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【17】創造の触媒になった日蓮の思想ー高橋伸城『法華衆の芸術』を見て、読む/1-16

 読み終えて、立ち込めていた霧が晴れ渡ったような爽快感が込みあげてきた。高橋伸城『法華衆の芸術』である。通常の本よりひとまわり大きいハードカバーで、芸術を説くものらしく鮮やかな写真が随所に盛り込まれた素晴らしい佇まいを持つ。昨年末に出版元の第三文明社に親しい先輩・大島光明社長を訪ねた際にいただいた。「とても良い本だよ」との言葉とともに。新年明けの数日に見て読んで私の長年の仏教美術に対する引っ掛かっていたものが払拭した。仏教美術というと思い起こされるのは仏像である。そして水墨画にみる山岳風景であろう。かねて私はそれらを西洋の宗教美術一般に比して、漠然とだが〝粋でないもの〟と受け止めてきた。あたかも讃美歌と読経の差のように◆この本では、『鶴図下絵和歌巻』(本阿弥光悦)、『源氏物語関屋澪標図屏風』(俵屋宗達)、『唐獅子図屏風』(狩野永徳)、『楓図壁貼付』(長谷川等伯)、『雪中梅竹鳥図』(狩野探幽)、『風神雷神図屏風』(尾形光琳)などが、法華衆の芸術として取り上げられている。更に、もっと一般の目に触れる、あの葛飾北斎、歌川国芳らの絵も。この作家たちが何と、皆日蓮大聖人を慕い、法華経を生活の根本にしていたという。恥ずかしながら知らなかった。安倍龍太郎の小説『等伯』をのぞき、関連する表現との出会いはこれまで私にはなかった。美しい一連の屏風絵や絵図を見ながら、ただ唸るしかなかったのである◆この本の著者・高橋伸城さんは新進気鋭の「ライター・美術史家」である。「大切な人の無事を祈らずにはいられない」「 絵であれ、彫像であれ建物であれ、ものを作るという行為もまた、広い意味での信仰と無縁ではありません」との印象的な文章で始まるこの本は、法華衆による芸術を初めて世にまとまった形で提起したものと言えよう。これまでの仏教美術の常識的見方をぶっ飛ばす勢いと価値がある。まず13人の法華衆の作品群が感性を大胆にくすぐる。そのあと、西洋に広がった法華芸術の展開から、現代美術家の宮島達男氏との対談、河野元昭東大名誉教授へのインタビューが続き、理性を鋭く刺激する。〝絵解き〟〝文字解き〟〝理屈解き〟で、三重奏に酔いしれる思いだ◆「爾前の経々の心は、心のすむは月のごとし、心のきよきは花のごとし。法華経はしからず。月こそ心よ、花こそ心よと申す法門なり」ー手段としてでなく、見る対象そのものズバリを美と捉える、日蓮大聖人の「白米一俵御書」の有名な一節だ。今生きている時代と場所を肯定する法華経の考え方は、宮島氏が言うように「この世にある素材を使い、この世でものを作り上げる造形美術と結びつきやすかった」し、「(日蓮の)革新的な姿勢は、惰性と見分けがつかなくなった〝伝統〟を打破しようともがくアーティストたちにとって、強力な指針になった」と思われる◆こう解説されて得心はいくものの、造形と宗教・思想との関係がこれまで殆ど問題とされてこなかったのはなぜなのか。6年余り前から「芸術創造の触媒となった日蓮の思想」に着目してきた河野氏は、その2つを分けてみがちな学問領域の問題や、宗教と時代の関わりの濃度の差があるとしたうえで、「端的にいえば、実証が難しい」ことに原因があるという。作者たちが、制作にあたっての心境などを語っていない限り、確かにそうに違いない。研究は「まだ緒についたばかり」で、鈴木大拙氏による禅宗のインパクトや、浄土宗的仏像美術の流布に比べてはるかに遅れている。であるからこそ、大いなる希望が水平線の彼方から顔をだす太陽のように沸き起こってくる。わくわくしながら時の到来を待ちたい。(2022-1-16)

 

 

 

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【16】めくるめく池田思想の展開序曲ー創学研究所編『創学研究1ー信仰学とは何か』を読む(下)/1-10

 「仏教では、イエスの復活のような非現実的なことは説かない。こういう人もいるでしょう。しかし、そんなことはありません」ーこの本では随所で〝面白い発言〟が発見できるが、最も私が感じ入ったのは、この松岡氏の見解(第二部「信仰と学問の間でーそれぞれの人生体験から」)である。以下、こう続く。「仏教教典を読むと、非現実的な出来事は随所で説かれています。原始仏典に出てくるブッダと神々や悪魔との対話、法華経に説かれる虚空会の儀式などは、およそ非現実的な出来事というしかありません。その点ではイエスの復活と変わりないのです」。いやはや、よくぞ言ってくれた、と多くの人は思うに違いない。この当たり前のことが長く私たちの周りから聞かれることはなかった◆「キリスト者は二重人格」ー私が創価学会に入った50年余り前には、こう無批判に切って捨てることで、よしとしてきた。それが、「我々仏教者も、佐藤さんが言うように宗教的事実と歴史的事実を立て分けて理解する必要があります」との見解が素直に身の内に入るようになり、キリスト者ともまともに対峙できるようになったのである。これこそ、ここ数年の佐藤優、松岡幹夫両氏の功績に依るところが大きい思われる。尤も、これまでの他宗教批判は、日蓮大聖人の「四箇格言」を勝手に拡大化したものともいえ、取り扱いには注意を要する。日本における仏教理解は、伝来してより1500年足らず経っても、未だ充分になされているとは言い難いのである◆創価学会的世界に安住してきた私のような人間にとって、この本における黒住真、未木文美士、市川裕氏ら宗教学、哲学者の皆さんの指摘は極めて新鮮に聞こえる。例えば未木氏の「(現在の創価学会が)『池田教』のようになってきたのではないか」と、従来は伝統仏教の側面を有していたのに、現状では「純粋な新宗教になって」いる、との危惧を述べているくだりをあげよう。松岡氏はこれに対して、御本尊も、勤行の形式も、御書の解釈も基本的に変わっていないとしたうえで、「要するに物の見方が変わったのです」として、「池田先生の仏教解釈が一切の基準になっています」と明言している。池田思想の本格的展開を待望してきた者にとって、これ以外にも実に興味深いやりとりがなされていて、刺激的だ◆一方、一創価学会員として注目されるのは、第三章における「御書根本」と「信仰体験」に関する記述である。蔦木栄一氏は「池田先生の著作に見る『御書根本』について」の中で、「ただ御書を読むだけでは不十分であり、師弟の精神がなければ御書を身で読むことができない」として、『人間革命』『新・人間革命』から御書についての記述を丹念に拾い上げており、参考になる。私のような些かへそ曲がり的信仰者は、ややもすると、大聖人の御書の核心部分が眩しく見え、「身で読む」ことをためらいがちになる。大聖人の壮大な大確信から発せられる言葉を、時に〝独特の誇張表現〟と見てしまうこともある。この辺り、松岡氏の「学会精神の日蓮大聖人」との表現に見られるように、「超越性と現実性」を併せ見ることが必須なのだろう。最後に、山岡政紀氏の「『新・人間革命』に描かれる地涌の菩薩たち」には唸った。今私がブログに連載する「小説『新・人間革命』から考える」では、気にはなりながら、信仰体験部分をカットしてきたからだ。ともあれ、この本は今に生きる創価学会員にとって必読書だと心底から思う。(2022-1-10)

 

 

 

 

 

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[15]積年の気掛かり吹き飛ぶ━━創学研究所編『創学研究1ー信仰学とは何か』を読む(上)/1-8

「創学」とはまた聞き慣れない言葉である。キリスト教における「神学」と相関関係にあるものとされる。創学研究所は、2019年4月に設立された。松岡幹夫氏が中心となって立ち上げられたもので、この本が「創学」の出発点であり、現時点での研究所産のすべてになるものと見られる。意欲的な論考や対談、鼎談が満載されており、知的興味を超えた信仰的刺激をたっぷり受けることが出来た。松岡さんの著作についてはこれまで数多く読んできたが、『日蓮仏教の社会思想的展開ー近代日本の宗教的イデオロギー』が最も印象に残っている。作家でキリスト教神学に造詣の深い佐藤優氏との〝二人三脚的関係〟も、昨今つとに知られているが、この本では改めてその絆の深さに感じ入った◆この本を通して、多くの発見や気付きがあったが、ここではほんの一例を挙げてみる。それは「信仰的中断」との概念についてである。これまでの56年を超える信仰生活で、常に私の頭を離れなかったのは、理性的思考と信仰との両立である。疑うことと信じることは正反対の位置にある。日常的にも「思考停止」は悪とされ、考え続けることの重要性は自明の理である。それを日蓮仏法の門を叩く際に、仏の教えは、はなから正しい、その通りですとの姿勢から出発すると聞いて、抵抗感がなかったかというと嘘になる◆しかし、下世話な言い方をすると、文字通り試しにやってみたら、良い結果が出たがゆえに、あれあれっていう感じが続く中で、今があるというのが偽らざる実態である。その仕組みについて、こう説明されている。「あえて、我々は信仰は思考の中断から始まると訴えたい。その意図は自己自身の思考の方法論的死である。決して思考の全面的停止ではない」「思考再生のために、自らの小さな思考を方法論的に殺す。それゆえ、信仰的『中断』と称し、思考停止の一時性を強調する」──この解説を読んで、なるほどと心底から得心がいった。折伏の場面で、「下手の考え休むに似たりだよ。我見を一旦捨てて、こっちの話を聞きなよ」と言ってきたことを思い出す。「信仰的中断」をめぐるこの本での絶妙の言い回しに深い感動を覚えるのは私だけではあるまい◆尤もこれは、入り口の段階でのことであって、一旦中に入ると、武芸の道と同じように先達の教えに従うしかない。つべこべ言わずに、ひたすら練習して、基本の繰り返しをするだけである。ただ、この最初が肝心で、一つ間違うと負のスパイラルに陥る。であるがゆえに、皆躊躇するのに違いない。私の場合はレアケースかもしれないだろう。この偉大な仏法にめぐり合い、池田先生という稀有の大師匠と若くして出会った我が身の福運に大感謝するしかない。懐疑の連続。考えに考え抜く日常生活の中で、随所で「信仰的中断」を織り交ぜる──我が身についたこのリズムを改めて確認できた。これを始めとして、この本では深い思索と信仰実践から紡ぎ出された貴重な「考産」が次々と登場してくる。積年の懸案が一気に吹き飛ぶ思いがしてならない。(2022-1-8)

 

 

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(第4章) 第5節 基礎科学分野の振興へ「新しい社会的実験」━━大隅良典・永田和宏『未来の科学者たちへ』を読む/1-3

ノーベル生理学・医学賞受賞者の切なる挑戦

 経済的に恵まれない若者たちに、私が資金を提供する基金団体を作って喜ばれている━━数年前に見た初夢で、いまも覚えている。かねて人生最後の望みがそこにあることを、身近な友人に吹聴してきたからに違いない。その年の暮れも押し迫った頃に、姫路出身東京在住の仲間たちの集い「姫人会」が開かれた。その際に、元日経新聞記者から東京工大副学長を経た後に、公益財団法人「大隅基礎科学創成財団」の常勤理事を務める異色の経歴を持つ才人・大谷清さんから、標題の本をいただいた。当時出版したばかりの『77年の興亡』を差し上げた代わりだったので、文字通り物々交換となった。よければ読書録に書いて欲しいとのことだった。

 そういう目的で本を貰うことはあまりないこともあり、喜んで年末から貪り読んだ。2016年にノーベル生理学・医学賞を受賞した大隅さんは、冒頭に書いた私の夢に近いものを既に見事に実現されている。卓越した文筆家でもある著名な生物科学者の永田和宏さんの興味深い論考と、友人お二人の対談を織り交ぜた本だが、実に面白く楽しめた。私のような老政治家が読んでも貴重な〝気付き〟が幾つもある。科学に近寄りがたいものを持つ全ての人たちに勧めたい好著だ。

 大隅さんがこの財団を作るに至った背景には、基礎科学の分野が危機に瀕している現実がある。国のお金にだけ頼らず広く寄付を募り、基礎科学の理解と振興を目的としての、眼を見張るべき挑戦だ。これは「新しい社会的実験」だとする大隅さんらの試みである。それへの宣伝の役割をこの本は持つともいえよう。大いに啓発された。遠い昔に、父親から『なぜだろう なぜかしら』という本を買って貰ったことを覚えている。科学的なものの考え方に興味を持つきっかけを作ってくれようとした親心だったはずだ。だが、後に高校時代に、いわゆる出来のいい友人たちの多くが理系志望だったことに反発する思いもあって「試験管を動かすよりも、人の心を動かす」のだと、私は心密かに息巻いた。そして政治学の門を叩いた。

 日本の政治の劣化ぶりをも指摘

 以来、半世紀近くが経って、国会の場で、基礎科学への財政的支援をするべし、との気運が公明党内でも起こり、私もその気になったものである。しかし、結局は確かなる手応えの結果はもたらすことができなかった。大隅さんは恐らく政府、政治家に頼ることを諦めて、自ら財団を作る決意をされたのだろう。日本人が総じて「議論」が苦手であることはもはや通説だが、この本ではその代表例として政治家のケースが挙げられている。「いま議論の虚しさを感じさせる場面は国会かもしれない。議論が破綻していることは誰の目にも明らかだ。日本の政治の劣化は著しい」──この指摘は悔しい思いもするが、文字通り的中している。

 この本の二人の著者は私と同世代。様々な意味で現代日本についての思いは共通する。国会、政治家の劣化を指弾されて、人生をこの分野だけで生きてきた者として、恥ずかしくないかと言えば嘘になる。残念ながら同調する気分は抑えがたい。いったいどうしてこんなことになってしまったのか。大隅さんは、テレビで映される国会中継を見て、「議論の中から新しいものが生まれる生産的な活動だと実感することはできようもない」と手厳しい。

 私は先に出版に漕ぎ着けた自著の最後に、国会議員の質問を査定する機関を民間で立ち上げる提案をしている。色々と障害はあっても、やってみる価値はあろう、と。基礎科学への支援を広く呼びかける試みに見倣って、今の国会、政治家を建て直す企てへの支援を呼びかける財団でも作ってみたい。これは〝正夢〟にしたいのだが。

【他生のご縁  高中小の子どもたちとの語らい】

 大隅さんが姫路にやってくるので、科学好きの高中小生たちを集めて欲しいとの要望を受け、関係筋に声をかけると共に、自分も大いに楽しみにしていました。その日は会場いっぱいに詰めかけた子どもたちとの質疑応答。「ノーベル賞を取るにはどんな勉強をすればいいのですか?」「壁にぶつかった時には、どんな気持ちでしたか?」と言った質問に丁寧に答えていました。「苦手だからやらないとか、役に立つからやるという観点だけではいけないよ」「私のこれまでの道は失敗ばかり。失敗を恐れてはいけないよ。何をそこから学ぶかが大事です」などと、大人にも通用する大事な話でした。

 「ミケランジェロとダヴィンチとではどっちが好きですか?」との質問が少女から飛び出しました。即答出来ずタジタジと見える場面も。この人らしい真面目さが伺えて微笑ましい感じになりました。また、最後に高校生から安倍元首相の国葬についての問いかけには「手続きに問題があり、個人的には反対です」ときっぱり。会場を後にされる間際に立ち話。「所属する公明党としては賛成ですが、私も先生と同様に個人的には反対です」と伝えたしだいです。

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[13]ここに夢あり──フランス人の漫画『失われた田舎暮らしを求めて』を見て読む/12-27

 本年最後にとっておきのl漫画をここで活字で紹介するのは初めてである。どうしても紹介したい特別版なので。著者はWakameTamago(ワカメタマゴ)というペンネームを持つ50歳過ぎのフランス人。本名はフレデリック・ペルーさん。この人を知るきっかけは、姫路市の北端・安富町に住む高校時代から(大学も一緒)の友人山本夫婦である。ご近所に東京から越してきたユニークなフランス人と日本人の夫婦がいる、とのことを聞いたのがきっかけだった。2018年だったか、彼の奥さんも含めて5人で、姫路城三の丸広場での「薪能」の鑑賞に行った。私以外のツーカップルは初めての経験とあって珍しげに見入っていた。楽しい思い出として記憶に刻まれている。そこへ先日突然、山本夫人がそのペルーさんの出版したばかりのこの漫画本を送ってきてくれた。驚いた。

 一読、とてもホッコリした気分になった。と共に、〝Withコロナ〟と言われる時代を先取りした、田舎暮らしの凄い試みに深い感動を覚えたものだ。多くの人に読んで見て貰いたいと、心底から思う。地域再生に向けて様々な議論がかまびすしいが、まずこの本を読むことから考えてみては、と提案したくもなる。西播磨の安富町の山奥で、外国人にどんな仕事ができるのかと、紹介を受けた頃には疑問に私は思っていたが、浅はかだった。パソコンひとつで、どんなところとでもリモートで繋がれることを忘れていた。

 そのあたりについては、既にこの2年で誰もが広く体験済みであることは言うまでもなかろう。彼は、アメリカに本社がある巨大IT企業M社の勤め人なのである。2012年に東京からこの地に移ってきた。同社の仕事の上司と、生まれ故郷のフランスの友人たちと日常的に〝AI 往来〟をする一方、奥深い日本の山あいで牧歌的生活を満喫しているのだった。この漫画本では、その生活ぶりがユーモアたっぷりに事細かに描かれていて、見るものを楽しませてくれる。漫画を描くのは子どもの頃から好きだというだけあって、絵はうまく、とても面白く、挟み込まれるセリフや背景説明が抜群に味わい深いのである。

●色んな動物たちの恩返し

 この漫画の最大の見せ場は、彼の親しい友人の大工さんの咲ちゃんが突然病気で倒れてしまうくだり。常日頃から彼にお世話になった色んな動物たちが次々と恩返しのためにお見舞いにやってくるのだ。大自然の中での人間と野生動物たちの共生の姿。胸を打たれずにはおかない。ファンタジックなシーンの一方、シビアな場面も登場する。東京から引っ越しするにあたって仲介役の不動産屋の〝騙しのテクニック〟や大工さんたちの超のんびりした仕事ぶりなど、大いに笑える。観察力鋭い見事な表現ぶりに関心する。お気に入り朝食が「納豆トースト」だというのは呆れてしまうが。フランスから東京、そして播磨へと移ってきたペルーさんの日常が、いかに豊かであるか。それが村人たちとの交流を通じ、そしてヒルやヤモリたち、ムジナやヤギなど虫類、鹿を始めとする動物たちとの出会いを巡って展開されているのである。

 実は、彼と一緒に宍粟市波賀町戸倉の山奥に、私が理事を務める公益財団法人「奥山保全トラスト」の仲間たちと一緒に、〝トラスト地ツアー〟の一環として、植樹を兼ねて森林の実情を見に行ったことがある。3年半ほど前のこと。彼にとって、荒廃する日本の森林を知るいい機会だったはずである。この漫画の中に印象に残る杉林が出てくる。「なんかかわいそうだね、杉たちがこんなに立派に伸びたのに、今は価値がないと言われて、そして誰も大事にしてくれない」と言いつつ、杉の幹に人が抱きつく描写が登場する。一緒に行ったあの時の体験と学習が見事に反映されていると感じた。この漫画はフランス語版が先に出て、今回の日本語版になったという。フランス人の感想を聞きたいとの思いが募ってくる。都会暮らしに喘ぎつつ、田舎に憧れる多くの人々に読んで貰いたいとてつもなく心に染み込む名作漫画だと思う。

【他生の縁 播磨の山奥で高校同期らと交流】

 ペルーさんとのご縁を取り持ってくれた私の高校、大学時代からの友人山本裕三さんも、ちょっぴり似てます。顔ではなく、生活スタイルが。実は彼の場合は、人生終盤を迎えて、埼玉県大宮市から生まれ育った姫路市安富町に帰ってきました。仕事でイギリスにも長く住んでいましたが、定年後は故郷に戻ってきたのです。ペルーさん、山本さんに共通するのはご夫人の内助の功でしょう。お2人ともとってもすてきな女性で、その支えあってのご両人でしょう。尤も、漫画にあまり登場して来ないのは残念ですが。

 ときどき送られてくるブログに、田舎暮らしは、経済的にいいし、消費者のみの経験から一転、生産者としての視点が得られるなどと書いてありました。第二弾の漫画もそのうち出して欲しいものだと、心の底から思っています。

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[12]直木賞作家の「聞くも涙」の挑戦ープラ・アキラ・アマロー(笹倉明)『出家への道』を読む/12-22

 直木賞作家が人生に転落したすえに、異郷の地で僧侶になるーこのこと自体が小説のテーマになりそうだが、ご本人の手になる『出家への道』という本を読んだ。著者は、前々回に取り上げた、歯にまつわる対談本の河田歯科医の相手方・笹倉明氏である。この人の本は、出世作を始め何も読んではいない。対談を読んで、団塊の世代の責任を指弾されるくだりが気になり、表題作を手にした。驚いた。比較的若くして大なる賞を得ていながら、身を滅ぼす流れ抗しがたく、多大の借財を負い、妻子(しかも複数組)と別れ、タイへの逃避行に身をやつす◆この本は、構成が一風変わっている。ご本人の転落の顛末と、出家に際しての儀式めいたものの一部始終が交互に出てくる。つまり、前者は奇数章に、後者は偶数章に、といった具合に別けられているのだ。日蓮仏法の実践者たる当方としては、直木賞作家が何故に、破滅の道に陥ったのかも興味あるテーマだし、現代における小乗仏教の牙城ともいえるタイの僧侶の生活も気になる。このため、まずは奇数章を全部読んだ後に、出家式を通してのタイ仏教のさわりを垣間見た。圧倒的に、前者の方が読み応えがあった。いかなる分野であれ、いい調子になってる向きには一読をお勧めしたい。明日は我が身とは言わぬまでも、リアルな〝一寸先は闇〟のモデルである◆そんな中で、私が興味を唆られたのは、団塊世代についての自虐的としか言いようがないほどの論及である。戦後民主主義教育の持つ致命的欠陥が、いわゆる躾けの欠如と無責任なまでの自由放任にあることは論をまたない。学歴至上主義による受験勉強一本槍の教育がもたらした荒涼たる風景は、著者に指摘されずともよく分かる。だが、いかに自分自身がまともな教育を受けてこなかったかを、手を変え品を替えて繰り返し訴えられると、妙な気分になる。「それって、言い過ぎじゃない?ご自分の根本的な性癖を棚上げして、制度や仕組みのせいにしすぎじゃあないか」と◆日本で食いつめて、東南アジアに流れる人が少なくないことは分かるが、現地で僧侶になる人は、この人をおいて他に私は知らない。その意味で、これからどう変化されるかが俄然気になる。奇数章を読んだ限りでは、およそいわゆる真人間になるのは難しいと思われる。仏門に入って5年ほどが経たれるようだが、時々日本に帰り、先に紹介した対談本を出版(これは手紙形式かもしれぬが)したり、またこの著作もものされているということは、俗世間への思い断ちがたいものがあると容易に想像できる。タイで僧侶をしている分において食い繋ぐことは出来ても、それを足掛かりに、物書きへの復帰心断ちがたいのなら、結局は元の木阿弥が関の山ではないかと、思ってしまう。同時代人として、大乗仏教の翠たる法華経に身を挺してきたものからすると、タイで乞食行に励む著者の姿はただただ哀れを催す。勿論、見事に変身され、日本に僧侶として凱旋されることも期待したいのだが。(2021-12-22)

 

 

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[11]「新しい社会主義」の勧めー斎藤幸平『人新世の「資本論」』を読む/12-15

「人新世」ー人類が地球を破壊し尽くす時代を指すとのこと。1995年にノーベル化学賞を受賞し、今年1月に亡くなったパウル・クルッツエン氏が名付け親だという。その恐るべき時代を救う鍵が、『資本論』を書いたカール・マルクスの晩年の思想の中にあるとの見立てを述べたのがこの本である。著者の大阪市大大学院准教授・斎藤幸平氏は35歳。飛び切り優秀な若き経済思想家の注目される意欲作でありながら、気にしつつ読まずに放置していた。理由は簡単。『資本論』なるものへの〝定説〟が邪魔をした。その上、「人新世」とのネーミングにイメージが定着しなかったのである。読んでみてつくづくわかった。本も人と同じように見かけだけで判断してはいけない、と強く思う◆今、世界が直面している問題は「気候変動」で、2030年は世界史の分岐点であるとさえ喧伝されている。だからこそ「脱成長」論が台頭してきている。ところが、日本では殆ど無視されているのが現実だ。経済的に恵まれた団塊世代と困窮する氷河期世代の対立に矮小化されていることが原因だと著者は指摘する。成長の果実をしっかりと享受した老人たちが、後は野となれ山となれでは、若者世代が怒るのは当然だ。ここは、老いも若きも一体となって、きたるべき非常事態に備える必要があろう。かつて「南北問題」(この著者はグローバルサウスと呼ぶ)といわれた地球上の経済的格差は益々酷くなっていく一方なだけに、目を特殊な日本的視点だけに留めず、頭を上げて広く世界を見渡したい◆岸田文雄首相が「新しい資本主義」なる言葉を持ち出している。この意味するところは「株主優位でなく公益中心に」「成長と分配の好循環」などの方向性は示されていても、未だ全貌は明確になっていない。恐らくは、行き詰まった資本主義の現状を打開したいとの思いのみが先行してのネーミングだろう。日本のデフレ不況的混迷は、とっくに20年を超えて30年をも凌駕する。であっても、ひたすら経済成長を待望し、V字型回復を目指す流れしか目につかない。それだけに、その方向性を覆そうとする著者の意気込みは注目されよう。しかし、その作業を、あろうことかマルクスの晩年の思想の読み直しで試みたことには驚く。「ソ連の崩壊」を挙げるまでもなく、既にその思想の〝駄目さ加減〟は世に流布しまくっている。「資本論読みの資本論知らず」であっても、世の定見に変化は起きにくい。むしろ著者の提言を「新しい社会主義」の勧めと見てしまう◆「処女作に向かって回帰する」との言葉がある。人の知的創造行為は、一番最初の作品に原型が宿っているというもので、晩年にそれまでとは全く違う方向性を出すというのは、豊臣秀吉の「朝鮮征伐」を出すまでもなく、悪評が常だ。マルクスが今の地球異変を予測したうえで、処方箋を書いていたのを多くの専門家は読み落としている、といわれても俄に首肯し難い。尤もこのように私が言うのも、単にこの著作の初読みの読後印象の域を出ない。この本の興味深いところは、ヨーロッパにおける「脱成長」に向けての具体的な動きを、スペインのバルセロナを始めとして幾つか挙げていることだ。これらが未だ〝未熟な苗〟の段階であることは想像に固くない。それでもそこにしか地球を滅亡から救い、世界史を塗り替える手立てがないとしたら、我々も急ぎ呼応する動きを示さねば、と思う。(2021-12-15)

 

 

 

 

 

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[10]〝歯の真実〟に激しく迫るー河田克之・笹倉明『ブッダの教えが味方する 歯の2大病を滅ぼす法』を読む/12-10

 「反逆のカリスマ歯科医」と、名だたる直木賞作家との対話。それだけでも興味が湧いてくるが、この作家は、5年前にタイ・チェンマイで出家し、その名もプラ・アキラ・アマローと改めているとくればもう、その中身や如何にと、読みたくもなる。虫歯や歯周病に悩む人々は世に数多いる。「病の正体を知って真因を消す」とのサブタイトルを見て、手を伸ばさない人はよほど健康で変人に違いない。この本、歯をめぐる世の常識を打ち破ると共に、日本の日常に安住している人を刮目させる深い内容を持つ。未来ある若者には河田歯科医の話を、もはや手遅れを自覚する高齢者にはプラ師の教えの部分を読まれることを勧めたい◆河田さんの主張は敢えて大胆に要約すると「歯石除去」に尽きる。一般的には、歯周病菌や虫歯菌が歯痛、歯病の主因と見られているが、この人はそうではない、と断じる。歯石や歯垢(プラーク)の蓄積によって生じる口内環境を改善することこそが最も大事な対処法だと。このため、歯を漫然と磨いているだけではダメで、定期的に歯石、歯垢を取るべく歯科医に通うことを強く勧める。多くの歯科医は分かってはいても、保険の点数に繋がらないために、積極的にやってこなかった歴史があるのだ。その現実を変えるため、河田さんは繰り返し世に問い、幾冊もの本を出版してきた◆一方、プラ師は、この本では聞き手に徹しており、仏教の話や自論はあまり出てこない。それでも、人の偏見、邪見に影響を受けてきた自身を顧みるくだりは興味深い。これまで悩みや迷いを抱いたことは「悪質な煩悩」によるもので、「愚かな徒労であったことが僧になってやっとわかった。何とも遅すぎたというほかない」と正直に心情を吐露している。また、もう一つ「戦後日本人の精神性の喪失」を嘆く場面は、私にはある意味でこの本のハイライトに思える。敗戦後のGHQによる占領政策に翻弄され、道徳教育などが反故にされ、「欲張りな経済発展だけは認めた」結果、「ヒズミ、ツケがいろんな場面でいまこそ現れている」との見方が提示される。「隣国に対する弱腰にくわえて、米国の圧力には相変わらず抗えないでいること」との指摘には100%同意したい。たまに日本に帰国すると、昨今の日本社会の衰退が「見えすぎて頭が痛くなる。僧にあるまじきストレスが溜まって困ります」との発言は、胸に強く疼く◆実は、私と河田氏は、今から6年前(2016年)に、共著『ニッポンの歯の常識は?だらけ』を出版した。衆議院議員を辞して3年ほどが経った時のこと。親友の強い推奨振り(大阪から姫路まで治療に通う)を聞いて、私もその門を叩いた。通常の歯科医を超えた真摯な研究姿勢に深く傾倒した私は、同氏に電子書籍の出版を勧めたのだが、いつの日か対談本を出そうとの話に転化した。僅か一年だったものの厚生労働副大臣を務めた身として、世の役に立つならばと思った。驚いたのは、同氏が衆参国会議員全員にこの書を贈呈したいと言いだされたことだった。政治家たちに自説を知って欲しいとの熱意には、心底からの執念を感じた。同氏はこの本の第九話で「月に一度の歯石取りが『保険改正(2016年)』以来、制度として確立された」と触れているが、あの時の熱意ある試みが功を奏したのに違いない。(2021-12-14 一部修正)

 

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[9]「日本沈没」とダブる恐怖ー高嶋哲夫『EV』を読む/12-2

 久方ぶりに面白くて怖い小説を読んだ。『EV』ー電気自動車。著者はあの『首都感染』で今日のコロナ禍を10年前に予言した高嶋哲夫さん。あの本の衝撃は忘れ難い。と言っても、10年前に読んだわけではない。コロナ禍で、話題になってからである。神戸でもう8年続いている「異業種交流ワインを飲む会」で出会ってから、親しく付き合って頂いている。その高嶋さんから、先日「自信作なんで読んで欲しい。とくに政治家の皆さんには」と言われた。読まないわけにはいかない。先週末上京した新幹線車中の往復を中心に読み終えた◆実はご本人に「読めというなら、贈呈してくれなきゃあ」と、おねだりした。してしまってから、いささかせこい自分を恥じると共に、実際に頂く(直接会う約束をしていた)前に自分で買って、読み終えて、驚かせてやろうとの悪戯心もおきてきた。かくして読み始めたのだが、ぐいぐい引き込まれた。気になるところに付箋を貼りながら、読んだのだが、前半の100頁ほどはまさに付箋だらけになってしまった。自動車をめぐる情報量がまことに多いのである◆つい先日、NHKスペシャルで、急速に「EV」への転換が迫られている日本の自動車産業の実情が放映されていた。550万人を越える関連企業の労働者。それだけに、一気にガソリン車からの転換は極めて難しい。何もかも変わってしまう。悩む業界の姿がその放映では赤裸々に描かれていて中々興味深かった。私の頭にはそれがベースにあったので、益々面白く興味津々で読めた。高嶋さんは、EVへの転換は止められない流れで、ぐずぐずせずに一気にいかないと、世界で取り残され、とんでもないことになるとのスタンスだ◆偶々民放でリメイク版の『日本沈没』が放映されており、欠かさず見ている。このテレビ映画では、省庁から選抜された若手官僚たちの奮闘ぶりが描かれている。それにそっくりの場面がこの本にも登場してくる。中国と米国の狭間で日本が悪戦苦闘する場面も似ていて、イメージがダブル。かたや地球そのものの異変がもたらす「日本沈没」。もう一方は産業構造の根底的変換がもたらす「日本社会の沈没」。見事なリアルさを伴って恐怖感が迫ってくる。高嶋さんと会い、種々語り合った。ご本人は「売れていない」「読まれていない」と残念がっていた。真面目過ぎる日本人には「ミステリー経済小説」は馴染まないのか。超ベストセラーになって欲しいものだ。(2021-12-2)

 

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[8]「女系天皇」への謎解きー大前繁雄・中島英迪『皇室典範改正への緊急提言』を読む/11-26

 一冊の本を読む気になるには、色んな動機があるが、タイトルも大いに関係してくる。標題に挙げたものは、堅苦しい感じがして、いささか〝読欲〟が湧いてこなかった。むしろ、第一部の見出しにある「瀬戸際に立つ日本の皇室」とか、第二部の「日本は女系天皇を公認すべし」の方がいいのではないか。著者の一人である大前繁雄さんから贈呈していだいておきながら、長く放置していた言い訳かもしれないが。総選挙が終わって読んだ。重要なテーマが見事に料理されており、為になる素晴らしい本だ。食わず嫌いだったことを恥じる。大前さんとは、かねて兵庫県下の政治家同士とし、また公益財団法人「奥山保全トラスト」での同僚理事として「共戦」してきた仲だが、改めてリスペクトの思いを強めることになった◆韓国、ネパール、ブータンの旅行記から説き起こして、皇室のかけがえのなさを述べて、上皇陛下のビデオメッセージの持つ意味を解読してみせる。大前さん担当の導入部は実に手際がいい。結論としての、「女性宮家創設と旧宮家の子孫の一部皇籍復帰」を主旨とした、皇室典範改正を緊急に行うべきだとの主張もストンと落ちる。文明批評家の中島英迪氏による第二部は、天皇にまつわる難題を12に分けて、問答形式で解き明かす。天皇制度にいかなる価値があるのかとの基本から入って、女系天皇に理論的な根拠あり、と示す。そのうえで、男系・父系こそが日本の伝統に叶うものとする議論を完膚なきまで論破している。論理展開の小気味良さに痺れる思いだ◆男系主義を主張する人たちの理屈とは何か。「歴代の全ての天皇についてその父方をたどれば、初代の神武天皇に行きつくことになる」が、もし女性天皇が一般男子と結婚して子を儲けたとしても、その子の父である一般男子を遡っても、神武天皇にたどりつかない可能性が大きく、その子供が即位すると女系天皇になってしまい、正当性がなくなるという。これを中島氏は、出自が皇族である人々も、この二千年の間で膨大な数に上り、父方をたどって行けば、ほとんど全ての日本人の祖先は神武天皇に行き着くことになって、現在、神武天皇の子孫でない方がむしろ稀だとする。そのため「女性天皇がどの一般男性と結婚しても、彼は男系男子ということ」で、男系主義者たちの理屈は破綻し、正当性を失うというのだ◆私はかねて、天皇はなぜ男系男子でなければならないのか、と疑問を抱いてきた。衆議院憲法調査会で発言をする機会があった時も、「女性天皇でいい」と述べた。尤も、それはどちらかと言えば、男女平等に反するとの単純な理由であり、女性と女系、また男系との区別を明確に認識した上のものではなかった。この本を読み、そのあたりの理解を深めることが出来た。加えて、上皇陛下と安倍晋三氏らとの確執めいたものの問題の所在も改めて分かった。第二次大戦後、私たちは「象徴天皇」と共に歩んできた。だが、「天皇」を深く考えることはタブー視する傾向がなきにしもあらずだった。戦前までの「天皇神格化」の負の側面のみを強調する歴史認識のもとで、失ってきたものは少なくない。これも、この本で感じさせられた気がする。(2021-11-26)

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