塾長だった安西祐一郎氏がトラブルに巻き込まれ会長になり損なったと聞き、同社に一泡吹かせようと思ったからです。その場では、言いたいことを言って溜飲を下げたつもりでした。

 ところが、終了後、後輩の稲津久代議士から安田さんが環境考古学なる学問の権威だと聞かされると共に、畏友・浜名正勝(創価学会元北海道総道長)と懇意にされていると紹介を受けたのです。いらい、長く熱い付き合いが始まり、今に至っています。思い出深いのは、理論誌『公明』主催の対談「大災害の時代」を京都・伏見で行ったことで、実に楽しい語らいでした。

 また、来神した浜名氏と共に会う約束の場所に、安田さんが青い顔をして来られ、「金を貸してくれ」と言われるのです。聞いてみると、京都駅で財布を落としたみたい、だと。必ず出てくると励ましたら、案の定出てきました。とても感謝されたことが忘れられません。

 

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【43】「国際法など偽善に過ぎない」が‥‥──創価大学平和問題研究所『「人新世」時代をどう生きるか』を読む/8-3

 「大沼保昭文庫」が創価大学に出来た。それを記念するシンポジウムがさる3月6日に行われた。これはその記録である。サブタイトルに、大沼保昭先生の人間観、歴史観、学問観に学ぶ、とある。心打たれ、読むものを感動させずにはおかない。凄い小冊子である。ロシアのウクライナ侵攻から始まった戦争から、〝この世というもの〟を考える上で大いに参考になる★1990年代半ばに、中嶋嶺雄先生の主催される会で初めてお会いした。仰ぎ見る存在だったが、私とは同い年。その誼みで親しくさせていただいた。4年前に逝去され、その葬儀にも参列した。行動する学者として、いまわの際まで壮絶な仕事をされたことは知ってはいた。だが、遺作『国際法』の秘書役・蔦木文湖さんの語りを読み、仰天した。山田風太郎の『人間臨終図巻』の特別版と私には思われる★新聞記者として、また政治家として私は、人生の大半を、国際政治の現実を追うことに費やし てきた。やくざのいざこざと全く同じ。そんなものを追って何になる──時に、国際法学者を哀れみの眼差しで見たことも。そんな私が、大沼さんの「国際法など偽善に過ぎない」と言いつつ、同時に「意味がないわけではない」との発言をこの書で発見した。あまりにも謙虚で素直なことに、愕然とした★この書は人間・大沼保昭を、学問を通じ晩年近くに繋がった人たちが紡いでいてまことに興味深い。その中で愛娘・みずほさんの父親像が目を惹く。「皆さんが抱いている『好きだが嫌い。嫌いだが好き』とのもやもやした感情は私も共有できます」と、率直だ。「国際法に対するメッセージを」と父に迫った。大沼さんは、第二次世界大戦で日本がその活用を怠ったが故に国家滅亡の危機に瀕したとし、「国際法は日本国民が身につけ、活用すべきものだということにほかならない」と述べた。当たり前のことに聞こえる。だが、同時にたとえようもなく重く響く。(2022-8-3)

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【42】脱成長で豊かな社会は可能か——広井良典『人口減少社会のデザイン』を読む/7-26

大阪弁護士会有志による『環境・福祉・経済の鼎立は可能かーポスト成長・人口減少社会のデザインー』というタイトルのゼミナールが2022年7月にあり、リモート参加した。「熊森協会」会長で弁護士の室谷裕子さんの紹介による。この本がテキストということで、開催前日までに大急ぎで読んだ。読みやすく種々啓発される好著である。実は、以前に取り上げた『人新世の「資本論」』の中で、著者の斎藤幸平氏が、広井さんを「資本主義的市場経済を維持したまま、資本の成長を止めることができるという」、「旧世代の脱成長派」だと、厳しく叩いていた。そのため、どんな反論、反応がなされるか、ということにも関心があった。しかし、笑いながら「ベストセラーの本の中で、〝古い世代の脱成長派〟と言われていて、光栄に思う」とはぐらかされた。〝大人喧嘩せず〟ということだろうが、ちょっぴり物足りない思いはした。

 この本で、著者は、人口減少社会の最先端を走る日本が、将来(2050年)において、持続可能な社会であるために、何をせねばならぬかについての論点と提言を展開している。それは、①将来世代への借金のツケ回しを早急に解消②若い世代への支援を強化して、「人生前半の社会保障」に力点を置く③「多極集中社会」の実現と、「歩いて楽しめるまちづくり④都市と農村の持続可能な相互依存」を実現する様々な再分配システムの導入など10個に及ぶ。広井さんは、〝持続可能な「定常型社会」〟という概念を作り出した人だが、この言い方はいささかわかりづらい。むしろ「経済成長を至上目標にせずとも、十分豊かで破滅しない社会」と言い換えた方がいいのではないかと思う。縮めると、「脱成長で生き抜ける社会」とでも言えようか。

  • ●人の流れを全国に拡散すべし

10の提言の中で、印象深いものを3つ挙げる。まず、③。高度経済成長期の日本は東京への一極集中できたが、これからの人口減少社会では、むしろ逆になるのではないか。人の流れを全国へ拡散し、多極集中となるように、政治、行政がリードしていく必要があるということだと思う。「歩いて楽しめるまちづくり」がなされている一例として、姫路市が取り上げられているのは元同市民として嬉しい。駅前から一般車両の進入を廃し、水遊びが出来るサンクン・ガーデン(地下庭)が紹介されている。次に②。これまで老人、つまり「人生後半の社会保障」に主軸が置かれてきたが、これからは逆に子どもたちに目線を向けた社会保障の充実をめざせという。最近の自公与党、とりわけ公明党はしきりに、乳幼児から小中高生への教育無償化を叫び実現させているが、まさにこの路線と軌を一にしている。

 最後が①。現役世代は自らの「借金」を、ひたすら将来世代にツケ回しをしようとしてきた。広井さんは、「困難な意思決定を先送りして、〝その場にいない〟将来世代に負担を強いるという点で、(諸外国と比較しても)最も無責任な対応」だと厳しく非難する。その上で、「富の規模と分配について、どのような理念の下にどのような社会モデルを作っていくのかという、『ビジョンの選択』に関する議論を日本は一刻も早く進めるべきなのである」と警鐘を乱打している。

 だが、この本が出されて既に3年近くが経ったが、全くその気配はない。いや、参議院選が終わり、これからの3年は大きな選挙はないと期待されていたが、あっという間に無為のまま時間が経った。国の骨太なビジョンを作成するために費やして欲しいものだと思い続けた私はさまざまな機会を捉えて、国家ビジョン構築に向けて自公による政権内部の議論をすべきだと提案してきたが、果たされないままいたずらに時間だけが過ぎた。ともあれこの本は、これからの人口減少社会を考える上で大いに参考になる。

【他生のご縁

現職時代に党の政調の会合で幾たびかお会いしてお話を聞く機会がありました。

 

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【41】人類の危機の連鎖を気づかせる➖スラヴォイ・ジジェク『パンデミック2』(岡崎龍監修/中林敦子訳)を読む/7-19

 本格的な夏の訪れと共に、コロナ感染者の数がまた一段と増えてきた。国内外の旅に手ぐすね引いて待っていた大人にも、夏休みに心躍らせていた子どもたちにも水が浴びせられた格好だ。「第7波の到来」との声に誰しもうんざりする。ジジェクの『パンデミック2』を読むきっかけは、テレビで斎藤幸平氏(『人新世の資本論』の著者)の解説を聞いたことによる。同氏は1冊目に当たる『パンデミック』の監修を担当していた。一方、この本は2020年春以降の情勢変化を踏まえた続編で、コロナ禍を題材にした現代文明論、哲学考、政治分析の赴きがある。著者の奥深く幅広い知性に圧倒されるばかり。参院選前に読み終えていたが、終了後改めて読み直し、コロナ禍を舐めてはならないことを痛感する◆ジジェクは、スロべニアの哲学者。精神分析学をテコに現代世界を俯瞰して解き明かす。「はじめに」の書き出しは「北北西で何か怪しい匂いがする」と、あたかもヒチコックの映画に思いを向かわせつつ、2020年6月、ドイツの食肉工場でのコロナのクラスター発生に繋げていく。第1章は、「マルクス兄弟主演の映画『我輩はカモである』」から口火を切る。以下14章まで、次から次へ映画やドラマを使い、小説を引用して、わかりやすい口調で、難解なコロナ禍での社会的事象や現実政治を腑分けする。更に「補遺」では、「権力と外観と猥褻性に関する四つの省察」と銘打ち、「新ポピュリズムの台頭を特徴とする世界」の動向を占う。具体的にはトランプ米大統領(当時)現象を料理する際の手の内を明かしてくれるのだ◆「彼は猥褻な噂が流れるような威厳のある人物ではない。彼は猥褻性を品位の仮面に見せようとする(公然と)猥褻な人物なのである」とするように、手を替え品を替えて幻想を打ち砕く。「我々が見ているのは『裸の王様』のリメイク版」だが、原作と違って「無邪気な子供の視線」は必要なく、「王様本人が自慢げに『俺は何も着ていない』と公言している」というように。トランプは過去の人ではない。今も米国を二分する人気を博し、2年後の返り咲きを狙っている。日本でも無縁ではない。反トランプの言説は「陰謀論」だとする動きがヒタヒタと水嵩を増している。トランプという〝暴れ馬〟をうまく御していたかに見えた、安倍晋三元首相。彼を亡くしてしまった日本が、やがて深刻な苦境に陥らぬことを願う◆コロナ禍は当初は「我々は皆同じ舟に乗っている」との認識で一致し、「人類は運命共同体」であることを楽観視させた。しかし、ジジェクは、今や「階級間の分断が爆発的に広がっている」とし、最下層にある人々(移民や紛争地に取り残された人々)にとっては、生活が困窮しすぎてCOVID-19(コロナ)は重要な問題ですらない」と危機意識を煽る。最前線でウイルスと闘っている看護師やエッセンシャルワーカーたちを、新時代の搾取階級だと位置付けさえする。混迷を続ける現代世界を救うのは資本主義の装いを変えることでなく、「コミュニズム」の見直しに期待する動きが日本でも漸く仄見えてきた。果たして、それが真に世界を、日本を救うよすがになるのか。それとも新たな混乱の深みへの機縁に過ぎないのか。その辺りに考えは及び、興味は尽きることがない。(2022-7-19)

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【40】6- ④ 精神科医作家の華麗なるデビュー作━━帚木蓬生『白い夏の墓標』

◆小説らしい面白い要素が満載

 久方ぶりに小説らしい小説を読んだ。ここで、小説らしいとは何か、と考えてみる。一にドラマチック。二に、リアリスティック。三に、ミステリアス。あとは欲をいえば、男と女の絡み合いがほどほどにあって、救いがちょっぴり。これが私の求める理想の小説像である。実はこれ、この本を読み終えて、頭に浮かんだものを羅列してみただけ。小説を以前ほど読まなくなったのは、歳を取ったことと関係する。読み進めるにつけて、過ぎ去りし時間への後悔が次ぎつぎと湧き出てあまり楽しくない。平板過ぎたり、リアル過ぎて悲しくなるのも嫌だ。だからといって荒唐無稽なのも。女性が描かれていない、貧しさと無縁なのも面白くない。それでいて、最後は明日への希望が湧いてこないと。この本は、今挙げたような、あって欲しいと思う要素が全部入っている。帚木さんのデビュー作なのである。

 実は、『三たびの海峡』『逃走』『閉鎖病棟』といった初期の作品を感動のうちに読み進めながら、世に「帚木蓬生」の名をたかからしめた『白い夏の墓標』を、私は読まずにきた。なぜか。単純な思い込みだが、「医に関わる者の戦争犯罪」と聞いただけで、暗い雰囲気と結論めいたものが分かってしまう。だから敢えてそういうものは読まずに済ませよう。そんな感じで、きた。それがここへきて読む気になった。理由は二つ。

 一つは新型コロナウイルスのパンデミック。「ウイルス」の犯罪化をどう描いているかに興味が湧いた。もう一つは、このところ大型化してきて、読み辛いものが多いこの人の作品からすると、手ごろな分量だという点。最初の数頁のとっかかりの悪さを乗り切れば、あとは一気に滑り出すボートのように心地よく進む。東大仏文科を出てTBS記者になるも、僅か2年で辞めて九州大医学部へ。卒業後は精神科医をやりながら小説を書く。今なお二足の草鞋をしっかり履き続ける、その才能の凄さ加減が嫌と言うほど分かった。

◆「逆立ちした科学」への憤り

 6つの章立てと展開は、実に技巧が凝らされ、考え抜かれたものだ。物語は肝炎ウイルスの国際会議に出るためにパリを訪問中の大学教授佐伯の舞台回しで進む。①その佐伯とベルナール老人とのいわくありげな邂逅②主人公黒田と佐伯の学生時代の出会い③現代に戻って、謎めいた佐伯のウスト行き④ウイルス研究に取り憑かれた黒田の手記の登場⑤黒田夫人ジゼルの衝撃の告白⑥黒田の娘クレールの快活な振る舞いと、ベルナールの締めくくり的手紙。──仙台型肺炎ウイルスの研究で、米軍にその能力を買われた黒田が、アメリカに留学して、数奇な運命に巻き込まれていく、興味津々たるストーリーが展開していく。

 著者のいいたい最大のポイントは④の手記における、主人公の煩悶にあろう。「逆立ちした科学に向かう者と、まっとうな科学を目指す者に振り分けるものは一体何なのか。実は何もない」「もっとも恐ろしいのは、まっとうだと思い込み、また人からもそう信じられ、その実、逆立ちしている科学ではないのか」と。細菌兵器開発の実態を明解に暴くくだりである。

 一方、この小説の面白さは、⑤の黒田とジゼルの逃避行に違いない。ハラハラどきどきの冒険談に引き込まれていく。だが、そこにいくまでの随所に盛り込まれた物語全体の伏線がたまらない。とりわけ黒田の生い立ちにおける貧しさと、それゆえの複雑な男女のもつれあいが味わい深い。そして巧みな比喩を駆使しての文章のうまさ。「白い綿球状の花をつけた牧草の上を靄が滑走していく。白い水蒸気の帯が深呼吸をするように、次々と山頂の方へ吹きあがっていくごとに、斜面はあざやかな緑に変わっていった」──こうした表現に出くわすたびにため息が出る思いがする。自分はいつになったらこんな情景描写を繰り出せるのか、と。また、娘の若さそのものの強調ぶりに、場違いとも思える不思議さを感じる。と同時に、微かにちらついた不思議な影。ひょっとすると主人公は生きているのかも、との疑念が浮かび上がる。いやはや面白い小説を楽しめた。

【他生のご縁 精神科医と小説家の二刀流の達人】

 帚木蓬生さんは福岡出身。今もそこに住み、精神科医をしながら小説を書いておられます。私の50年来の友人T氏が彼と同じ久留米の明善高校の同期。そんなことからごく早い段階からこの人の書くものに注目してきました。

 初期の作品のうち『逃走』を読み、読後感を処女作『忙中本あり』に取り上げました。併せて、小説の流れとして父上を死なせた方が面白かったのに、と手紙を書きました。それには、「父が死ななかったからこそ、私が生まれたのです」との返事。この真面目な返し方には笑えました。ともあれ、小説をめぐって、作家自身とやりとりするなんてことは滅多にないことで、とても嬉しい経験でした。

 この人は薬物中毒などの歪んだ生活習慣に苛まれている人たちのよすがになって、日常的に患者に寄り添ってきていることで有名です。小説を書く観念空間と実人生を生き抜く現実空間とが織りなす綾の中で紡がれる物語と言葉。それが堪らない魅力を湛えているように思われます。

 

 

 

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【39】沈黙は拒否するとの呼びかけ——岡部芳彦監修『魂の叫び ゼレンスキー大統領100の言葉』読む/6-13

 「セルフィーマン」──この本の監修をした岡部芳彦さん(ウクライナ研究会会長、神戸学院大教授)は、ゼレンスキー大統領から、こう呼ばれたとのエピソードを「はじめに」で紹介している。3年前の9月にウクライナ版ダボス会議と称される「ヤルタ・ヨーロッパ戦略会議」に出席した主要ゲストの集合写真の撮影のあとのこと。岡部さんが同大統領とツーショットを撮りたいと頼んだものの、シャッターを切ってくれる人がいなくて困った。その時彼が岡部さんのスマホを取り上げて自撮りしてくれた。1ヶ月経ち、即位の礼に来日した同大統領は、出迎えの列の中にめざとく岡部さんの姿を見つけ、冒頭の言葉を発したというのである。この最初の出会いの時のゼレンスキーが自撮りしてくれた写真を、2人で持ったショットがこの本の監修者紹介欄に掲げられており、微笑ましい◆当時、ヴォロディーミル・ゼレンスキーも岡部芳彦も日本ではあまり知られた存在ではなかった。だがロシアのウクライナ侵攻から100日が過ぎ、ゼレンスキーを知らない日本人はいないようになり、岡部さんも単なるウクライナ好きの大学教授だけではなくなった。この本は、ゼレンスキー大統領が口にした短いが魂のこもった100の言葉を岡部さんの解説と共に紹介した本である。恐らく編集スタッフが集めた語録の中から岡部さんが選びだし、それに解説を加えたのだろう。同大統領をめぐっては率直に言って、「喜劇俳優上がりの政治の素人が世界の人々の心を揺るがす名政治家になった」との評価が一般的である。この戦争がなければちょっと変わった平凡な政治家に終わったはず、とのしたり顔の解説も出回っている。未だ戦争が続いている中で、歴史がどう評価するか未決着の中での、危うい試みであることを百も承知で出された本だが、何はともあれ読んだ。その結果、深く心を揺さぶられた◆色んなことを考えさせられる。今も、そしてこれからも、たびたびこの本は開くことになるに違いない。100の言葉の中で、私なりのキーワードを一つ挙げる。それは「沈黙」という語句だ。3箇所に登場する。最初は、【043 悲劇は繰り返される】で「同じバビ・ヤールの地に砲弾が落とされても、世界が沈黙しているならば、80年間、『二度と繰り返さない』と言い続けてきたことに、いったいなんの意味があるというのだ。少なくとも5人が殺された。歴史は繰り返す‥‥」(2022-3-2 twitter の投稿より)    二つ目は、【069 沈黙は拒否する】で「われわれを支援してほしい。どんな方法でも。しかし、沈黙以外でだ。」(2022-4-3 第64回グラミー賞でのオンライン演説より)  三つ目は、【074 沈黙のナチズム】で「ナチズムは沈黙の中で生まれるのです。だから、民間人の殺害について、叫んでください。ウクライナ人の殺害について叫んでください。」(2022-3-2 大統領公式HPより)  岡部さんの解説で、キーウ近郊バビ・ヤールで、先の大戦下に僅か二日間で34000人ものユダヤ人が虐殺され、このたびロシア軍によって同じ地にあるホロコーストの被害者たちの追悼施設が爆撃の被害にあったことを知った◆「沈黙以外の方法で支援をしてほしい」これがこの本でのゼレンスキー大統領の言いたいことのエッセンスに違いない。彼は、グラミー賞授賞式の場で、「音楽とは真逆のものは何か」と自問し、「破壊された都市と殺された人々の静寂である」と自答し、「戦争では誰が生き延び、誰が永遠に静寂にとどまるのか、自分たちでは選べないのだ」と付け加えた。そして、集まったアーチスト達に「『あなたたちの音楽で』で、ロシアの爆撃がウクライナ街にもたらした『沈黙』を埋めてほしい」と呼びかけたという。感動せずにはおられない。日本の国会でのオンライン演説では「非難した人たちが、故郷に戻れるようにしなければならない。日本のみなさんもきっと、そういう気持ちがお分かりでしょう。住み慣れた故郷に戻りたい気持ちを」の言葉が選ばれている。あの時の演説では、日本の支援への感謝の言葉が目立ち、チェルノブイリ原発への言及が印象に残った。世界唯一の被爆国日本へのメッセージとしてはインパクトが弱く、物足りない気がしたものだが。(2022-6-13)

 ※参議院選挙が終わるまでしばらく休載します。

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【38】2-⑤ したたかな戦略で封じ込めるかー石川好『中国という難問』

◆「大きく、広く、深く、多い」国

 今から11年ほど前の私の「読書録」(2012-2-11)に書き、電子版『60の知恵習い』に転載した石川好さんの本を、まず紹介したい。

 《先日NHKのラジオ深夜便を聴いていると、懐かしい声が聞こえてきた。作家の石川好さんが、中国の南京などにおいて、日本人による戦争被害をアニメや漫画で紹介する試みをしてきたことを話していたのである。彼が日中友好21世紀委員会の一員として、ユニークな運動を展開してきていることはかねて知ってはいた。しかし、これほどまでとは思わなかった。なかなか聞き応えのある中身で、強いインパクトを受けた。彼とは、私が新聞記者時代に取材をして以来、交友関係が続く仲である。彼が専門としてきたアメリカについての著作はほぼ全部読んできた。その後、中国に主たる関心のスタンスを移されてきたことは十分に知っていたが、この『中国という難問』は読んでいなかったのである。

 一読、非常に新鮮な印象を持った。世に、「嫌中論」や、「中国崩壊論」的な論考は数多い。それを十分に意識した上で、単なる日中友好を叫ぶだけでなく、「大きく」「広く」「深く」「多い」国としての中国をあるがままに捉えようとの試みなのである。ありきたりの「友好論」ではなく、ためにする「反中論」でもない。等身大のかの国を真摯に掴もうとするアプローチの仕方は、中国に関心を持つ者にとって極めて参考になる。

 56もの民族を抱える多民族国家・中国。その憲法に少数民族の処遇が掲げられていることを「絵に描いた餅」だとはいうまい。我が日本国憲法にも類似した項目は少なくないのだから。日中間に真の和解を実現するために、「日本国家から国民へ」と、「日本からアジアへ」の二つの謝罪が必要であるとしている。

 また、10年以上前からの持論である「非西洋社会を代表しての弾薬を込めた謝罪(したたかな計算による戦略的な謝罪の仕方)」を提案するなど、いかにもこの人らしい興味深いアイデアが込められている。「崩壊や分裂でなく、大統一に向かっている」中国との付き合い方を日本は考えるべきだという。本当だろうか、などとはあえて疑わないでおこう。現代中国の現場を知る人の声に、まずは真摯に耳をそばだてたい》

◆世界史を逆転させる「正義の夢想」

 改めて読み直し、古さを感じさせないことに我ながら驚く。なぜ今ここに再録したのか。それは、習近平の就任直前に石川さんが書いたものではあるが、大筋において、10年後の中国の現状を言い当てているからである。「本当だろうか」と疑った風を見せた私など、身の置き場に困惑するほどだ。ウクライナに牙を剥き、歴史の逆転ものかは、襲いかかったプーチンのロシアに、こよなく気を遣う習近平・中国の明日を疑う人はあまりいない。台湾併合から尖閣諸島(魚釣島)に手を伸ばしてくることは明白だとの見たてが、今ほど現実感を伴って聞こえることはないのである。

 石川さんの述べた「謝罪論」とは、日本が自らのかつての植民地主義を、中国を始めアジアに謝って見せること(ポーズだけでなく、国民一人10万円、総額12兆円ほどを弁償)をさす。非西洋社会を代表しての日本の「謝罪」によって、西洋社会に「過ち」を覚醒させ、同じ行為を促し、破産に追い込むという算段である。過去の歴史的名謝罪の主役だったヴァイツゼッカー(対ナチス)やエリツイン(対シベリア連行)、レーガン(対日系米人)の巧みな演技を駆使しての「謝罪」を連想させ、日本に決断を迫ってくるのだ。この〝石川流謝罪のすすめ〟は、荒唐無稽な夢物語だと切って捨てるには惜しい着想と思われる。

 被植民地国家群の対西洋植民地主義への一斉蜂起は、世界史を逆転させる「正義の夢想」だからである。ロシアのウクライナ戦争に端を発し、中国の台湾奪還、北朝鮮の日本報復を想起するという「地獄の連鎖」より遥かに心地よい響きを持つ。今、プーチンのロシアに対して、反戦の声が同国内から起こってくることを待望する向きは極めて大きい。と同じように、中国における反習近平の動きが気にならぬといえば嘘になる。「露中対欧米日」の専制主義と民主主義の確執を前に、かつてのロシアにおける「ゴルバチョフの役割」、中国における「周恩来の存在」──ここらを睨んだしたたかな戦略で、北東アジアの〝今再びの惨劇〟を防ぎたい。

【他生のご縁 北前船フォーラムのリーダーとして】

   石川好さんと先年、淡路島で久方ぶりに再会しました。作家デビューから参議院選出馬、民主党政権のブレーンなどを経て、秋田公立美術工芸短期大学長時代に、私の年来の友人のA氏やK氏たちと一緒に立ち上げた『北前船フォーラム』の代表としてやってきたのです。

 その当時、「瀬戸内海島めぐり協会」専務理事の仕事を手がけて悪戦苦闘していた私は、先達の知恵に学ぼうと出かけました。歴史と伝統の厚み、多層的人脈のスケールの大きさなど何をとっても敵わない力の差を感じました。トップはこちらも負けていない大物(中西進先生)なので、ひたすら裏方の力の差であることを思い知らされたものです。

 

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