(383)なぜ他の国とこうも違うのかー三浦瑠麗『日本の分断』を読む

世界中が「分断」で喘いでいる最中に、日本だけが奇妙な静謐さの中にある。その理由を解き明かし、民主主義の未来のためには、もっと「分断」が必要だと強調する。著者の三浦瑠麗さんはテレビメディアで売れっ子の若き国際政治学者。自らが主宰するシンクタンクによる意識調査をもとに、独自の日本人の価値観を浮かび上がらせたうえで、日本政治の今を分析する。私としては知的刺激をそれなりに受けたものの、やがて公明党への記述が極端に少ないがゆえの物足りなさに浸ることになった◆戦後日本の「分断」の最たるものは、日米安保条約をめぐる論争であり、その同盟の是非を問う政党間競争だった。それは今なお、経済、社会的テーマが与野党の大きな違いを生み出しえずに後衛に退き、「安保・同盟」が殆ど唯一の争点となって続いている。そこへ「安全保障」におけるリアリズムの台頭という現象が定着してきた。であるがために、結果的に劇的な変化が起こり辛くなっているというのが大まかな著者の見立てである。「政治による分断は、それが内戦ではなくゲームにとどまる限りにおいて存在意義を見直すべき」で、「あらためて健全な分断とは何かを考えなければならない」と三浦さんは本書を結ぶ◆健全な分断のない、日本独自の閉塞した事態はなぜ起こっているのか。その要因の一つに、私は「公明党の与党化」という問題があると睨む。自民党政治の小さな「安定」に腐心し過ぎた結果、大きな「改革」が滞っている。だらしない野党に代わって、今一度日本政治の覚醒のために公明党はシフトチェンジすべきだ、と。この観点に立って本書を読み直すと、気付くのは公明党への言及の極端な少なさである。登場するのは僅かに2箇所。一つは、世論調査において「宗教を基盤とした公明党への投票者はそのことをあまり明らかにしない傾向があり、実際よりも少なくしか回答に反映されない」とのくだり。果たして本当のところはどうなのか。ステロタイプ的表現に陥っていて、掘り下げが足らないだけなのではないのか◆もう一つは、逢坂立憲民主党政調会長が、「政治は残酷なもの」の実例として、自分の所属する党と公明党を比べて「それほど立場が違わないのに逆のことをする」と挙げているくだりだ。これは、政策的スタンスに違いはあまりないのに、与野党の立場の違いから結果として逆の行動になるとの意味あいだと思われる。立憲民主党の愚痴的泣き言ではあるが、現状転換の糸口にも繋がる興味深い発言である。この辺りについて、著者にはもっと考察を深めてほしかった。また、「おわりに」で、コメントを貰った人の一覧に公明党のホープ・岡本三成衆議院議員の名前が見出される。三浦さんが何を彼に聞き、どう彼が応えたのかが皆目わからないのは気にかかる。(2021-4-10)

★【思索録】では、新たに「『新・人間革命』から考える」をスタートさせました。13日付けで、第一巻「旭日」の章と取り組んでいます。

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(382)想像力の貧困さを思い知るー重松清『希望の地図 2018』を読む

東日本大震災から10年。この3月11日前後に嵐のように各種メディアが追憶の記事を特集し、ひとしきり続き、そしてやんだ。しかし、阪神淡路大震災から、15年ほどが経った時点で起きた地震、津波、原発事故がもたらす複合災害は、明らかに現代日本人の意識を変えた。「災害は忘れぬうちにやってくる」が当たり前になったのである。しかも、昨年からの「新型コロナ禍」の追撃は、800年前の日蓮大聖人の『立正安国論』の世界を彷彿させてあまりある◆重松清さんのこの本は、平成30年(2018年)の一年をかけて、東北を始めとする全国の被災地を横断して取材したルポルタージュだ。定評のあるこの人の優しさが満ち溢れた素晴らしい本だ。2016年4月14、16日の熊本地震、2018年6月28日から7月8日まで西日本を中心に全国を襲った平成30年7月豪雨、そして同年6月の大阪府北部地震、9月の台風21号。そしてあの1995年1月17日の阪神淡路の大震災。口絵のカラー写真20葉ほどが鮮やかに過去の記憶を呼び覚ます。今に生きる全ての人にとっての備忘録たり得る好著だ◆重松さんはこれら現地に実際に足を運び、被災者に直接会い、時に自己嫌悪に陥りながら、また呆れるほど情け無い気持ちになりつつ、重い口を開かせ続けた。その記録を読み、「想像力の欠如」にこそ、被災者たちを孤立させるものだとの、著者の思いに読者は共感する。ただ、それはわかっていながら、想像力を逞しくする辛さから逃げようとする自分をも否定できない。「大切なものを喪い、かけがえのないものを奪われてしまった人たちに、不躾に話をうかがってきた」著者は、「取材後はいつも重い申し訳なさを背負ってしまった」と。その真摯さが胸を撃つ◆「好漢二人が震災を契機にめぐりあい、素晴らしい友情を育んだ」との最終章の一節は、「希望の地図」のタイトルを裏付けるかのように明るい展望に満ちている。残虐なリアルの連続に打ちのめされても、一縷であっても希望を持ちたいとの読者の期待。それに応えてくれる筆運びが嬉しい。26年前のあの大震災の震源地となった淡路島の北淡町。その地が指呼の間にある明石市の海岸沿いのマンションの一室。そこから私は今これを書いているが、「本でしか学べない現実がある」とのキャッチコピーに強く共鳴する読後感を抱く。(2021-4-3)

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第3章8節 「おもてなし」をキーワードに日米文化を比較━━相島淑美『英語でマーケティング』

 ⚫︎米社会のホスピタリティとの違いはどこに

  著者の相島淑美さんは、上智大学で英語を学び、日経新聞で流通経済の現場を取材した後、慶応義塾大学院に入り直しアメリカ文学を研究。その後、某女子大で講師をする一方、翻訳家として20数冊の書物を訳す仕事に従事。さらに関西学院大経営戦略科のMBAとしてマーケティング習得に磨きをかけ博士号を取得し、今は神戸学院大学経営学部教授を務めている。

 標題作は、観光やアパレル業界などにまつわるマーケティングに関する三本の英語論文(抜粋)を優しく解説した本である。「英文に引っ張られるのでなく、自分から先に何が書いてあるかを予想しながら読む習慣をつけると、英文が無理なく読めるようになります」「抽象的な言葉が多く使われていますが、教育実習生と指導教員の関係を思い浮かべながら読んでいくとよいでしょう」━━長年に渡り、英書と格闘してきた人ならではのアドバイスが随所に光る。こういう英語教師と出会えなかった我が身の不運が悔やまれる、というのは少々言い過ぎかもしれないが、それに近い感情を持ってしまう。

 コロナ禍の直前、日本中はインバウンドに沸き、〝おもてなし〟に関心が高まった。そして今もまた。マーケティングの本場・アメリカでのホスピタリティとの違いはどこにあるのか。かつて、明石港、淡路島を拠点に、瀬戸内海の島々をめぐる観光に執念を燃やした私もあらためて思いをめぐらせた。達成すべき100点満点基準を「ゴール」に設定するホスピタリティ。これは、基準をいかに効率よく達成するかがポイントだ。一方、日本の〝おもてなし〟に「ゴール」はない。どこまでいっても、まだまだよりよくする余地はあると、著者はさらに「表面的な行為は似ていても、前提となる発想は大きく異なる」と切り込む。刺激に溢れた好著である。「英語」と「マーケティング」どちらかに関心を持つ人に、勿論双方共に学ぶ多くの人に勧めたい。

⚫︎日本の伝統文化の究極としての「茶道」

  この人、昨秋に『茶道』(CHA DO)なる本を出版した。「日本語と英語でわかる! もっと知りたくなる日本」とのサブタイトル風の宣揚文が付いている、全頁にイラストがふんだんに散りばめられ、日本語と英語の両語併記で、楽しく日本文化を紹介しようとの狙いを持つ本である。冒頭に「日本はおもてなしの国として知られています。おいしいお茶をのんでいただくように一生懸命に準備をする。招かれた側も、その気持ちにこたえる。これが茶道の基本である」とあるように、全編「おもてなし」の心で満ち溢れている。

 著者には『おもてなし研究の新次元』という佐藤義信関学大教授との共著があり、日本の伝統文化としての「おもてなし」について、マーケティングの角度から研究を続けている。その背景には幼少期の家庭教育から始まり、中高、大学時代を通じてのアメリカ文化の吸収やキリスト教の影響などがあろう。加えて、源氏物語を始めとする日本文学、文化(美学)への憧れとアプローチがその根底をなす。研究の中で、日米の感性の違いに関心が高まり、やがて、キーワードとしての「おもてなし」に行き着いたものと思われる。

 「おもてなし」の起源を探る作業の通過点として「茶の湯」の再発見があり、今は公私共に深く取り組んでおられるように見受けられる。この人の「おもてなし」研究の概念図を覗くと、経営学・マーケティング、教育、文化、心理学・脳科学、医療・介護・社会福祉、まちづくり・地域創生、観光と、実に多彩なテーマが列挙されていて、それぞれの周辺には数多のポイントが付記されている。パワフルな知的興味の発散がいかなる方向に今後収束していくのか、実に興味深い。時に、旨いお茶を頂きながら、強い関心を持って見守りたい。

★他生のご縁 異業種交流の場で出会い、交流深める

 5年ほど前に神戸北野坂の異業種交流会の場で、中小企業の経営をしながら、関学のMBAとして学ぶ長田高校の後輩より、相島さんを紹介されました。今は、学校現場における「いじめ」の問題から、才能ある人材の枯渇といった複合的な教育の荒廃を、抜本的に建て直すにはどうすればいいのかをテーマに、種々議論を重ねているところです。

 相島淑美さんが翻訳した(翻訳者名は鈴木淑美)『JFK  未完の人生』は、ケネディの知られざる一面をふんだんに盛り込んだ面白い本でした。とりわけ、「華麗なる大統領のプライバシー」の章で、「健康問題や兄妹の早世からくる『先が長くない』という気持ちから女遊びに走ったが、(中略) この先まもなく、核戦争が起こるかもしれない。となれば、人生を出来るだけ満喫したい、やりたい放題して生きたい、という衝動に拍車がかかった」とのくだりには衝撃を受けました。

 ケネディについては、マリリン・モンローとの浮名など女癖の悪さは知らないわけではなかったのですが、強いリスペクトの思いを持ってきた私としては、著者の表現のありように疑問さえ抱いてしまいました。相島さんに背景を聞きたい衝動に駆られますが、翻訳者に訊くのはお門違いかと、遠慮しています。

 

 

 

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(380)巧みな政党比較に酔うー山口那津男、佐藤優『公明党の真価を問う』を読む

世の中的には安倍晋三前首相の7年8ヶ月の評判は、功罪あい半ばする。それを与党の一翼として支えてきた公明党についても見方は分かれる。私見では、政治倫理に照らして怪しげなこと(例えば、いわゆる、もり、かけ、さくら問題など)で、安倍、菅コンビに対して、公明党が大きな声でノーと言った場面が見えなかったことが原因だと思う。それは、連立のパートナーとしてのマナーの遵守なのだろうが、結果として「存在感に乏しい公明党」という見立てを許してきたのは無念である。と、私は思ってきた▲しかし、田原総一朗氏との先の対談本に続き、今回佐藤優氏との第二弾も読み終え、大いに反省せざるをえない。知られざる山口代表の底力。それを世にどう伝えるか。もっと公明党は真剣に広報に取り組まねば、損をしていると思うことしきりである。例えば、イージス・アショアによる「敵基地攻撃能力」問題を公明党が一蹴したことはそれなりに知られている。しかし、その代替策として「スタンド・オフ・ミサイル」の開発に持ち込んだことは殆ど知られていない。この兵器は領土、領海、領空を守る自国防衛のためのもので、「画期的」(佐藤)な「最適解」(山口)だ、との評価は手前味噌でなく、間違ってはいない▲しかし、メディアはそう伝えていない。公明党からの発信も弱い。佐藤氏が「成果が出たあと、何事もなかったかのように、静かに次の仕事を続ける。この謙虚さも公明党ならでは」というが、私はむしろむず痒さを覚える。安全保障分野では「絶対的平和」を求める向きも支持者に少なくない。それゆえ誤解されることを恐れて、政策スタッフが発信を躊躇したものではないかと想像している。生活に直結する社会保障分野での数々の実績やその対応とは違うところだ▲この本での佐藤氏の巧みな比喩を使った政党比較が興味深い。例えば、自民党は「エピソード主義」だが、公明党は「エビデンス主義」だという。前者は「偶然出会った出来事を普遍化させて」自身の実績にしてしまうが、後者は現場で話を聞くと、「アンケートや訪問調査で根拠をとって裏付け」たのち、党の実績へと組み立てるからだ、と。なるほど。一方、旧民主党は、「コンサルタントみたい」で、「評価しながら関わるが、最後の出口まではしっかり責任をとらない」。公明党は「コーチをしつつ、最後まで一緒に(伴走者として)走り切る」。確かに。さらに共産党は「暴力革命政党」で、公明党は「人間革命政党」だ、と。公明党は「仏法の中道主義、人間主義、平和主義に基づく価値観政党」である。その通り。共産党は「共産主義と暴力革命という価値観政党」だと、同じ価値観政党として位置付けている。分かりづらい。ここはやはり従来通り「イデオロギー政党」であるとした方が落ち着く。ともあれ、この本を読めば公明党支持者は溜飲が下がること請け合い。ただし褒められ過ぎて、酔い過ぎにご注意だ。(2021-3-21 一部修正)

 

 

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(379)「知性と現代」「公明党の足もと」「姫路と文学」などに思い馳せる3冊

与那覇潤、山口那津男、森本穫ーこのところこの3人の本を続け様に2冊づつ読んだ。1冊目はそれぞれ読書録に既に取り上げたが、2冊目については3つまとめて1回分で印象に残ったところに触れたい。まずは、与那覇の『知性は死なない』から。社会全体の「うつ」症状を診る『知性が崩れゆく世界で』(第5章)を追う。ソ連風社会主義と米国流自由主義が30年の時間差で、瓦解する風景を二つながらに見ている私たち。与那覇はこの背景に「反知性主義的な反発」があるという。「身体に対する言語の屈従」をどう乗り越えるか。病みあがりの若い知性の挑戦は、老政治家の知的興味を刺激して止まない◆次に、山口と佐藤優の『いま、公明党が考えていること』を。これは5年前の「安保法制騒ぎ」の直後に出た。佐藤はこの本から公明党ウオッチャーの姿勢を一段と強めた風に見える。山口は苦労を重ねた末に、見事に「集団的自衛権」問題を「憲法の枠内」に収めたことを語り尽くす。山口の家族のことを含む体験談は感動深い。強く私が共鳴したのは「人間の生命だけが一番尊いわけでもありませんし、人間以外の動物や地球環境を犠牲にし続けることは許されません」との生命観を披歴したくだり。さりげないが、凄い一行だ◆更に、森本穫の本は、同居する私の義母が持つ『作家の肖像ー宇野浩二、川端康成、阿部知二』である。このうち姫路に縁の深い知二についての第三章だけ読んだ。冒頭に歌稿168首がずらり並ぶ。胸を病んだ彼の切なる思いは、かつて同じ年頃に同じ病に悩んだ我が胸に異音を持って響く。森本は40代半ばに姫路に居を定めてから、「知二」と必然的に深い関わりを持った。「〈抒情〉とともに色濃く現れている〈官能〉の要素。それは同時に、破滅や零落を招きかねない危険因子として、恐れと予感にみちて描かれている」との〈頽廃〉を想起させる書きぶり。姫路を離れてから逆にご縁を頂いた森本穫。彼の誘いによる知二との邂逅に、遠い日に別れた女と再会したような疼きを禁じ得ない◆あとは補足。与那覇は「人類が進歩するにつれて、世俗化(脱宗教化)してゆくという考えかた」の「信憑性が疑われている」として、米露におけるキリスト教の影響を挙げる。併せて、「創価学会のささえる宗教政党(公明党)が、キャスティング・ボートをにぎりつづけた平成30年間の日本の政局をくわえても、いいのかも」と続ける。この後、最大の信仰復興を実現したのはイスラム教だと、話題を転じているのは残念だ。彼の公明党観をもっと聞いてみたい。私は、これまでの政治家人生で、竹入、矢野、石田、神崎、太田、山口と6代にわたる公明党のトップと濃淡の差はあれ、それなりに付き合ってきた。数々の思い出の中に好悪の感情が入り混じるが、「山口那津男」には益々興味が尽きない。(2021-3-9 一部修正 敬称略)

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(378)面白いのは推理小説だけじゃないー森本穫『松本清張 歴史小説のたのしみ』を読む

いまどきどうして松本清張の歴史小説なの?実はこの本、つい先日著者の森本穫(おさむ)さんから「旧著ですが」と、送って頂いた。直ぐに開いて、そのまんま一気に読み進め、翌日に読み終えた。清張の推理小説なら過去にそういうことはままあったが、歴史小説を評論にせよ読むのは初めて。書いたこの人は元短大教授にして文芸評論家。16編を11に分けて解説したものである。原素材をうまく使って、食べやすくしてくれた料理のように、絶妙な味だった。本体を直接味わってみたいとの期待を惹起させてくれる▲森本さんは、姫路ゆかりの人(生まれは福井県)だが、長く面識を得る機会に恵まれなかった。モロイに心酔し、和歌文学に造詣の深い小説家の諸井学さんに、明石に転居する少し前に紹介された。この人を小説創作上の師と仰ぐ諸井さんから、川端康成や阿部知二研究で名高い人と聞いていたので、清張の本を前にして驚いた。懐石料理屋で、いきなり一口カツが沢山出てきたような思いがした。恥ずかしながらこの人が松本清張研究会員でもあることは知らなかった▲清張は朝日新聞西部本社の広告部で図案や版下文字を書いていたことは有名だ。彼が記者に憧れたことは、その世界を齧ってきた私にはよく分かる。しかも私は政党機関紙記者の劣等感に苛まれてきたから他人事ではない。中学もろくに出られず、貧しい家庭の子沢山の中で育った清張が、いかに社会の底辺から這い上がる苦悩に支配され続けてきたかということも。彼の創作の原点にある視点を、歴史上の様々な人物の生涯に照射した試み。それがこの本で触れられた一連の歴史小説集である▲清張の処女作『西郷札』が、徳冨蘆花『灰燼』や樋口一葉『十三夜』の影響を深く受けていること、『疵』『白梅の香』が森鴎外の『佐橋甚五郎』や『興津弥五右衛門の遺書』を応用したことなどなど、森本さんは次々と明かしていく。ある意味で清張は〝模倣の天才〟でもあった。図案職人から大作家への彼の〝成長過程〟を知って、読者は穏やかならざる気持ちに誘われる。天才と凡庸の差のあまりにも大なることを思い知るのだ。それにしても森本さんの清張料理における手際良さは、目を見張り舌を巻く。文中しばしば図書館における「相互貸借制度」の恩恵にいかに浴したかに言及されていて興味深い。〝名料理人の俎扱い〟を曝け出してくれているかのようにさえ思われる。さてもさても姫路時代になぜこの人ともっとお付き合いできなかったのか、と悔やまれてならない。(2021-2-27)

★思索録「疫病禍に苦しむ人類のこの800年ー寺島氏の『日蓮論』から考える」に更新しました(2021-3-5)

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(377)なぜもっと注目されないのかー山口那津男vs田原総一朗『公明党に問うこの国のゆくえ』を読む

「日本の政治の舵を取る 公明党のすべてがわかる!」「当代随一のジャーナリストが政権政党代表に舌鋒鋭く迫る」とのキャッチコピーに惹かれて読んでみた。コロナ禍への対応も入っており、公明党に関する最新の情報が満載されている。読み終えて、こんな凄い闘いをしている党なのに、世にあまり注目されていないのは不可解だと思わざるを得ない。私のような公明党関係者でも新たな気付きが一杯あり、刺激に溢れている。ただ、一重たちいたって深く読むと、少し物足りなさも残る▲まず、山口代表が衆議院選で、自民党公認候補との調整がならず、二度にわたって闘って敗れたことについて。「こんな経験をした者は公明党の歴史の中で私しかいません」と。溢れる悔しさを覆い隠した珍しい発言である。「衆議院選挙で2回落選して、もはや政治生命は絶たれた、と自分でも思いました」ーこの前後の記述には切なくやるせない思いにさせるものがあり、公明党の選挙を経験した者として、まさに正座して読まねばならぬと思った▲全国の地方議員の闘いに触れたところ(第一章)も、改めて公明党の底力の所以を思い知った。また、郵政解散で「新しい時代の風」が起こり、「とにかく風に乗れ」と訴えた場面(第二章)では、知られざる同代表の一面を見て興味深かった。新型コロナウイルス感染症対策で、閣議決定を覆し、10万円給付決定にまで持ち込んだ舞台裏(第三章)は、まさに迫力満点。社会保障政策に関する第五章は、私にとって新しい気付きばかり。「無償化3本柱」の中身、フィンランドに学ぶ子育て支援スタイル、就職氷河期の課題解消策などなど、すべて目から鱗が落ちる思いで、読み進めた。公明新聞紙上でこの対談を細かく分けて掲載をするとか、ユーチューブで発信すべきでないのかと思うことしきりだ▲次に私の最大の関心事を巡っての思いを二つ挙げたい。一つは、安倍自民党の金権政治の象徴として、問題になっている「桜を見る会」について。田原氏が「かつての自民党なら、実力者の誰かが、安倍さん、やめた方がいいよと忠告したはず。ところが、今は誰も言わない」と述べている。それに対して山口代表は「公明党は3、4人しか割り当てられていませんけれどね(笑)。」と発言。ここは「残念ながら背後の事情など知る由もなかった」とか、率直に弁明して欲しかった。田原氏が「そういうときは、やっぱり、公明党が強くいうべきなの」と差し込んでいるのに、同代表は黒川検事長の定年延長問題に関してはきちんと説明すべきだ、とだけ。「桜を見る会」については、公明党も参加せざるを得なかっただろうが、問題点はそれなりに追及すべきだ。一般的には壇上の首相の隣に山口代表が並び、杯をあげているシーンが映像で出てくるたびに、〝自公一体〟が印象付けられ、うんざりしてしまう▲公明党に今一番求められているのは、この国をどういう国にしていくのかというビジョンの提示ではないか。社会保障分野を始め、他党の追従を許さぬほどの政策提案を展開、実績も十分だが、国のあり方の大きな方向性で党独自の視点が見えない。要するに自民党と歩調を合わせる党であるとしか見えてこないのだ。この本の「はじめに」で、田原氏は、「最後に公明党は日本をどのような国にしようとしているのか。山口代表のビジョンをお聞きしたい」と述べている。私もそれに期待した。しかし、ズバリそう聞く場面は出てこない。当然、その答えもない。残念という他ないのである。蛇足だが、本書で活躍に言及されている公明党国会議員は男女2人づつ4人いるが、全て参議院議員。衆議院議員はどうしているのかと余計な心配をしてしまう。(2021-2-20)

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(376)人の精神への処方箋と、文明への見立てとー中井久夫『分裂病と人類』を読む

前回紹介した与那覇潤さんの論考(『繰り返されたルネサンス期の狂乱』)の中で、私がもう一つ注目したのは中井久夫さんの『分裂病と人類』について触れられていたことである。この人は神戸に住む精神科医で、文筆家としても名高い。かつて私は『日時計の影』(2008年)『樹を見つめて』(2006年)を感動のうちに読み、読書録にも取り上げたことがあるが、この本は更に20年ほども前の1988年に出版されている。学術書風の硬いもので読みやすいとはいえないが、意を決して挑戦してみた▲最後の最後に「終わりにー〝神なき時代〟か」に接して、愕然とするほかなかった。「〝司祭〟を越えて殆ど〝万能者〟〝全知者〟として患者に臨まんとする医師の内なる誘惑が(実は医療の技術的未成熟による面が大きいのであろうけれども)、今日ほどたやすく診察室で実現しうるときはおそらくない」と述べた上で、「精神科医が、神の消滅しつつある時代に司祭あるいは神にとって代わろうとするのか。この誘惑の禁欲において医師としての同一性を保持しつつ患者に対しつづけうるのか。これは西欧精神医学の問題であるとともに、その枠を越えた現代の問題、特に日本(とあるいはアメリカ)の問題であろう」と結んでいる。いささか持って回った表現で解りづらい。要するに著者は〝神の代理人〟としての精神科医の危うさを吐露されているように、わたしには読める。それから40年が経った今も、この病をめぐる状況は殆ど変わりないように思われる▲一方、この本では、ルネサンス期の「魔女狩り」の史実を追っていて知的刺激を強く受ける。実は与那覇さんは、前述した論考で、「魔女狩り」と、現在における「反知性」の謀略論の台頭との類似性に着眼している。しかもその上に、「『西洋近代』を生み出す際の陣痛だったともいえるルネサンスのダークサイドは、目下の世界情勢とよく似て」おり、「いわば『中国主導の脱近代』への過渡期における『第二のルネサンス』が今起きているのだと見ることも可能」とまで読み取っている。加えて中井さんが「ルネサンス時代は異能を持たぬあたりまえの人が生きにくい時代であった」というルネサンス歴史家・塩野七生さんが繰り返す言葉に注目していることも見逃せない。この本は患者としての与那覇さんを見事に甦らせ、ついでに読者をも魅了させるのだ▲以上のように、この本は精神科医としての中井さんの二面性ー精神を患っている患者に対する医師の姿勢と、文明の病的側面を診る文明史家の態度ーが窺えるものとして、実に〝面白く〟読めた。なかでも第二章「執着気質の歴史的背景」での「文学的脇道」がいい。江戸期から明治期にかけての士農工商各階層ごとの倫理を語って、すこぶる惹きつけられるのだ。二宮尊徳、大石良雄、森鴎外、芥川龍之介らが俎上に昇っているが、とくに鴎外についての記述には関心を持った。「鴎外山脈」とも称される膨大な作品から、その一生を集約するものとして、詩「沙羅の木」を挙げている。「日露戦争における戦死の予感」としての「(鴎外)自らへの悼みの詩」は忘れ難い。「褐色(かもいろ)の根府川(ねぶかは)石に 白き花はたと落ちたり ありしとも青葉がくれに みえざりし さらの木の花」ー残された我が人生で、掴み損ねて置き去りにしているものを味わい尽くしたいとの、切なる思いが募ってきた。(2021-2-12)

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(375)知性は死にそうー與那覇潤『日本人はなぜ存在するか』を読む

與那覇潤さんの『中国化する日本』は、妙に気になる視点のユニークな本だった。その後、彼が躁鬱病になったとの話が届いた時はショックだった。若いのに惜しいなあ、との思いが強かったのである。それだけに、大学は辞めたものの、物書きとして復活したとのニュースは嬉しかった。もう、カムバックから4-5年経つが、先日雑誌『Voice』2月号で久しぶりに論考を発見し、熟読した。『繰り返されたルネサンス期の狂乱』である。「(コロナ)危機への対応を先進国の政治家や知識人が誤った結果、知性への信頼を完全に崩壊させた」との指摘から始まり、このことを「世界史の中にどう位置づけるか」との問題提起は、極めて重要であり知的興味がそそられる▲「知性の崩壊」は、今や誰の目にも明らかになってきている。とりわけトランプ米大統領の振る舞い及び周辺の動きは「米国の分断・分裂」を明確にしただけでなく、日本にも「謀略論」の復活をもたらそうとしている。そんな状況のなか、『日本人はなぜ存在するか』を読んだ。「日本人とはいったい何か」とのテーマを巡って、国籍、民族、歴史に根拠はあるのかどうかを、社会学、哲学、人類学など様々の学問のアプローチを駆使して探っている。それはそれで興味深いのだが、より惹きつけられたのは、最終章の「解説にかえて平成の終わりから教養の始まりへ」だ。とくに、大学がこれから「独学との競争」に晒されるとのくだりは面白い▲AIの進展と共に、大学で教授から学ばずとも、スマホでグーグルにアクセスすれば、解は一発で求められる。かつての「知への山脈」はいとも簡単に崩れ去り、我々の眼前にそれは皿の上の手料理のように横たわっている。何の苦労もせずに先人の築いた「知の宝庫」が誰にでも手に入れられるのだ。時あたかも、コロナ禍でフェイスツーフェイスの教室での聴く講義から、オンラインでの見る講義が余儀なくされている。いやまして「独学の時代」の到来だとも言えるのである。大学教授はオンラインの狭間で独自の価値を編み出せるかどうかが問われ、学生の方は、単なる独学以上のものを、教授からどう得ていくかが求められてくる。この本は、大学の教授として脂の乗り切った矢先に躁鬱病を患った人の手になるものだけに、より「知性の存亡」が問われることがリアルに見えて来て興味深い▲この本は様々な意味で、今の時代の切り口のようなものを提起してくれている。それは「国家の擬人化」といった一見硬いとっつきにくい政治論的テーマから、「『シン・ゴジラ』『君の名は。』などといった一見柔らかい文化論的テーマまで、広範囲に料理してくれていて参考になる。著者はご自身の病気の体験談を含めて、平成という時代と真正面から取り組んだ『知性は死なない』というタイトルの本を少し後に出している。この本の続編の趣きがある。その意味では、わかりづらく食指が動かない危険のあるタイトルよりも『知性は死にそう』とか『死に瀕した知性』と言う風なものの方がいいかもしれないと思ってしまう。(2021-2-5  一部再修正)

 

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(374)安保研究の「知的怠慢」を指摘ー山本章子『日米地位協定』を読む

目が覚める思いがした。「日米地位協定合意議事録を撤廃し、日米地位協定の条文通りの運用を行うことによって、不完全ではあるが協定が抱える問題の大部分は改善される」ーこの記述を山本章子『日米地位協定』の終章で発見した時のことである。政治家として長く「日米地位協定」の改定をせよと、外務省や米国務省に要望してきたのだが、いつも日米一体の門前払い的対応に歯噛みするのみ。この視点は欠落していた。著者は、この議事録が1960年に締結されてから、60年を超えて公の場で論じられてこなかったのは、「単に政治の場やメディアで注目されず、知られていなかっただけ」で、「日米安保研究の知的怠慢のせいでもある」と厳しく断じている。もちろんご自身もその責めを負うことに言及されている。このくだりを読んで、政治の世界に身を置いてきたものとして、恥いらざるを得ない▲この書物を読むことになったきっかけは、昨年末に山本さんが毎日新聞に寄せた寄稿文である。元東京新聞論説主幹だった宇治敏彦さんの一周忌にこと寄せて「心から尊敬する人物で政治史の師である」との書き出しで、様々のエピソードを交えた心惹きつける内容であった。実は、宇治さんは、私が所属する一般社団法人「安保政策研究会」(浅野勝人理事長)の草創以来のメンバーで、理事をしておられた。中途加入した私に、色々と声をかけてくださる優しい先輩だった。版画入りの俳句集を出版されていたことも印象深い。この寄稿文を読んで私が感激した旨を同会の仲間にメールで知らせたところ、柳沢協二・常務理事(元防衛省官房長)から直ぐに反応があった。山本さんがこの『日米地位協定』で石橋湛山賞を受賞されたことなど、いかに有能な研究者であるかを教えて頂いたのだ▲この本は「日米地位協定」をめぐる一連の経緯について詳細にまとめられており、その価値は極めて高い。関心を抱く人なら座右に置いておくといい。役立つこと請け合いである。私の衆議院議員としての20年間は、ある意味で「無念なことのみ多かりき」歳月だったが、この問題はその最高峰の位置を占める。沖縄における米軍人による少女暴行事件など乱暴狼藉が起きた時には本土でも怒りが盛り上がる。被告人の裁判は勿論、身柄拘束さえままならぬ現実を変えるために壁になっている「地位協定」改定機運が高まるが、やがてしぼむ。その都度国会でも声が上がるが、結局は陽の目を見ぬままに終わってしまう▲この点について、沖縄海兵隊の元幹部で、今は政治学者のロバート・エルドリッジ氏と私はしばしば論争してきた(幾度か書いてきたので、ここでは触れない)。結論は日米地位協定の改定しかないと私が言うと、不思議に彼は黙ってしまう。昨年その謎が解けた。実はこの5年ほどの間、彼は沖縄における米軍人の犠牲になった女性たちのために戦ってきていたのである。昨年、逃げていた米兵を発見することに尽力し、遂に捕まえたという。彼はその経緯をある新聞に寄稿した。その見出しは「日米地位協定の改定を」であった。そこでは、日米双方の責任ある部局がそれに不熱心であり、日本の政治家も無力であることを批難していた。何のことはない。彼は自身の「善行」を隠していたのである。成果が出ていなかったからであろう。日本の武士道を思わせる彼の振る舞いに、口先だけだった私は〝負けた〟との実感を抱くほかなかった。(2021-1-29)

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