「老化」について志村氏は二つの側面から紹介し、その実態に迫っている。一つは「心理学的老化物語論」で、老いの「価値・意味・アイデンティティ」を基軸としたものだ。精神科医の神谷美恵子さんの『こころの旅』や心理学者の平山正実氏の『ライフサイクルから見た老いの実相』の中から引用しながら、いずれも「老い」を「美しくまとめようとする」無意識下の共通点を感じるという。二つは、「科学的老化物語論」で、「人間の一生は遺伝的にプログラムされているものの、現実の個々の人生はひとさまざま」だというもの。動物行動学者のデズモンド・エリスの『年齢の本』を紹介しつつ、ひたすら楽しいものだとの彼の受けた好印象ぶりが読む側に伝わって来る。ひとというものは若い頃には、誰しも「老い」に対して、ある種の美化した観念を持ちたがるものだが、やがてそれなりの歳になるとその考えを遠ざけたくなるということではないかと思われる▼この『年齢の本』をここでも紹介したいとの欲望に駆られるが、彼が孫引きしたものをここで引っ張ると、ひ孫引きになるのでやめておく。論語における「30にして立ち、40にして惑わず、50にして天命を知る、60にして耳に従う。70にして心の欲するところに従って矩(のり)をこえず」などといった孔子発のことわざよりとても面白いとだけ。ひとはいにしえの昔より「不老長寿」を夢見て、ありとあらゆる挑戦を繰り返してきた。尤も、最近はいささか違った傾向にある。ひとはあたかも死なないものと思い込んでいるかのごときひとが多いのである。私が厚生労働省に勤めた一年の間に、75歳を「後期高齢者」と位置付けたことで大変な抗議を受けた。75歳過ぎたら死ねということか、と。死への準備をしようと問題提起しただけなのに▼「老化」は、科学的見地からは「細胞」と「個体」の両面から考えらえている。志村氏は、田沼靖一『ヒトはどうして老いるのか』から引用をしながら説明を加えている。いわく、細胞の老化は、プログラム学説、エラー蓄積説、体細胞廃棄説との三つがあるが、三番目のものが最も有力だと。このくだりは丁寧な説明が繰り返されているが、何度読んでも私にはよくわからない。それよりも個体の老化は分かり易い。「老化とは、運動能力、繁殖能力や生理的能力が加齢とともに衰えてゆくこと」であるというのだから▼人間の身体における細胞をめぐっては、「私たちのからだの設計図である遺伝子=DNAは、受精卵から約50回もの細胞分裂を繰り返して、約60兆もの細胞となって私たちのからだを作る」というのだが、その仕組みなど、この歳になるまでいくら聞かされてもわからない。ぼんやりと理解するに至っているのは、わが体内の細胞は瞬時生き死にを繰り返しており、何年か経つと全ての細胞が入れ替わっているということぐらい。では、別人になってるかというと勿論そうではない。それぞれの細胞に同型のDNAが刻印されているからだろう。若い時には、細胞が入れ替わるのだから、今日の自分は昨日の自分に非ず、などと発奮の材料に使っていたものだが、老いて来るとそうはいかない。頑張り過ぎて細胞がすりへってしまわないようになどと、わけのわからない自制することぐらいが関の山なのである。
(2016・11・9)
(187)様々なる老いの実態ー志村勝之『こんな死に方を…』老化編を読む➁
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(186)老化現象をめぐる個人差ー志村勝之『こんな死に方を…』老化編を読む➀
志村勝之氏の「こんな死に方をしてみたい!」の第二章は、「老化論」である。「生老病死」というひとの一生における、「老と病」は通常順序良くいけば、老いて病となり死に至るというわけだが、ひとによっては、死に至るほどの病が先に来ることもある。かくいう私など22歳にして肺結核を病んで以来、「生病老死」の順で進んできているようだ。彼は70歳になった現在の自分自身の老いにまつわる諸現象を具体的に語る一方、様々な学者や識者の「老い」についての学説を紹介しており、なかなかに興味深い▼「老化現象」をめぐっては、当然のことながらかなり個人差があるように思われる。たとえば彼は眼について、老眼がもたらす不都合を嘆いているが、同い年の私は殆ど気にならない。私は近眼だからだ。早くしてメガネをかけざるを得ず、数多の苦労をしたがゆえか、老いて天は恵みを与えたもうた。近くはいくらでもメガネなしに見えるのだ。本や新聞を読むのにメガネを必要とするひとはひたすら気の毒に思う。また、私は左耳がかなり若い時から聴こえにくい。左側から話しかけられると聞こえず、苦労することが若き日より多かった。しかし、片方しか聞こえないというのは、寝るときに聞こえる方を下にして、つまり横になって寝ると、煩い音が聞こえずによく眠ることが出来るという利点がある。さらに、24歳頃にぎっくり腰を患った私は、ありとあらゆる対症療法をやった挙句に、ストレッチや糖尿病のおかげでやせたうえに運動を日課にしたためか、60歳を過ぎてピタリと腰痛とおさらばできた。恐らくこれから年を経ても腰痛との付き合い方が解ってる分、腰の老いは遅く来るものと思われる▼まだまだ私の体の不都合を挙げるときりがないが、このように、若くして「病」を持った人間は、老いて得をすることもある。少なくとも、あれこれと折り合いのつけ方を知るに至っているから面白い。健康一筋で老いたひとよりも、大げさに言うと満身創痍の方が「老化」を意識するのが遅いのではないか。尤も、喜ぶのはまだ早い。私など肺結核の最中に人生の師から「僕の青春も病魔との闘いであり、それが転じて黄金の青春日記となった。君も頑張ってくれ、君自身のために、一切の未来のために」との揮毫を頂き、感涙にむせび、命の底から発奮したものだが、病魔との闘いはいつなんどき再発するかも知れないからである▼志村氏は、私のような基本的には脳天気でアバウトな人間と違って、「老化」を感じるに当たって、「細胞」にまでその思いを至らせるから凄い。鼻の下の皮膚の隆起から、「皮膚細胞」の衰えだけではなく、脳内の「神経細胞」の衰えを意識するというのだ。自然科学の分野における「老化学説」は「老化学者の数だけある」と言われており、まだまだ定説を持つに至っていず発展途上にある、とも。さらに、心理学者の多くは「老化」というより、「老い」の「意味」や「価値」や「アイデンティティ」を一元的に追い求めることにおいて一致しているとする。つまり、ひとはなにゆえに、またいかにして老いるのかというテーマについて、自然科学における捉え方は千差万別でバラバラだが、心理学の分野では方向は一致しているというのだ。なんだかぐいぐいとひきこまれていくではないか。(2016・11・7)
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(185)冷徹な策謀家と無私なひとの二面性ー原田伊織『大西郷という虚像』を読む➂
第二章で著者は西郷と島津斉彬との関係に焦点を絞る。斉彬は薩摩の10代藩主斉興の長男。異母兄弟で五男にあたるのが久光。斉興は42年もの長きにわたり藩主の座を譲らず、しかもその座を長男・斉彬ではなく、側室お由羅の子・久光に渡そうとしたことからお家騒動に。これが世にいうお由羅騒動と言われるものだが、世代間抗争の側面も持つ。すったもんだの挙句に結局は斉彬が家督を継いだが、比較的早くに亡くなり、結局は久光が登場する。西郷は斉彬を慕い、師事していたためもあり、久光とは全くそりが合わず、徹底して二人の関係は悪い状態で推移する。西郷は生涯を通じて久光との関係に悩まされ続けることになる▼西郷の持つ二つの二面性についても興味深い。一つは、冷徹な策謀家という”悪のイメージ”と、徹底した無私のひとという”善のイメージ”の二面性である。前者は赤報隊というテロ組織的なるものを作ったうえで、幕府を挑発し、鳥羽伏見の戦いを引き起こして戊辰戦争の発端を開かせたことに起因する。後者は、明治新政府の腐敗とその中心者らの権力欲を憎悪しぬいたところが背景にあろう。こうした二面性は歴史上の人物には付きまといがち。最初から最後まで善悪どちらかの色彩が強いというひとは意外に少ないかも。西郷は薩摩独特の郷中という若衆システムの中で育ち、薩摩弁で「大概」という意味を持つ鷹揚さでひとを惹きつけた側面が強い。著者は、最終的に故郷の若者たちに徹して求められたことが彼の人生の波乱万丈の秘密を解くカギになるというのだが▼私はもう一つの二面性に惹かれる。彼の人生を貫く強者のイメージとは反対に、優しい弱者の側面があることだ。最大のものは僧・月照と一緒に錦江湾で入水しようとしたこと。坊さんと海に飛び込んで心中するなどということはおよそ彼の全体的な人間像からは異質に見える。また、島に流された際に現地妻を娶り、後々まで、その睦まじさを語られることなども、いささか彼らしくないと思ってしまうのはこちらの僻目であろうか。こうしたエピソードがもたらすものは、弱者イメージというよりも強運の持ち主というべきことかもしれないのだが▼著者は西郷をして”ただのひと”であることを立証しようとしてかなり苦労している風が見て取れなくもない。その最大のものは、もともと西郷が斉彬の「使い走り」(パシリ)から出発して、後々の地位を得たことを強調していることだ。様々な人脈を知り得るきっかけとなったのはあくまで主君のおかげだということを指摘したいようである。尤も、これとて彼だけに特徴づけられることではなく、大なり小なり誰にでも見いだされることで、そうだからといって西郷を特に低く見ることには無理があるように思われる。これなど政治家の秘書をしてから、その道に入った私など「パシリ」の端くれであるだけに、大いに「それがどうした」といいたくなったのには我ながら苦笑いしてしまう。(2016・11・1)
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(184)大衆の中に死んでいく使命ー志村勝之『こんな死に方を…』を読む(8)
志村氏は「死事期」からのブログの終りの方で、友人たちやその縁者の死の在り様を紹介しており、興味深い。表面上は「孤立死」とか「孤独死」と、他人からは見られるかも知れないが、それはその人の生きてる際の姿を勘案していないからであって、実際は「孤高死」と呼びたいものがあるというのである。生前の毅然とした生き様が自ずとそうさせるものだ、と。加えて自身の母親の死について多くを語っている。要約しよう。彼の母親は94歳で亡くなるまで35年近く「独居」を貫いたが、90歳を過ぎて倒れてからは、不本意ながら「延命治療」によって「飼育室」生活を余儀なくされ、「苦悩に満ちた死に方」をしてしまった。「どうすれば『自分の死』に上手い『折り合い』をつけられるか。そればかりを考えていた、リアリストの母だった」のに、と。母上を「死に方」の「反面教師」としたいとする彼の切なる思いがひしひしと伝わって来る▼ここで、私自身も、母の死が想い起こされる。1917年(大正6年)2月生まれ。生きてれば99歳のはずだが、59歳、還暦を待たずに死んだ。死因は胃がんだった。父が懸命の看病を尽くした。病院のベッドわきに布団を敷き、お風呂にも自ら入れてやった。医師から半年の余命と宣言を受けたときに、父が私に云った言葉が忘れられない。「おい、お母さんが川の向うにドンドン流されていく。どないしたらええんや」と。私は「信仰するしかないやろ。ご本尊を拝もう」と入会を勧めた。「拝めば治るか」「必ず治るよ」「それなら入る。治らんかったらやめるぞ」ー父子の会話だ。時に私は32歳だった。意、天に通ぜず、母は医者の見立て通りに死んだ。父の退転を恐れた。ところが、父は違った。「懸命にお母さんの回復を祈ってくれた近所の学会員の皆さんに申し訳ない」「(お香典やら弔電を下さった)池田先生の真心にもこたえたい」と信仰を続けるといったのだ。「どうせ、わしが死んでもお前ら姉弟4人(私が入会以来、全ていざなった)は法華経を信じて題目を唱えるにきまっとる。そんなら、わしも生きとる間に(浄土真宗から)宗旨替えをする」と明言した。時に父は66歳▼その父の歳をもう大きく超えた。これから先、仮に我が妻に先立たれるようなことになったら、父が母にしたような必死の世話が出来るかどうか。心もとなくあまり自信はない。がんで苦しんで天寿を全うできなかった母の悔しさと、それを機に13年間の信仰を続け、時に「独居」したり、時に私や姉弟と同居して暮らし、文字通り「孤高死」を遂げ、79歳で逝った父。これが私の身近な死のダブル・イメージである。死んだら「空(くう)」に溶け込み、大宇宙の中に融合する。そして新たな機縁を得て、新たな命としてこの世に生を受ける。と同時に、天空のどこかで私を見てくれている父母と、やがて自分が死んだら再会出来る喜びを期待している。このようなあたかも矛盾した気分が偽らざる私の今の境涯である▼「大衆の中で語り、大衆の中で闘い、大衆の中で死んでゆけ」との命題を公明党の議員に師匠は与えられた。死しても大衆と遊離するな、立場はどう変われどもどこまでも大衆の代表だということを忘れるな、という厳しい言葉だと受け止めている。間違っても自分中心の考えにとらわれてはならない。貴族趣味や贅沢三昧な暮らしに憧れるな、と。政治家として、お世話になったあのひと、このひとを始め、市井のなかで必死に暮らす人々の、平和な、安全で、安心な生活を構築するために、身を粉にしてお世話し続けよ、と。これが自分自身に与えられた使命ー文字通りいのちの使い方であると、戒め続けている。(この章終り。以下続く=2016・10・31)
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(183)直観、内観的な方法の偉力ー志村勝之『こんな死に方を…』を読む(7)
元外交官にして今を時めく大作家・佐藤優氏の『地球時代の哲学 池田・トインビー対談を読み解く』はまさに覚醒の書である。かつて彼が一外務事務官であったころに面識はあったが、今日の彼の”知の巨人”ぶりは、片鱗さえ知る由もなかった。彼の『創価学会の平和主義』なる新書に、私の衆議院時代の委員会でのある発言が取り上げられている。これを要するに『論語』の「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」を実行した私を、創価学会の持つ文化的風土の角度から紹介してくださっているのであって、私的には特段褒められたことではない。これもまた恥ずかしい限りのことではある。その佐藤氏が今では、『池田大作 大学講演を読み解く 世界宗教の条件』や、小説『人間革命』や『法華経の智慧』などを材料に、立て続けに「池田思想」を丁寧に高く評価しておられるが、その先陣をきったものがトインビー氏との対談『二十一世紀への対話』である▼私がこの対談を改めて自覚的に読んで啓発を受けたところは、枚挙にいとまがない。特に西洋の哲学は主に人間の意識を取り上げているが、それは人間精神の一部にしかすぎず、無意識の領域にメスを入れない限り、生命の全体像は浮かび上がってこないとされているところを挙げたい。そしてトインビー氏と共に、池田会長は「科学における偉大な発見が、偉大な芸術家のひらめきと同様、直観であるのは不思議な事実です」「意識現象の検討から下される深層心理への類推よりも、インド的な、内観的な方法のほうが、正しい認識をもたらす可能性があるというのは、十分に説得力のある主張です」と述べられ、直観、内観的な方法を推奨されている▼そして佐藤氏は「内観とは、時間や空間の次元を超えた、物事の本質を瞬時に、言語化、論理化することなしにとらえることだ」などと解説を加えながら、対談の深い理解へと読者を導く。「理性万能主義は人間を不幸にする。目に見えず、耳に聞こえない、われわれの世界を成り立たせている本源は、直観によってしかとらえることができない」と池田会長が強調していることを紹介。「トインビー氏も池田大作氏が説く『直観の哲学』に知的触発を受け、議論を深めていく」といった描写ぶりには胸躍るものさえある▼もう一昨年のことになるが、志村氏と一緒に電子書籍での対談『この世は全て心理戦』(キンドル)を出版した。これは彼の心理学への薀蓄をかたむけて貰った面白い本だ。私が尊敬してやまない姫路市の元医師会長の石川誠氏がこれを読んで、「志村さんというひとの心理学への造詣ぶりは凄いね。興味深くて一気に読んだよ」と褒めて下さった。その中で、私が先ほども触れたように、日蓮仏教の方法を述べたことに対して、志村氏はこう述べている。「お題目をもって、ご本尊をしっかりと拝んでその境地を得ようとする。それによって、宇宙根源の法を内奥から顕在化することを目指す。これもひとつの観想、瞑想修行になると思うなあ。同じ言葉を大きな声で繰り返していくときに、必ず『変性意識』が現れてくる」「『宇宙根源の内奥』に迫るまでの道筋が解らないから、理屈が好きなオレには何とも言えないところがあってね。その先にはどういうプロセスがあって、果たしてそこに何があるのかな?って」ーこういう彼の言い分、疑念に対して、私はこう応じている。「ある一定の線までは理屈で解っても、そこから先は、動かしがたい体験をつかむということで、信ぜざるをえないのだね。『宇宙根源の内奥』を把握するメカニズムは、理屈での説明よりも実感的会得でしかないというのが、信仰生活50年の結論だね」、と。ここには、理屈を積み上げて考える普通の人間と、直観、内観的世界に浸ってきた宗教的人間との交じり合わない実態が色濃く出ている。興味持たれる向きはぜひ対談電子本を読んでいただければと思う。(2016・10・30)
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(182)成仏の根源の法はどこにあるかー志村勝之『こんな死に方を…』を読む(6)
お題目(南無妙法蓮華経)をご本尊に向かって唱えることが、どうしてすべての源泉になるのか。悩み苦しんだ時も穏やかな時も、嬉しいときも悲しいときも、仏壇に向かって正座して拝むことがすべての原点だー様々な機会に師匠から教わった。また身近な先輩たちからも陰に陽に助言を受け、また私自身がやがて後輩たちに伝えるようになった。紙に書かれたものでしかないものに向かって唱題することが、なにゆえに偉大な力をもたらすのか。単に自身の変革だけではなく、他の存在にもその影響を及ぼし、やがて周りの社会変革、そして国家から世界の改革へと繋がっていくのか。50余年の信仰の中で、私は現実にあらゆる難問に直面してきた。それらを一つひとつ失敗もしながら、それなりに解決をして、この答えを体得してきた。つまり、一つはわが身の動かぬ体験から。今一つは納得せざるを得ない哲理の展開を知って▼初信の頃に手にした書物にはこうあった。「南無妙法蓮華経の御本尊は、大聖人が万人に仏界が具わるという法華経の経文上に説かれた教えを深く掘り下げて、文底に秘められていた成仏の根源の法そのものを直ちに説き示し、私たちが現実に成仏するために実践できるよう、具体的に確立されたものです。御本尊は、凡夫の私たち自身の仏界を現実に映し出す明鏡でもあるのです」、と。ここでいう仏界とは人間としての最高の境涯を指す。成仏とは、ひとが死んでからいわゆる「仏様」になることではなく、生きている中での「最高の人格者」になることであろうか。わたし風には「能動的な覚悟者」と言い換えているが。「成仏の根源の法」「明鏡」とされる南無妙法蓮華経の御本尊とは、ひとの命の奥底に内在するものを具象化したもので、それはまた宇宙に遍満するリズムとも一致すると理解している▼仏教では、眼、耳、鼻,舌、身という五つの感覚器官を五識とし、その器官の作用を統合するものとして第六識の「意識」を考えている。そして、さらに、第七識として末那識、第八識として阿頼耶識を位置付けている。末那識とは深い思考をする理性的な意識をいい、阿頼耶識とは更にその奥にあって人間生命の仕組みを見極めようとする精神の働きと言える。大乗仏教では当初そこまでで終わっていたが、天台仏教では、第九識として、それまでのあらゆる精神の働きを生かす本源としての心の実体を、阿摩羅識(根本浄識)と名付け、新たな展開をしていった。日蓮仏教ではそれを「九識心王真如の都」と誠に劇的な表現がなされる。御本尊を信受する人々の胸中御深くにあるこの部分こそ南無妙違法蓮華経そのものだ。唱題をすることによって、いわばこの部分が共鳴し、力が発現される。自身という主体も、またそれを取り巻く客体も、その影響をうけざるをえない。それが起因となって、自身の幸福から始まり、全ての環境の好転へつ繋がっていく。この辺りの仕組みについては、池田SGI会長と英国の歴史学者・アーノルド・トインビー氏との『二十一世紀への対話』〈1975年)が極めて参考になる。▼トインビー氏が「人間精神の意識下にある淵底の究極層とは、じつは全宇宙の底流に横たわる”究極の実在”とまさに合致する」といい、それに対し池田会長が「第九識の根本浄識とは、個々の生命の本源的実体であるとともに、宇宙の生命と一体となったものであるとされています。また、前にもふれましたが、博士のいわれる”究極の精神的実在”は、仏法でいう宇宙の森羅万象の根源たる大生命ー宇宙生命ーにあたると考えられます」と応じている。「宇宙の根源」こそ、すなわち南無妙法蓮華経だと確信する。対談が行われた時点で、老いた西洋の名だたる歴史学者と東洋の若き日蓮仏教のリーダーとが交わした対話の深い意味について、私は表層的な捉え方しか出来ていなかった。この価値を十二分に知るに至ったのは、ごく最近のこと。しかもそれは、れっきとした異教徒の書いた解説書がきっかけ。思えば恥ずかしい限りである。(2016・10・29)
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(181)「関ヶ原」の怨念がすべてのエネルギーー原田伊織『大西郷という虚像』を読む➁
西郷隆盛という人物像を原田伊織氏の著作にそいながら順次明らかにしていきたい。まず、第一章の「火の国 薩摩」。著者は西郷を語るには薩摩を語らねばならず、それには「薩摩おごじょ」からだとして、串木野のママさんといういかにもきっぷのいい女性を例に挙げて語り始める。まずこのくだりが実に読ませる。私の衆議院議員事務所の初代事務員は、鹿児島の名門・鶴丸高を出てお茶の水女子大に学ぶ才媛だったが、いわゆる「薩摩おごじょ」には程遠いながら心優しい女子学生だった。既に40代半ばになってるはずの彼女も、今では立派な「薩摩おごじょ」になってるに違いない▼「薩摩」と来れば、薩摩芋、薩摩揚げと並んで「薩摩隼人」が思いつく。武に富み、猛々しい特性を指して「隼人」というようだが、この地域には言葉そのものに「武」に関する言葉から転化したものが多い。敵が一騎も来ぬうちに、直ぐに、迅速にという「いっこんめ」という表現やら、同じく敵が太刀を振り下ろす前にとの意味合いを持つ「たちこんめ」といったものを挙げている。「武」にまつわる色濃い風土から、西郷や大久保利通、黒田清隆、大山巌、東郷平八郎らが育った。私の故郷・播磨の風土はあまりそういうものとは無縁だ。時に応じて「最近の鹿児島には薩摩隼人はおらんなあ」と、皮肉を込めていったものである▼「肥後と薩摩」の章は、熊本と鹿児島の関係を考えるうえで役立つ。関ケ原で豊臣方についた「島津」は、艱難辛苦に耐えてそれこそ命からがら薩摩に逃げかえった。以来、「『薩摩隼人』の軍事上のターゲットは、一貫して肥後の熊本城であった」として、「肥後を討たずして薩摩隼人の戦とはいえない」と薩摩の人々の心の奥に潜んでいるものを明かしている。「大東亜戦争なんか、アータ、小さな戦じゃったよ。西南戦争に比べれば……」と『街道をゆく・肥薩のみち』で司馬遼太郎氏に語る老婆の言葉ほど「西南の役」の凄さを語ってるものはないという。こうした記述は、播磨人からすれば、遠い異国のできごとのように聞こえる▼「妙円寺詣り」という行事は、薩摩がなぜあの時代に先頭をきって倒幕に走ったかを考えるうえで、極めて示唆に富む。これは「毎年『関ケ原』の前夜(9月14日)、鹿児島照国神社から島津義弘の菩提寺、伊集院町の妙円寺まで、甲冑に身を固めて片道20キロ、往復40キロという道程を夜を徹して歩き、参拝する行事」を指す。これに対して原田さんは「辛酸をなめた関ヶ原の怨念が、倒幕にせよ、雄藩連合の主役として徳川に取って代わろうと企図したにせよ、幕末の薩摩を走らせたエネルギーではなかったか」と言う。このあと、長州の例も挙げ、薩長いずれにとっても「関ヶ原」は倒幕に動く、深く沈殿していた大きな心理的要因であった」とする。この辺り、「赤穂浪士」の伝統を今に引き継ぐ播磨との比較考察は「日本史」を学ぶ上で格好の材料ではあるが、薩摩でも、播磨でも、往事を偲ぶというよりも、今では「妙円寺詣り」も「義士祭」も単なる観光行事と化しているものと思われる。(2016・10.27)
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(180)「無から有」でなく、生じるのは空からー志村勝之『こんな死に方がしてみたい!』を読む(5)
私が50年余り前の創価学会の座談会で入会を迫られて即座に決意したのは、幾つかの理由があった。最大のものは人間が生まれながらにして不平等なのはなぜか、という疑問を解決したいと思っていたからである。日蓮が「(不幸の原因は)誤れる宗教にある」と断じているとその場で初めて聴いて、どうしてそういう結論に導かれるのか知りたいという欲求が強く沸いてきた。星雲の志を抱いて上京してきた19歳の若者は、何でも旺盛に吸収したいとの願いを持っていたが、いきなり日蓮仏教が眼前に立ちはだかったのである。これを断る積極的な理由はなかった。座談会が終わって、志村の下宿先の4畳半の部屋で一枚の煎餅布団に二人して横たわった時に、彼はこう訊いてきた。「お前、創価学会に入ってこれから南無妙法蓮華経って拝むんか」と。「いやいや。勉強するだけや。まあ、本を買うたつもり」と答えたことを文字通り昨日のように覚えている▼あれからの長い長い歳月、実に色々な体験をしてきた。途中回り道はしたけれど、結局はずっと拝んできた。この間、常に頭から離れなかったのは、「死後の生命のゆくえ」であり、「南無妙法蓮華経とご本尊に向かって唱えると、幸せになれるのはなぜか」っていうことであった。最初の頃、大学生時代だが、出会う幹部に片っ端から訊いてみた。「解りたければ、折伏をしながら、拝むんだね」「読書百遍、意自ずから通ずるというじゃないか。それとおんなじ。(本を読むようにして)解るまで、〈何回も、何万遍も)拝むんだよ」といった答えが専らだった。主に、1965年から1969年までの4年間というもの、友人を次々と折伏した。勿論、日蓮仏教の真髄である生命哲学を懸命に学んだことは言うまでもない。だが、その間に、あろうことか「肺結核」になってしまった。「入院一年」を慶応病院の医師から宣告された。自宅療養で題目を遮二無二唱え、悪戦苦闘の末に発病から十か月ほどで乗り切ることが出来た。しかも有難いことに闘病の最中に池田先生(SGI会長)から直接激励を受けるという福運に恵まれた▼そういう体験の細部は追々語ることにして、ここでは、人間の生命は死ぬといったん空(くう)に溶け込むという、日蓮仏教の捉え方について少々述べてみたい。断るまでもないことだが、志村氏のように自分の頭で苦労しながら考え抜いた所産ではなく、この道の先達から教えられたことが出発点にある。一番初期の頃に私が出くわしたのは創価学会第二代会長の戸田城聖先生の「生命論」だった。「現在生存するわれらは死という条件によって大宇宙へととけ込み、空の状態において業を感じつつ変化して、なんらかの機縁によってまた生命体として発現する。かくのごとく死しては生まれ生まれては死し、永遠に連続するのが生命の本質である」(戸田城聖全集第六巻)。当初、にわかには分かりかねたが、その後の流れの中で、いわゆる「永遠の生命」なるものがイメージとして、じわり分かってきた気がしている▼溶け込む対象としての「空(くう)」ってなんだろうか。国語辞典に当たると、「空」は、その場を満たすもの(実体)がない状態をいい、「空」こそあらゆるものの本来の姿であるという仏教の基本的な考え方をさす、と。仏教語辞典を見ると、色々と説明があったすえに、「空」の分類・解説は限りないほどある、と付言してあった。目に見えるか見えないかで「有と無」は分かれるが、目には見えずとも、形ある物質を生み出す原因となるものは存在する。つまり、「無から有を生じる」というが、厳密には、何かが生じた場合は、もとは「無」ではなく、「空」であったということだと私は思う。何だかはやくも観念的な領域に入ってきてしまった。(2016・10・27)
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(179)死ぬと「無」になるとの「恐怖」ー志村勝之『こんな死に方がしてみたい!』を読む(4)
ひとがどのような死に方をしてきたかということには、もちろん私も大変に興味がある。我が兵庫・但馬が生んだ異色の作家・山田風太郎に『人間臨終図巻』なる著作があり、古今東西の著名な人物たちの死んだときの様子がそれぞれの年齢ごとに並べられている。十代で死んだ八百屋お七、大石主税、アンネ、森蘭丸、天草四郎らから始まり、二十代、三十代がまとめられた後、三十一歳から九十九歳までは個別に挙げられ、再び百歳代は、野上弥生子、泉重千代らがまとめて登場する。私は自身の誕生日が来る度に、その年齢のくだりを読むことにしている。今年はもうすぐ71歳の誕生日を迎えるが、この歳の項は近松門左衛門以下26人が挙がっていて、全年齢を通じて最も数が多い。いよいよ危険水域にはいったということだろう▼2005年から1年間だけ、私は厚生労働副大臣(小泉内閣の最後の組閣)を拝命していた。まさにこのときに「後期高齢者医療保険制度」が作られた。辻哲夫事務次官(現在は東京大特任教授)を中心とする厚労官僚が叡智を結集し、自公政権として世に問うたものだが、ネイミングの響きから評判が良くなかった。辻次官と私は75歳を超えればひとは自身の人生の終え方を考えるべしとの意見で一致していて、本質的な部分では巷の批判など意に介していなかった。後に毎日新聞紙上の「発言席」欄(2008・8・10付け)に寄稿文(「骨格の変更は許されない」)が掲載され、思いの一端を述べたものだった。制度の意味合いの重要性もさることながら、仮に75歳を「死事期」の始まりと思う人々が増えたなら、持って瞑すべきだと誇りにすら思っている▼志村氏は、哲学者の中島義道氏(元東京電気通信大教授)の著作を、ご自分の心理カウンセラーの仕事のうえで参考にするとされ、しばしばブログでも引用されている。私は彼の著作は『人生を「半分」降りる』『孤独について』くらいしかまともに読んでいず、論評する資格など持ち合わせていない。だが、彼が若き日に哲学を志しながら、大学教師の生活を続ける中で、いつの日か真に「哲学すること」から遠ざかってる自分を発見した時には人生の終盤にさしかかっていた、との記述にはいたく共感した。それゆえ「人生は半分降りろ」っていうアドバイスをまともに受けてしまった。その結果が今の私の体たらくだということは笑うに笑えない話ではある▼それはともかく、志村氏が中島さんの死に対する恐怖について書いている文章の引用は私にとっても興味深い。「6歳の頃から50歳を超えた現在まで『死ぬのが嫌だ!』と心のうちで叫びながら過ごしてきた。その理由はしごく単純明快で、死ぬと(たぶん)まったく『無』になってしまうのだろうが、それが無性に恐ろしく・虚しく・不可解だからである」として、これを「宇宙論的恐怖」だと位置づけている。中島さんはこの「恐怖」をある意味バネにして、今や「戦うヘンクツ哲学者」の異名を欲しいままにし、数多の本を書いて著作料を稼がれているわけだから、何でも徹するということは凄い。志村氏は、「私には『死』のことを観念的に突き詰めていく能力が、幸か不幸かなかったから」、「『哲学病』にはかからず、『悩み』にどう上手く対処するか、ばかリを考える『カウンセリング・オタク』になってしまった」と自嘲気味に述べている。これはまた、私のような人間からすると、「へえー、そうなんだ」と大いに感心する対象となる。私は、死については、恐らく「無」になるのではなく、「空」に溶け込むのだから、いわゆる「恐れる」べきものではない、との日蓮仏教的捉え方をしてきたからである。(2016・10・24)
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(178)定評が根底的に覆される面白さー原田伊織『大西郷という虚像』を読む➀
つい最近のこと。「靖国神社に西郷隆盛や新選組、白虎隊などを合祀すべき」だとして、石原東京都知事らが申し入れをしたことがニュースで報じられた。西郷がいわゆる「賊軍」とされてきたがゆえに、「明治維新」を通じて「官軍」側に依拠する同神社に祀られることは難しい、とされてきた。西郷隆盛をめぐっては様々な見方があるが、今の時点で大筋は明治維新を導いた大功労者であり、勝海舟とともに江戸城無血開城を実現させた真の英雄であるという見方が定着している。ところがそんな見方に大いなる疑念を向ける本が出た。原田伊織『大西郷という虚像』である。以前にも取り上げた同じ著者による『明治維新という過ち』『官賊と幕臣たち』に次ぐ第三弾。共に知的興味を惹きつけてやまぬ大いに満足できる内容だった。三部作シリーズはこれで完結するというのでむさぼり読んだのである▼世に定まった見方を根底的にひっくり返すというのは何であれ興味深い。既に井沢元彦氏による『逆説の日本史』シリーズも世に出て(現在22巻が既刊)、大いなる反響を得ているように、深く静かに「逆説」なるものは浸透し続けている。ここでの「正説」は明治維新によって日本の近代は始まり、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允らの功績は大だというもの。いわゆる薩長史観に基づくものだ。一方、「逆説」の最たるものは、それら薩長の行動は所詮は「テロリズム」であり、「反幕のクーデター」に過ぎない。江戸幕府を構成した官僚たちの優位は動かず、「維新政府」が結局は今日の日本の低迷をもたらしたというものである。いやはやここまで正反対だと、爽快感さえ漂ってくる▼「はじめに」で著者は、「官」と「賊」を往復した維新の巨魁との見出しをつけている。「維新最大の功労者として『大西郷』の名を以て幕末維新史に君臨する西郷隆盛の飾りを排した実像に迫り、その真意を問いかける」という。西郷が薩摩の人間でありながら、薩長「維新政府」に満足せずに結果的に「官」と「賊」を「往復」したがゆえに、分かり辛さが付きまとう。著者は「大西郷」を「虚像」と断定するのだから、自ずとそのスタンスははっきりしているのだが、「それでもなおかつ」微妙に遠慮している風が垣間見えるところは面白い▼先日、私が尊敬してやまない姫路市の元医師会長と懇談した。私は以上に述べたような指摘を踏まえたうえで、同氏の西郷観を問うてみた。一言で言えば、様々な変遷を繰り返す西郷の人生のどこを拾い出し、捉えるかで評価は自ずと分かれるというものであった。残念ながらその答えは、ありきたりで満足できない。たとえば、豊臣秀吉のように前後半でくっきりと分かれる人物なら評価もしやすい。しかし、西郷は禍福ならぬ正反「あざなへる縄のごとく」に見えるがゆえに、その全体を貫き底流に流れるものを見定める必要がある。片や「南洲翁遺訓」と褒め称えられ、片や単なる「軍(いくさ)好き」と位置付けられるーこの本を読み解きながら、どちらにより真実があるかを見極めてみたい。(2016・10・21)
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