衆院議員を引退してから約8年。寂しかろうと気遣いをしてくれた友人の肝いりで毎月開かれてきた『異業種交流ワインを呑む会』も、早いものでもう80回を越えた。この会には有名無名を問わず個性溢れる人たちが集い、毎度盛況を極めており、面白い。最近の面子で変わり種は、政治学者のロバート・D・エルドリッジと作家の高嶋哲夫のご両人。この二人が友人同士でもあることは最近になって知った。まずはエルドリッジの近作『教育不況からの脱出』から紹介したい。エルドリッジと私の論争の歴史は長い。それを巡ってはついこのほど、〝驚くべき決着〟が付いたのだが、それはまたの機会のお楽しみにしておく。この著作は「クォーター制こそ日本を変える」という大胆かつユニークな提案に満ちたものである。残念ながらタイトルがピンとこない嫌いもあってか、現在のところあまり出版市場で話題になっていない。私なら『魅力ない日本の大学』とかにするところだ。「コロナ禍で日本中がリセットする必要に直面している。旧態依然とした大学教育のあり方を真っ先に変えよ」「9月入学よりも日本に見合った日本型クォーター制の導入を」との主張は魅力に溢れていると思うのだが‥▲このエルドリッジが高嶋哲夫の『紅い砂』の解説を書いていることは既に紹介したが、私は又このほど『日本核武装』なる高嶋の旧著を読んだ。6年前に『日刊ゲンダイ』に連載されたものとのことだが、全く知らずにきた。様々なタブーに挑戦し続ける著者ならではの視点で、興味深い展開になっており一気に読める。ご本人にとっても自信作のようで、先日いただいたメールには「政治関係の人、必読の書だと思いませんか。ぜひオススメくださいね」「僕は核武装反対です」とあった。実はこれ私が「貴兄の想像力(創造力含む)には、脱帽ならぬ脱毛する(笑)」と読後感をメールに書いたことへの返信である。「核抑止」論が華やかなりし頃に、大学で国際政治学の魅力に取り憑かれた私は、卒業後は政治記者として現場を取材しながら、理想と現実の狭間に翻弄され続けてきた。やがて国会のプレイヤーとなり、20年後に市井の一市民に戻った。つい先日「核禁止条約が発効へ 批准国・地域 50に到達」とのニュースを見て、感慨は一段と深い▲そんな私が最近興味深くウオッチしている論客が馬渕睦夫である。彼は外務省出身。駐キューバ、ウクライナ大使などを歴任したのち、防衛大学校教授を経て、現在は評論家。実は私が20数年前から務める、一般財団法人「日本熊森協会」の顧問団(総勢25人)の一員にも新しく名を連ねられた。この人と加瀬英明による対談本『グローバリズムを越えて 自立する日本』を友人に勧められて読んだ。この対談は、第一章の「国際連合は存在しない」との衝撃的なタイトルに始まり、「腐敗した組織・国連」についての両者の鋭い論及で終わっている。読み終えて知的刺激が強すぎてピリピリゾクゾクする。「国連を何とかせねば」ー私は世界変革の手がかりはそれしかないといったスタンスで、大学卒業後からの若き日を生きてきた。馬渕、加瀬(因みに私は大学時代加瀬氏の父上加瀬俊一さんの謦咳に接した)両氏の言い分は、それはそれでよく分かる。ただ、そんなこと言ってないで、どう現実を変えるかに奔走するべきじゃあないのかー〝行動者〟としての思いが募る▲戦後75年が自分の人生そのものと重なる私にとって、加瀬、馬渕ご両人の対談はまさに挑発的内容である。「戦後の日本人の精神的劣化を指摘せざるを得なかった」うえ、これこそ、「今日本を襲っている国難を招いた根本原因と言わざるを得ません」との馬渕の総括を読むにつけ、只事ならぬ想いに駆られる。「国際」や「平和」という言葉の持つ空虚さを指摘した上で、「目に見えない(思想言論の)弾圧」を克服する道は、「国民一人一人が伝統精神を取り戻すこと」だと、結論付けている。この「伝統精神」の強調に文句はない。ここが曖昧なままの決着は、戦後の「保守対革新」の〝不毛の対決〟に逆戻りしてしまう。そうならぬよう、もう一段階超えたかたちでの議論を深め、現実変革を強めて行きたいと思う。敢えて付言すれば、それは「中道主義・人間主義」を入れ込んだ上での世界変革への新たなる行動であるといえようか。(文中敬称略=2020-10-30)
(363)今度こそ政権入りを狙うー柳原滋雄『ガラパゴス政党 日本共産党の100年』を読む
「日本共産党」と聞くと、今や懐かしさが漂ってくる。かつては嫌悪感ばかり強かったのだが。1960年代半ばを大学で過ごした者にとって、共産主義の浸透はリアルだった。外に、ソ連によるドミノ倒しの脅威が人々を〝反ヴェトナム戦争〟市民運動に駆り立て、内には民青から、中核、革マル派など新左翼に至る学生運動の跋扈が迫ってきていた。「体制変革」よりも「人間変革」こそ、迂遠に見えて根源的な社会変革に繋がると確信した私たちは、創価学会の池田先生による「人間革命」運動に挺身した。東京中野区で過ごした私の学生時代は、選挙のたびに日共との間でのポスター、チラシをめぐるいざこざに翻弄されたものだ。区内各所で日共の輩から公明党を守る動きに多くの時間を費やしたことも〝いまは昔の物語り〟だ▲この間に50-60年の歳月が流れた。ソ連は崩壊し、共産主義を真面な意味で標榜する国家は殆ど消えてなくなった。大学における学生運動ももはや表面的には姿を消し、共産主義をめぐる風景はまさに隔世の感がする。しかし、日本の政治にあって「日本共産党」は、しぶとく生き残っている。いや、それどころか性懲りもなく野党連合政権の中核としての役割に執心しているのだ。それを可能にしている背景には、野党と呼べる政党存在の希薄さの中で、唯一昔ながらの〝歴史と伝統〟を誇る存在が日共しかないことにあろう。そこへ過去30年というもの日本の政治を振り回し続け、今やほぼ〝たった一人の反乱〟の主役となった感が強い小沢一郎氏が、あたかも〝用心棒〟役を果たそうとしているのだ▲この構図は要注意であり、決して侮ってはいけないと思っていた矢先に興味深い本が出版された。『ガラパゴス政党 日本共産党の100年』である。著者は、柳原滋雄氏。元『社会新報』記者も務めたジャーナリストだ。1965年生まれというから〝日共の全盛期〟を直接的にはご存じない世代の書き手である。だが、それ故にといっていいかもしれぬ新鮮なタッチで、過去から今に至る日共の実像を次々と浮き彫りにしている。「詐欺商法」のレベルにあるとんでもない政党であることを鮮やかに暴きだす。日共という存在の実態を知らずに、表向き見えるかりそめのブランディングの役割に期待していると、かつて庇を貸して母屋を取られた京都の某党のようになる、と警告を鳴らしている。今に生きる多くの人に読んで欲しい▲末尾に、日本共産党の「綱領の変遷」が付け加えてあり、大いに参考になるのだが、この本を読み終えて一つ気になることがある。それは、主要参考文献が100冊を超えて5頁にわたって紹介されているが、その中に公明党機関紙局の『憲法三原理をめぐる 日本共産党批判』(1974年)が見当たらないのだ。公明党は日共との「憲法論争」で完膚なきまで同党を打ち砕いた。贔屓目なしにこれが日本政治史に燦然と輝く偉業であることは論をまたない。かなり大部なので、一般読者には馴染みがないのは無理ないと思われるのだが、柳原氏にはここで挙げて欲しかった。公明党関係者として残念という他ない。エピローグで知ったのだが、この本は雑誌『第三文明』に連載されたものだという。『第三文明』といえば、かつて公明党の市川雄一書記長が『共産党は変わったか』(2004年10月号)とのタイトルで書いた連載(五回続きの最後)を読んだことがある。市川さんは、日共との憲法論争を指揮し、自ら筆を取ったことでも知られる。『第三文明』社には、この論文をベースに市川さんに加筆再構成して貰い出版されていたら、大いに読ませるものになったのに、と惜しまれる。(2020-10-23)
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(362)知の巨人・後鳥羽院の悲劇を追うー坂井孝一『承久の乱』を読む
なぜ今『承久の乱』が読まれるのか。一般的には、公家から武士の世へと、中世社会のあり方を根底的に変えた大乱を、中央公論新社が4冊の「日本の大乱」シリーズの1冊として出したから、読んでみようかということだろう。このシリーズは、最初に出た(と思う)呉座勇一『応仁の乱』が大層評判を呼んだ(私も3年前にこのブログで取り上げた)こともあり、今や4冊合計60万部突破と宣伝されているほど、売れているようだ。出版社の巧みな戦略に乗ってしまったと言えなくもないが、呉座さんは今や歴史学界の売れっ子として人気である。偶々、この夏に刊行された井沢元彦『逆説の日本史』第25巻で、呉座勇一さんと井沢元彦さんの論争を知った。事の発端は、歴史学者の呉座さんが、推理作家の書いたものは評論に値せず、推理作家に戻るべしと井沢さんに「喧嘩を売った」ことにあるようだ。若い気鋭の歴史学者と、著名な推理作家の〝大げんか〟はギャラリーとしては実に面白い▲この本の著者・坂井孝一さん(創価大教授)についても、呉座さん同様やはり私はこれまで全く知らなかった。これまた全くの偶然に、NHKBSテレビの人気番組『英雄たちの選択』に登場されていたのを見た。学者にしてはかなりのイケメンであることにも興味を唆られた。個人的にこの本を今読もうと思った理由はこれ以外にも二つほどある。一つは、この大乱の主人公・後鳥羽院に関して、友人の電器屋さんにして作家の諸井学さんの『神南備山のほととぎすーわたしの「新古今和歌集」ー』で読んだばかりだからだ。既にこの読書録でも取り上げたが、丸谷才一さんの『後鳥羽院』に鋭く切り込んだ同書は、直木賞受賞に値するとさえ私は入れ込んでいる。二つ目は、歴史通で私が尊敬してやまぬ創価学会の大先輩幹部のFさんが、坂井さんのこの本を読了され、満足感を持たれたやに聞いたからである。自分も読んで感想を語り合いたい、と▲正直に白状すると、『応仁の乱』と同様に、当初なかなか嵌らなかった。歴史学者特有の硬い書き振りに、序章『中世の幕開き』ですぐに躓いてしまった。味気ない文章の羅列に、面白くないとの思いを勝手に募らせ、自分の知識のなさが原因であることは棚に上げて、すぐに放り投げてしまった(第1章まで行けば面白かったはずなのに)。尤も数ヶ月後に思い直し、忘れていた一計をこうじた。こういう時は後ろから読んでみよう、と。終章「帝王たちと承久の乱」から、頁を繰ることにしたのである。「後鳥羽の配流地隠岐島」というみだしで始まるこの章の冒頭。後鳥羽院が京から遥か隔たった出雲国の見尾崎で風待ちしていたのが、「承久3年(1221年)7月18日」と書かれていた。翌1222年は日蓮大聖人ご生誕の年である。ここから一気に土地勘ならぬ、錆びていた歴史勘が動き出した。ということで、第6章「乱後の世界」、第5章「大乱決着」、第4章「承久の乱勃発」と、一気に逆さ読みをしたのが功を奏し、無事読了となったしだい▲坂井さんの本で私が魅力を感じたのは例えの巧みなところ。承久の乱の鎌倉方と京方の勝因、敗因の分析を巡っての展開は特に面白い。「チーム鎌倉」が結束力・総合力を十二分に発揮したのに対して、「後鳥羽ワンマンチーム」はトップの独断先行が災いしたとの見立てがベース。その上に、実戦経験の有無、合戦へのリアリティの有無が左右したと分析。当初は、「後鳥羽が二段構え、三段構えの戦略のもと」に、「杜撰でも楽観的でもなかったはず」だった。ところが「先手を打ったにもかかわらず、逆に劣勢に立たされ」てしまい、「逆転できる可能性のある選択をすべて自ら放棄した」と結論付ける。また、後鳥羽院と貴族の君臣関係は、「現代にたとえれば、伝統ある大企業の四代目ワンマン会長(白河から数えて後鳥羽は四人目の治天の君、天皇を現役の社長とすれば、四代目の会長といえよう)と、管理職の社員の関係ということにでもなろう」と、社員の苦しさを具体的事例を挙げつつ解き明かし、「社員からすればたまったものではない」し、「貴族たちの苦労がしのばれる」と、実に分かりやすい例えが次々と登場する▲また後鳥羽院は、和歌、音楽、漢詩など多芸多才の極致を極めた「洒落のきいた遊び心のある帝王であった」し、蹴鞠や武芸にも秀でた人並外れた能力の持ち主であったという。「記憶力も抜群であり、今様にしろ和歌にしろ一度覚えると、二度と忘れなかった。芸術家にしてプロデューサー、おまけにスポーツマン」で、「まさに文化の巨人」であったことが克明に明かされる。そういった一大巨人が、「チーム鎌倉」軍団に完膚なきまでに敗れて、遠い遠い隠岐島に流される羽目になってしまう。そこから新しい時代が始まったという歴史の分岐点が、この本では見事に描かれており、実に読み応えがある。読み終えて、「呉座vs井沢」論争をどう思うか、坂井さんに急に聞きたくなってきた。一般読者としては面白い方に軍配を上げたくなるものの、過ぎたるは及ばざるが如しで、歴史学者をあまり虚仮にしすぎるのもいかがかとも思うのだが‥‥。(2020-10-14)
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(361)アメリカの「壁」の悲劇を希望を持って預言ー高嶋哲夫『紅い砂』を読む
「陽が昇り始めた。砂漠が赤く染まり、まるで血の海のようだ。その中に五千名以上の難民集団が息を殺して潜んでいる。」ープロローグはアメリカ・メキシコの国境風景から始まり、エピローグは「ジェット機は飛び立った。眼下には緑の世界が広がっている。」と、中米のコルドバ空港の描写で、高嶋哲夫『紅い砂』は終わる。映画化が期待される中で執筆されたというだけあって、映像が目に浮かぶ。最初に躓かなければ一気に読ませる。極めて面白い冒険政治革命小説だが、著者がこの人だと一転、預言の趣きが漂うから不思議だ▲ちょうどつい先日、中米・ホンジュラスの移民集団(キャラバン)約二千人が、北隣のグアテマラに不法入国し、メキシコを経てアメリカに向かっているとのニュースが伝わった(10月4日付サンパウロ発毎日新聞)ところだ。アメリカでは、既に3月下旬に国境を閉鎖し、入国を制限、不法移民の取り締まり、強制送還業務を強化している。この小説の時間設定は少し後。高さ9mにも及ぶ「ザ・ウオール」と呼ばれる壁(断面が縦3㌢、横10㌢の鉄杭)が15㌢間隔で数十㌔に渡って造られていることになっている。トランプ大統領就任直後から話題になったテーマを基に、すかさず小説を書いてしまった著者はさすがだ。先のニュースの先行きがにわかに気になってくる▲小説では冒頭に「ウォールの虐殺」と呼ばれる悲劇が起こってしまう。やがて、その前線での責任者・陸軍大尉が、ある〝密命〟を帯び、コルドバへ飛び、囚われの身になっている反政府側のリーダーである学者の救出に向かう。独裁政治の圧政と麻薬組織の残虐行為に苦しむ庶民大衆。その人びとが憎むべき「ウォールの虐殺者」と一緒になって、圧政者を倒す「革命」に参画するという劇的な過程が克明に描かれる。グイグイと引きつけておいて、最後のどんでん返しで一気に読者にカタルシスを感じさせ、満足させるとの手法は、これまで私が読んだ同じ著者による『首都感染』『首都崩壊』とはまた一味というより、七味くらい違う趣きがあって、惹きつけられる▲国境に壁を造ることが難民の虐殺を招くが、その悲劇の背後に圧政者の謀略があったとの筋立ては興味深い。コロナ禍は残念ながら織り込まれていないが、どこまで預言が的中するか。悲劇的側面を慮って事態が変化するか。それとも、希望的側面に期待して事態が進むか。読んだものだけが味わえる明日の世界への想像が膨らむ。実は先日、著者の高嶋哲夫さんと、同書の解説を担当しているロバート・エルドリッジさん(政治学者)らと一緒に神戸・北野坂で懇談・会食する素晴らしい機会に恵まれた。ここで披露するには憚られるエピソードもあったが、この本が大ブレイクすれば、公開することを私は勝手に約束したい。是非ともこの本が多くの人に読まれるようご協力をお願いする。なお、著者への私の注文を最後に。登場人物の一覧を付けて欲しいということと、ヒロインとヒーローの絡みが思わせぶりなだけで終わってるのは読者のからだによくないですよ、と付け加えておきたい。(2020-10-6)
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(360)罪深い〝パワフル市長〟の魅力と懸念とー泉房穂『子どものまちのつくりかた』を読む
30年住み慣れた姫路から明石に転居してやがて1年が経つ。明石海峡大橋と淡路島を借景に海岸まで歩いて15分の生活は、眼だけはコロナ禍にあっても十分に慰められている。この市はこのところ、若い人を中心に人口が増え「子育てしやすいまち」「駅前図書館・本のまち」として知られる。と同時に、「パワハラ」で、日本中に悪名を轟かせた泉房穂氏が市長を勤めることでも。その市長が出版した本『子どものまちのつくりかた』を偶然偶々明石駅前の書店の棚で発見して驚いた▲巻末に慶大の井手英策教授とのツーショット入り対談が掲載されているのだ。井手教授は財政社会学が専門。かつては前原誠司氏のブレーンとして名を馳せた著名な学者である。『分断社会を終わらせる』『増税幸福論』など知的刺激満載の多数の著作を持つ。この読書録でも以前に紹介した。保守の勢いが嫌まして強い、リベラル派退潮のご時世に注目の論客の一人である。とりわけ、ベーシックサービスの導入を強調されていることには刮目する(この辺りは別項で触れたい)▲驚いた理由は他でもない。井手さんが泉市長をまさにベタ褒めされていることに、である。「私がこれまで考えてきたこととも完全に重なり合います。自分がずっと訴え続けてきた思想、哲学を、実はもう率先して、前の段階から実践されていて、こういう素晴らしい結果を出しているまちがあると知り、本当に励まされる思いです」と。慌てて、私はこの本の奥付きを見て出版日を確かめた。かの事件が公になった直後と知って胸撫で下ろす思いがした。と同時に、当時の井手さんの驚きに他人事ながら同情を禁じ得なかった。ったく、泉さんは罪深い、とも▲本人は猛省したうえ、ひとたび辞任し、病的な性癖への専門医の治療を受けたのち、少なからぬ市民の要請を背景に、出直し選挙で返り咲いたことは周知の通り。旧聞に属することでもあり、改めて旧悪をここでは持ち出さない。それよりも、この本の中で理念が示され、現に展開される「子どものまち」のありようをめぐっての建設的論争に関心を持ちたい。今もなお、反泉陣営からは、「財源に問題あり、市政は必ず将来破綻する」との声は根強い。また、駅前だけは活気があっても、少し離れるとシャッター商店街の実態は今なお続く。この本を基に有意義な議論が展開されることを望みたい。(2020-10-1)
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(359)新首相の眼には目をー塩野七生『マキャヴェッリ語録』を読む
菅義偉首相がマキャヴェッリの本を愛読していると知って、本棚から取り出して塩野七生の『マキャベッリ語録』を改めて読むことにした。彼を解くカギをそこから探ろうとしたのである。『君主論』でも『我が友マキャヴェッリ』でもなく、読みやすい『語録』にしたのはご愛嬌。塩野七生さんといえば、日本の政治家は彼女の『ローマ人の物語』を読む人が多い。その流れに先鞭をつけたのは中曽根康弘内閣を支えた後藤田正晴官房長官だったと記憶する。恐らく菅さんも安倍晋三さんを支えながら、塩野さん描くところのマキャヴェッリに思いをいたしたものと勝手に連想する▲菅首相を巡っては、国家観がないとか、薄っぺらだとかの辛口の評価がなされる一方、たたき上げの苦労人で、庶民感覚に根付く政策立案に長けているとの甘党の見方もある。ともあれ高い支持率の出発で、解散総選挙に踏み切る公算が日増しに高まる。先日上京して元官僚や元ジャーナリストら、練達の士たちとの意見交換をしてきたが、今解散に踏み切らずしていつやるのか、との見立てが支配的だった。新型コロナの感染状況の推移がカギを握るものの、そのデータの扱いなど、いかようにも操れるというのである▲この本を読みつつ菅さんの心中を慮るのも一興ではある。「信義を守ることなど気にしなかった君主の方が偉大な事業を成し遂げて」おり、そのためには「人間的なものと野獣的なものを使い分ける能力 」を併せ持つことが大事だとしているくだりは最適の箇所かもしれない。塩野さんは、野獣といえばライオンと狐に注目すべきだとして、この二つを使い分けることに力点を置く。「狐的な性質は、巧みに使われねばなら」ず、「非常に巧妙に内に隠され、しらっぱくれてとぼけて行使される必要がある」と。この辺り、新型コロナ禍と解散総選挙の時期を見る上で絶好の教材になろう▲いやもっと菅さんの心境を計るに足りうるところは、「運命をめぐる論議」のくだりかもしれぬ。「運命は変化するものである。それゆえ人間は、自分流のやり方をつづけても時勢に合っている間はうまくいくが、時代の流れにそわなくなれば、失敗するしかない」という箇所だ。安倍首相を支えたこれまでの時間と、引き続き菅さん自身が政権を運営するこれからの時間とが連続する。これが吉と出るか、凶と出るか。菅さんには懸命の思案が必要だろう。塩野さんは、「慎重であるよりは果敢である方がよいと、断言」している。慎重居士で行くか、勇猛果敢に挑むか。この見極めは新首相の、その一風変わって見える眼に目をむけるしかない、と私は思う。全ての日本人が首相の眼に目を凝らす日々が続く。(2020-9-19)
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(358)悪いも良いも全てが暴かれたー門田隆将『疫病2020』を読む
新型コロナウイルスによる肺炎の患者が日本で初めて確認されたのは、2020年1月16日のこと。武漢から10日前の1月6日に帰国した30代の中国人だった。中国は23日に武漢市を封鎖する。その3日後の26日に、日本の厚労省は、ホームページに「新型コロナウイルスに関するQ&A」を公表、「ヒトからヒトへの感染は認められるものの、感染の程度は明らかでない。過剰に心配することはない」との緩やかな見方を示す。著者・門田隆将は、コロナ禍事態への対応について、信じられないほどの〝悪意に満ちた中国〟と、〝善意に満ちた日本〟を対比させつつ、一気に読ませる。発刊されてから2ヶ月余り。気にはなりつつ、「あること」が災いしてわざと読むのを遠ざけていた。親しい友人から勧められたこともあり漸く読んだ。その迫力溢れる筆致に圧倒された。遅かったと、後悔する我が身を恥じるのみ▲この本の凄さは、門田が自身のツイッターでの発信をベースに置いて、克明に事態の進展を追い、歴史の中にしっかりと跡付けし、読者へ提示していることである。最初のそれは、1月18日付け。武漢の新型コロナウイルス対策で、米国CDC(疫病対策センター)がまるで映画『アウトブレイク』のようだとし、日本も人民大移動が始まる中国の春節の前に徹底した対策を取るよう訴えている。その映画は感染症との戦いをダスティン・ホフマン主演で描いた話題作である。ツイッターとそれを補いつつ展開する論評は呆れるほど歯切れ良く見事だ。厚労省始め、日本政府の危機感の欠如や、およそ〝緩い予測〟の数々を披露し、中国で異変がいかにして起こったかを暴く。かつての失敗を教訓にした台湾の見事なまでの危機対応の処し方も見逃せない▲厚生労働省で僅かの間とはいえ、仕事をしたことのある私としては、耐えがたいほどの酷評に苛立った。同時に長きにわたって防衛省を担当した者として、自衛隊の獅子奮迅の活躍ぶりには溜飲を下げる場面も。したたかさを遥かに超えた中国政府の緊急事態への対応と、かの国の医療者や一般国民の懸命の戦いに目を見張る思いもする。共産中国という存在が、自由主義国家群との対決を鮮明にするに至った姿が浮き彫りになっていくあたりは、疫病対応を通じての最新現代国際政治学の生きた教材解説でもある。日本の政治、政治家の無能ぶりを散々こき下ろした挙句、ツイッターの最後を4月22日付けで、日本の死者数が欧米より圧倒的に少ないことを挙げ、医療従事者たちの自己犠牲の精神を持ち上げることを忘れていない。「医療崩壊ギリギリで持ち応える日本が先進医療大国であることは誇り」との結び方は多くの日本人をほっとさせる▲私が読むことを躊躇した「あること」とは何か。新聞広告での「総理も愕然『創価学会』絶対権力者の逆襲」との見出しである。目次にはこれに類するものは見られない。「混沌政界へ突入」と題する章に含まれているのだが、いかにも創価学会、公明党関係者を釣るためだけの餌のように見えて、その魂胆を卑しく思ってしまったのである。「絶対権力者」という表現にもその下心が否定できない。「国民一律10万円給付」は、公明党の若手議員たちが早い段階で主張してきたテーマである。それを受け入れるに至らなかった党執行部を不審に思っていた私は、支援団体・創価学会側から激しく責められて立ち上がるに至った経緯は口惜しく思える。そんなこんなで、読むに値しないと勝手に決めてしまった。巻末にある著者と佐藤正久氏(参議院議員)との産経『正論』5月号の対談収録も読ませる。「ひげの隊長」で呼称される佐藤さんの識見と胆力はただものでない。それにしても彼の〝政界内部告発〟には改めてため息の出る思いがする。関連年表共々しっかり目を通し、長く保存するに値するものだと付け加えたい。(2020-9-10)
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(357)コロナ禍の読書ー放送大学の教材に取り憑かれる日々
コロナ禍におけるステイホームで一番私がはまったのは、放送大学のテレビ講義だということは幾たびか触れてきた。7月にそれが終わってから、今度は教材を買い求めて読んだ。私が取り組んだものは10講座ほどだが、そのうち、興味深く読んだものは3冊。それぞれ骨太で、中身は濃い。通常の大学の教材と違って社会人向けの赴きで、波及効果も多く、これからの生活に役立つこと請け合いである▲まずは、一押し。高橋和夫『中東の政治』。この人は他にも『世界の中の日本』『現代の国際政治』と、3講座を同時並行で講義しておられ、また『権力の館を考える』や特別講座にも顔を出されるなど、露出度ナンバーワン。卓越したスピーチ力とユーモア溢れる心配りの話術で魅了された。教材の方も、面白く読める。数多ある知識の宝庫とでもいうべき記述のうち、一つだけ挙げると、アメリカという国がいかに宗教国家であるかのくだり。アメリカの紙幣の全てに IN GOD WE TRUST(我ら神を信じて)とあることを紹介したのち、キリスト教福音派と共和党との関わりを述べている。ブッシュ(息子)から、トランプへと受け継がれた共和党政権の背後にある信仰の力が興味を唆る。「二回の離婚経験と数知れぬ不倫の疑いに包まれた」トランプをなぜ福音派の人々は支持するのか。「全てを許す神は御業を行う手段として、トランプのような人物を選んだと考えているようだ」というのである▲次に私が強く魅力を感じたのは宮下志朗、小野正嗣『世界文学への招待』。親子ほど歳の離れた二人のオリエンテーションと最終講義での掛け合いは忘れがたい。小野さんのNHKの美術番組などでの活躍ぶりはかねて注目してきたが、この度の講義では実に堪能するものがあった。①文学は他者への共感を可能にする手段である②文学は世界の窓である③母語の感度を高める最良の手段であるーなどと言った世界文学への誘いの言葉も強いインパクトを受けた。15回にわたる現代世界文学を俯瞰する試みはとても一回の講義で習得できるものではないが、テキストを幾たびかなぞることで、大いに刺激を感じ、触発された▲三つ目は、吉田光男、杉森哲也『歴史と人間』。これも講義は私に強烈な印象を与えてくれた。ここでも最後の講師五人によるまとめが面白かった。草光俊雄の担当したメアリ・ウルストンクラフトという女性解放運動の先駆者については恥ずかしながら全く知らず、目から鱗の経験をした。一方、それなりに知っているつもりだった日本の津田梅子についても杉森哲也の解説で改めて開眼した。またモンテーニュをめぐる宮下志朗の講義は実に魅力的なもので、改めて『随想録』に挑戦せねば、との思いに駆り立てられる。ともあれ、「日暮れて道遠し」を突きつけられて、心中穏やかでないものの、「物事始めるに遅すぎることはない」を確信して、暑い日々を、涼しい思いで生きたい。(2020-8-28)
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(356)この夏一番の収穫ー「グロ・リア」文学と「皮肉な毒舌」の機智
コロナ禍でのステイホーム。今年の放送大学前半の講義期間とほぼダブった。7月中旬で終了したが、印象に残っている教科の一つに『権力の館を考える』があった。御厨貴さんが中心となって日本から世界の権力者たちの住まいの実態に迫るもので、滅法面白かった。この先生は学問もエンタテイメントに仕上げる特異なタレントだと実感した。その中で井上章一・国際日本文化研究センター所長が登場した「関西の権力の館」が特筆される。かの『京都嫌い』なる本で一世風靡した、とびきりユニークな学者である。その井上先生が書かれた、先般亡くなられた井波律子(中国文学者)さんを悼む文章(朝日新聞「ひもとく」7-11付け)に、私の眼は釘付けになった▲ここで取り上げられていた井波さんの『中国のグロテスク・リアリズム』と『中国人の機智』を直ちに明石市立図書館で借りて読んだ。実に面白かった。それもそのはず、前者では「色事や悪事などが山あり谷ありの筋立てでドラマ化された作品」が紹介されているのだ。後者は、「文人たちのくりひろげた、命がけと言っていい当意即妙ぶり」が描かれていて興味は尽きない。実は私は「中国に文学と呼べるものはない。あるのはエロとグロだけ。〝恋と女の日本文学〟とは違い過ぎる」との〝超日本文学びいき〟の信奉者を自認してきた。その考え方のルーツがこの「グロ・リア」にあることを改めて確認できた。世にいう「エログロナンセンス」の原型だから、面白くないはずはなかろう。でも、「好きか嫌いか」と自問するまでもない。過ぎたるは及ばざるが如しで、読み過ぎると中毒になりそうだからご注意を▲中国人の持つ機智の源泉が『世説新語』にあることは知らなかった。魏晋の時代の名士のエピソードを軸に中国的な機智表現の特色を探ったものだが、毛沢東と魯迅に及ぶくだりが圧倒的に読ませる。二人のものをめぐっては一通り眼にしてきた。巨大な国の原型を作った二巨人の真実に改めて気づかされた。かつて憎からず思わないでもなかった恋人と、よりを戻したくなるような思いに駆られそうだ。今更、毛沢東でもないだろうと言われそうだが、「卑近な事象を比喩とし、懇切な説明を加えて、説得論理に貢献させる」とか、「文章表現自体も、いちいち念が入りすぎて、そこはかとないユーモアが漂う」と言われると、あばたもえくぼどころか、整形手術をしたかのような錯覚を抱いてしまう▲「私は往々自分の嫌う人に嫌われる人を善い人だと思うときがある」と言った魯迅は、「むしずが走るほど中国がきらいだ、という人がいたら、私は心からの感謝をその人に捧げたい。なぜなら、その人はきっと中国人を餌食にはしないだろうから」と、逆説的、反語的表現を好んで用いた。「事の真相を抉り出さねばやまない風刺性に富む」魯迅は、「皮肉な毒舌家」でもあった。なんだかそれって、井上章一さんではないかと、思ってしまう。御厨、井上コンビの放送大学講義から、井波律子さんの本へと飛び、「グロ・リア」文学から毛沢東、魯迅の機智に及んだ。いつもの如く勝手な連想ゲームに誘い込むなと怒られそうだが、読み手の側としては大いに満足出来たのだから仕方ない。この夏一番の収穫である。(2020-7-29)
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(355)「青年」と「政治家」に思いを馳せ、「人情」の機微を味わう
コロナ禍中に「ステイホーム」が叫ばれていたこの数ヶ月というもの、私は幸運なことに放送大学講座に嵌った。授業料も払わずに聴講生として11講座を見まくって、このほど15回分がほぼ全て終わった。1講座45分なので、123時間テレビを見ていたことになる。いやはや、充実した時間を持てて満足している。様々な専門家と画面を通じて知り合ったが、『方丈記と徒然草』を担当された島内裕子さんは、仏像のようなふくよかなお顔の立派な先生だ。この講座から学んだことはおいおい語ることになろうが、偶々講座外で放映されたもので印象に強く残ったのが森鴎外の小説『青年』についての解説である。島内さんが主人公・小泉純一の小説の中の足取りをそのまんま追う試みは平凡ながら妙に新鮮だった。早速文庫本を買って読んだ。漱石の『三四郎』に見合う、鴎外の青春ものといえば『青年』とくる、とはつゆ知らなかった。この2冊が日本における最初の教養・発展小説とのことだが、「人間いかに生くべきか」という根源的テーマと、後期高齢者のとば口に立つ私が改めて真正面から向き合うことになった。それはそれで様々な意味から興味深かった。『三四郎』を読んで『青年』を読み忘れたが故に、私の人生はいびつだったのかもしれない、と▲この期間に私が出会った人物で忘れがたいのが、作家の高嶋哲夫さんである。先だってこの欄でも紹介した『首都感染』の著者である。神戸在住であり、私が友人と共催する「異業種交流ワインを飲む会」をオンラインで開催したところ、二回続けて参加された。先月はようやく直にお会いすることが叶った。その際に、ご本人から次はぜひ『首都崩壊』を読んで欲しいと勧められた。これは首都直下型地震の恐怖を描く一方、首都移転への具体的手筈が克明に明かされていく。この作家の描く未来予測はことごとく的中してきていることから、この課題も急にリアルを伴って読めるから不思議だ。私が現役時代に首都移転が話題になったが、いつの日か沙汰止みになり、誰も話題にしなくなった。しかし、今読んでみて、政治家諸氏は真剣にこの本を読むべきと思う▲ついで、読み終えたのが、浅田次郎の『流人道中記』上下である。これも先般、読書録に取り上げた『大名倒産』上下を勧めてくれた友人から借りて読んだ。欧州モダニズム文学の愛好家兼小説家の諸井学さんは、浅田次郎のような人情ものばかり読んでいると、歯応えのあるものは食えなくなるかのように言う。で、しばらく敬遠していたが、頃合いを見計らって読むとやはり堪えられない。尤も、この本も他のものと同様に冗漫さは感じざるをえず、2冊に分けずともいいのではないかとの思いは募るのだが。とはいえ、やはり話運びは絶妙だ。演歌の上手い友人と一緒にカラオケに行った時のように、ほとほと感じ入ってしまう▲今私は『日常的奇跡の軌跡』なるタイトルで回顧録を書いている。平成元年からほぼ25年間にわたる政治家生活を振り返っているのだが、その間に書いた読書録(『忙中本あり』)を紹介せざるを得なくなる場面がある。本を読むのが好きで、かつそれを評論することにのめり込んだ自分に呆れる。こんな生活をしていて本業が疎かにならぬ方がおかしいとさえ思う始末である。今、政治家の仕事から解放されて、自由に本が読めるようになったのだが、その実、あまり読めていない自身を発見して苦笑せざるを得ない。なんのことはない、「閑中本なし」なのである。(2020-7-11 一部修正=7-12 再修正=7-14)
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