次は柳田國男。この人は民俗学の大家で、「昔話や言い伝えを一生懸命集めているおじいさん」との印象が確かに濃い。ここではそのイメージを180度壊す。貧困と飢えをキーワードに「本当は怖い柳田民俗学」を読み解く。このシリーズ一番の良い方の〝イメチェン〟で、〝金の亡者・福澤諭吉〟の表現より随分得してるように思われる。私を含めて柳田を見間違ってきたのは、農政官僚としての側面を見落としてきたからに違いない。「TPP交渉を主導し、自由化路線をひた走る」農政を「百二十年も先取り」しているというのは当たらずといえど遠からずかも。厳しくも優しい「民俗」への柳田眼差しの背景には、ひたすらに「日本人の諦め方」と「不条理に耐えていく知恵」の採集と分析にあったとの著者の見方は鋭い◆西田幾多郎の思想は、アンチ進歩であり、反進化思想だと位置付ける。それは右肩上がりの考え方の否定でもある。彼の思想の中核をなす「絶対矛盾的自己同一」とは、「絶対に結びつかない物が、現在において同一化する」ことだという。分かりやすくいうと、「悲しみの底には必ず慰め、喜びがあるように、主観と客観、個人と全体、善と悪など、反対だと思っているものは必ずセットになって現れてくるという」。これって、「依正不二」、「煩悩即菩提」といった仏教思想と全く同じと思えばいい。全般に、西田についての著者の解説は他のものに比べてわかりづらく感じるのは否定し難い◆最後に丸山眞男。戦後民主主義の創始者である。「超国家主義」と「八月革命」がその思想の根幹をなす。丸山は、日本には国家統治の責任を持つ主体、存在がどこにもなく、「無責任の体系」という仕掛けこそが「異常な超国家主義の根元」と説き明かす。また、明治憲法から戦後の憲法への転換は、天皇から国民へと主権が「アクロバティックな移行」をしたもので、革命そのものの大変化だというのが丸山の「八月革命」説である。著者は丸山が「関東大震災、特高による検挙、戦争体験、学生運動によって、こうした実感を、政治思想として深化させていった」のだとして、生活の継続性を強調する★柳田國男が生まれたのは兵庫県神崎郡福崎町である。私は今も保存されている生家に行ったことがある。慎ましいというほかない狭い家に驚いた。松岡操の六男(八人兄弟)に生まれ、12歳で茨城にいた長兄の家に移り、15歳で東京にいた三兄宅に同居し、26歳で柳田家の養子になる。柳田の足跡を民俗学の面からだけ追うのでなく、何のためだったのかを追求することの大事さを知って大いに満足した。と共に、海軍大佐から転身して民族学を志した弟松岡静雄の存在を知った。「兄の酷薄なリアリズムと弟の芒洋としたロマンの二面性があってこその一つの日本」との捉え方に驚いたしだい★西田哲学の根幹をなすものは「無」である。「いついかなる場合でも有にならないから絶対的に無なので」あり、「定まったかたちが有るのが有で、定まったかたちの無いのが無」だと。仏教の捉え方では、無に見えていても有になる場合があるという。「空」という概念がそれだ。有るといえば有る、無いといえば無いという状態を説明するのに、うってつけだ。西田哲学は、正解のない、中心のない今の世界を生きる上で、なくてはならぬ思想だと片山はいうが、なぜそうかの補助的説明が足らないように私には思われる★丸山は〈私自身の選択についていうならば、大日本帝国の「実在」よりも戦後民主主義の「虚妄」の方に賭ける〉と言った。その戦後民主主義も、憲法制定後75年経って、すっかり色褪せ、虚妄ぶりが露わになって久しいというほかない。むしろ「占領民主主義」の実態がいやまして強くなってきた。ほぼ150年前に福澤諭吉の説いた「独立自尊」が今なお燦然と輝くのはなぜか。私には、西部邁の『福澤諭吉──報国心と武士道』が圧倒的に印象深い。これほどまでに丸山「戦後民主主義」が叩かれた書物を私は知らない。(敬称略 2023-5-29 この項終わり)
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【80】片山杜秀『11人の考える日本人』❸和辻哲郎、河上肇、小林秀雄編/5-25
和辻哲郎は、姫路出身の倫理学者。私と同郷で、専門の学問とは別に『風土』と『古寺巡礼』を書いたとなると、親しみを感じざるを得ない。ニーチェ、キルケゴール、ショウペンハウエルら〝反正統派〟哲学者に傾倒し、「人間の限界を意識しつつ、それを乗り越えるためにどうすればいいのかを考え続ける思想、ままならない人生の苦悩を苦悩のままに向かい合う哲学に惹かれていた」人物だ。ポスト「坂の上の雲」時代の「教養主義」を代表する思想家である、とされる。夏目漱石門下のひとりとして、戦時下に国民道徳を説き、戦後も思想家として生き残ったことが注目される◆河上肇は「『人間性』にこだわった社会主義者」。私は尊敬する大先輩から河上の『貧乏物語』を読め、と勧められてきた。学者とジャーナリストの両面で河上は活躍したが、農業研究から出発し、マルクス主義へといくも、唯物史観に徹しきれないといった「振幅の大きい思想遍歴」を経ていく。「人間の心根の問題にこだわった経済思想」は、戦後日本社会で「あらためて参照されるようになる」。今の地球環境の危機を問う議論にあって、彼の「人間性に基づく行動変容と重なり合う論点を見出すことは可能」だとの見立ては大いに共感できよう◆私と同い年の政治家の国会執務室の書棚に小林秀雄全集が並んでいた。小林は戦後世代憧れの思想家である。「天才的保守主義」とのネーミングよりも、「何でも科学的に説明できると信じる人間が増えると、世の中はダメになる」──小林はこの考え方で一貫している、との規定の方が分かりやすい。〈僕等の嘗ての経験なり知識なり方法なりが、却って新しい事件に関する僕等の判断を誤らせる〉と、理屈で分かった気になることの危うさを指摘している。志賀直哉の凄さは「清兵衛と瓢箪」「児を盗む話」「和解」などの短編で、行為を説明せず、理屈も能書きも書かず、悔恨も懐疑も書かないで、「常に今現在のみを書く」ことにある──こう著者は宣揚する★3人への私の考察をここで加えたい。『風土』を考える時に、創価学会初代会長・牧口常三郎の『人生地理学』との対比に思いが及ぶ。牧口に遅れること18年でこの世に生を受けた和辻は、牧口より30年余り後に、似て非なる著作を著した。人間が生まれ育った土地の地理的要件や風土に影響を受けるという点で共通する。日露戦争前に出版した牧口と、アジア太平洋戦争の初期に書いた和辻とでは背景が自ずと違う。戦犯に問われ獄死した前者と、「体制に迎合するものではなかった」後者との違いも追うに値する★河上肇への関心を持ち続けていたのは、私の仕事上のボス・市川雄一。公明党は初期の頃「人間性社会主義」を追求した。これは党創立者の池田大作先生の発想に負うところが大であるが、河上の影響と無縁ではなかったはずと勝手に想像する。気鋭の経済学者斎藤幸平がいま『人新世の資本論』などで「新しい社会主義」を提唱している、と私は見ているが、ある意味で河上の主張と類似する★小林は、「ものごとは理屈でなく、直観で判断し間違えたら絶えず修正していけばいい」と言うが、取り上げてきたのは「志賀直哉も、モーツアルトも、本居宣長も、ゴッホも、ドストエフスキーも、普通の人ではたどりつけない、正しい道に直観で着地できてしまう天才たち」ばかりだ。これに幻惑され、しかも語り口調が「上から目線の権化」に見えてしまうから、平凡な人間は読み誤ってしまう。これをどう回避するかは、大いなる問題だ。(5-25 敬称略 つづく)
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【79】片山杜秀『11人の考える日本人』❷岡倉天心、北一輝、美濃部達吉編/5-21
3人目は岡倉天心。軍事の松陰、お金の諭吉に続いて、文明論の天心と、著者は位置付ける。天心は、英語エリート官僚として米国の美術史家アーネスト・フェノロサの影響の下、日本、中国、インドの一体化を考えた。東西融和の道を探し求めて、宗教、美術、茶道などを通じて相互理解を進めようとしたのである。「文明開化に成功した日本を模範にしてアジアは一つにまとまるべし」との理想をもとに、仏教における人間観、美意識などを根底においた。これはキリスト教を基盤にした西洋が、人間と絶対神を対立した関係ととらえるが故に、自然破壊をもたらす元凶となってきた歴史的事実からすれば、21世紀の今日を見事に予見した先駆性を持つ思想だったといえよう◆ついで北一輝。「極端な国家主義者」、「近代的な社会主義者」、「政治ゴロ的な貌」などの側面を持つ北について、著者は「進化論」がポイントだと見る。ダーウインの唱えた進化論は生物学の分野だけでなく、人間の歴史、社会、国家のあり方をも説明できる思想として、明治期の日本を席巻した。これを背景に北は、天皇を親とし、国民を子とする、民族が一体となった「純正社会主義」国家を、「進化」のゴールとして目指す。勿論、この「純正社会主義」国家とはいわゆるマルクスやエンゲルスの考えたそれと違って、共同性、社会性を高めた私利私欲を持たない〝無私の精神の極み〟としての国家像だ。しかし、北の『日本改造法案大綱』を〝日本革命〟の実践の書とした陸軍の青年将校たちが立ち上がった「2-26事件」により、全ては「未完」に終わる◆三番めは、美濃部達吉の「天皇機関説」。天皇は憲法によって縛られる存在であるという考え方である。いや縛られない、むしろ超越した存在だとする「天皇主権説」と対立した。天皇の選んだ官僚の方が、国民の選んだ議会よりも偉いとすることに帰着する天皇主権説は、「軍部優先」の温床にならざるを得ない。天皇機関説は当時としては先駆的な発想であった。大正デモクラシーを背景に輝きを持った天皇機関説だったが、軍部の台頭と共に退潮を余儀なくされていく◆以下に3人の思想への私の思いを付け加えたい。岡倉の思想は、今こそ光が当てられるべき先駆性を持ったものだが、理想倒れというべきか、登場が早すぎて残念な結果となった。また、北が法華経三昧の暮らしを行い、皇太子だった後の昭和天皇に自筆の法華経を献上したとのエピソードを筆者は紹介しており、興味深い。「自らの進化を促進するための重要な行為」だった法華経信仰の流れの中で、「日本の社会進化を促進する英雄的君主」への変身を期待した「法華経献上の方が(2-26事件よりも)革命的である」という。「これぞ究極の国家改造運動だったのではないでしょうか」とまで。ここは、法華経信者の私としては、北を「分かった」とは言えないまでも、「共感出来る」ところだと思われる。美濃部の天皇機関説は、戦後の「象徴天皇」制の登場に至る前ぶれともいえる。明治と昭和前期の間に花咲いた〝自由と民主主義的気風〟に溢れた大正という時代の空気が読みとれよう。(2023-5-21 続く)
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【78】片山杜秀『11人の考える日本人』から考える❶吉田松陰と福澤諭吉編/5-12
選挙で忙しく、このところ〝忙中本なし〟状態であったのだが、ようやく刺激的な本に出会った。ちょっと趣向を変えて、この本を4回に分けて解説した上で、私なりに考えを及ぼしてみたい。タイトルにあるように11人の思想家を著者の片山杜秀さんは挙げているので、順次触れてみる。最初は、吉田松陰と福澤諭吉。実はこの本を読むきっかけとなったのは、毎日新聞の今週の本棚4-29付けの佐藤優評である。「時代の危機『知の遺産』に生き残りのかぎ」との見出しで、この人らしい魅惑的な視点で主に柳田國男と西田幾多郎を取り上げ興味深い内容だった◆まず、吉田松陰。この人は1859年に29歳で亡くなっているから、明治維新のほぼ10年前まで生きた。幕末の緊迫した国際情勢のなか、どうすれば日本が生き残れるかを考え抜いた松陰は、天皇中心の中央集権国家を目指す。また、西洋の戦い方をリアルに認識しようとする軍事的リアリストだった。当時の日本人を結集するために、天皇を戴き忠誠を誓う仕掛けを作ろうとした松陰は、その手段として「教育」で人材育成を図ろうとし、「松下村塾」でその理想の具体化に奔走した。この松陰の思想を体現した長州の若者が中核となって明治維新は実現したのだ、と◆ついで、福澤諭吉。松陰より5つ下。江戸末期と明治後期を生きた。著者は「日本という国のありようから個人の権利、女性の権利、そして天皇の独立というものまでを一貫してお金を主眼として考え抜いた人」が諭吉であると位置付ける。その思想は「お金を儲ける経済人をどんどん作って、日本が豊かになることで真の独立、自立を実現できる」というものであった。この「お金の思想」という経済のリアリズムを実践的な生き方の根幹においたがゆえに、今も古びない存在だという◆幕末に生まれ青年期を過ごした2人は、紛れもなき明治維新の礎を作った巨魁だ。松陰は軍事に卓越し、目的完遂志向が強かったが故に、「本質はテロリスト」と見る向きがあるが、それは一面的に過ぎよう。「教育を施していけば人間はどんどん立派になって、日本が発展するような人材がたくさん輩出すると考え」た松陰あればこそ、日本の近代化がアジアで最も早く成し遂げられたといえる。また、諭吉は、これまで「いかにすれば西欧列強に屈せずに一国の独立と国民の福利を確保できるかという問題を、文字通り命をかけて考え抜いた思想家」というのが一般的だ。それを片山氏は、「お金の思想家」として徹して語っており、ユニークではあるが違和感が漂うのは否めない。これは福澤の作った慶應義塾で学び、教えてきた人ならではの一種の〝身内の謙譲さ〟の表れではないか。余談ながら、「慶應といえば看板学部はやはり経済学部」との記述があるが、さて。もうその時代は終わったとの見方も昨今は強い気がする。(2023-5-12 続く)
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【77】デモクラシーの「異端児」として━━水島治郎『ポピュリズムとは何か』を読む/3-26
「ポピュリズム」(大衆主義)を考えねば、と思ったきっかけは、尊敬する先輩が晩年にしきりに「ポピュリズムについて考えねば」と言っておられたからである。もちろん、外にトランプ前米大統領の華々しい動き、内に大阪維新の会の創始者・橋下徹氏の旋風といったポピュリズムの実例がある。民主主義(デモクラシー)の機能不全ともいうべき事態に代わって登場したとの認識が一般的だが、ともかくあれこれと事態は錯綜しているかのように見え、一筋縄ではいかない。手始めにそのものずばりのタイトルのこの本を選んで考えることにした◆定義をめぐって著者は、「固定的な支持基盤を超え、幅広く国民に直接訴えるカリスマ的な政治手法」と「『人民』の立場から既成政治やエリートを批判する政治運動」との2つがあるという。さらに学者によっては、「政党や議会を迂回して、有権者に直接訴えかける政治手法」(大嶽秀夫)や、「「国民に訴えるレトリックを駆使して変革を追い求めるカリスマ的な政治スタイル」(吉田徹)などといったものもあると補足されている。要するに民主主義のもどかしさを補おうとするもの、いわば「異端児」と、おさえたい。キーワードは、人民大衆、反エリート、カリスマ的手法といったところである◆民主主義が登場する以前には、一般的には「封建的専制主義」なるものが幅を利かせ、人びとに「自由」はなかった。一般大衆を率いるカリスマ的存在が全てを牛耳っていた。それに代わるものとしての民主主義は、「直接」と「間接」の2種類あって、直接民主主義が理想ではあるものの、現実の展開は難しい。そこで、議員という名の代理人を選び、議会を構成させ、大衆に代わって政治を執り行うのが間接民主主義だと捉えられてきた。しかし、大衆の指向する方向に政治が動かないために、直接と間接の中間というか、亜流としての進め方としてのものがポピュリズム=大衆迎合主義であると、私は恣意的に理解する。と共に、非民主主義社会では、新たに「現代的専制主義」が台頭してきていると捉える◆水島氏はポピュリズムは、「ディナー・パーティに乱入してきた泥酔客」のような存在だという。「泥酔客を門の外へ締め出したとしても、今度はむりやり窓を割って入ってくるのであれば、パーティはそれこそ台無しになるだろう」と。今米国では、不倫相手への口止め料支払いを巡ってトランプ前大統領を起訴しようとする動きが風雲急を告げている。これをきっかけに、米国中があたかも南北戦争以来の大騒ぎになるかもしれない。「厄介な珍客をどう遇すべきか。まさに今、デモクラシーの真価が問われているのである」との結論が重く響く。日本では未だそこまで深刻化していない。だが、原形としての「新型ポピュリズム」は明石市に芽吹いているかのように私には見える。これについては稿を改めたい。(2023-3-26)
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【76】君たちはどう戦うのか──西山太吉『記者と国家』を読む/3-12
米国の掌で踊ってきた戦後日本
沖縄返還をめぐる密約取材で、1972年(昭和47年)に国家公務員法違反容疑で逮捕された元毎日新聞記者の西山太吉氏が2023年2月に亡くなった。彼は最高裁で有罪が確定(1978年)してからも、「密約文書」開示請求訴訟を起こすなど、国家の「機密」を相手に戦い続けた。事件が発覚した当時、私は公明新聞記者になって3年目。日中国交回復問題に、沖縄返還交渉に、政党機関紙政治部記者として少なからぬ関心を持ち推移を追っていた。後に衆議院議員になって、外務委員会に参考人として招致された彼に直接問う機会も(2010年3月19日)あった。西山は「国家と情報開示」というテーマに向き合う上で、貴重な存在だった。後に続く「記者」の視点から垣間見ることにしたい。
冒頭の読売新聞の渡邊恒雄(現主筆)との若き日のスクープ合戦は興味津々である。親友だった2人の運命はやがて相反する。方や読売のドンとして今もなお君臨し、一方は後半生を裁判三昧で戦う。「権力対新聞」と題した第1章の結末は、「渡邊という新聞界の超大物の秘密保護法制への積極参加は、権力対新聞の本来の基本構造を、根底から塗り変えてしまった」とある。権力そのものに寄り添っていった渡邊と、その暗部に挑み続けた西山という風に両記者を単純に比較するのは不適切かもしれない。毎日新聞の後輩が西山のことを「生涯、傲岸不遜。勝手放題で競艇好き。正義の味方は似合わない」(3-6付け『風知草』)と突き放して書いていたのは興味深い。
この本で西山が最も力説するのは、戦後日本の国のかたちが、長州一族(岸信介、佐藤栄作、安倍晋三)によって「根底から変革された」という点である。「日米軍事共同体」の完成が露わになったからだと言いたいようだが、これは陰の部分が表に出てきただけである。米国の掌で踊ってきた戦後日本に基本的な変化はない。一貫して真の「自主独立」とはほど遠く、いまさら国のかたちが変わったとまで大げさに強調すべきほどのことではなかろう。戦前の「天皇支配」から、戦後の「米国支配」へと、根底からの変革は1945年から始まっている。77年経った今、米国への追従は益々強まっているのだ。
西山は「イラク戦争」と「沖縄米軍基地」に見られる日米関係の真相を衝く。前者において、日本は「CIAがでっちあげた偽情報にもとづく」米国の強い要請で、「参戦」した。その総括は未だなされていない。それを曖昧にしたまま、「ウクライナ戦争」でのロシアを非難する真っ当な資格は米国にも日本にもないと私は思う。後者で米国は、米軍再編における海兵隊のグアム移転に伴う費用負担を迫る。その実態たるや「もはや同盟の関係でなく、主従の関係である」と西山は嘆くのだが、何を今更との感は拭えない。ことほど左様に「敗戦」の後遺症は深く重いのである。仮に米国を見習うとするなら、「情報公開」だろうが、日本にその強い風は未だ吹いてこない。「暴走し、衝突し、灰神楽を立てながら進む暴れん坊だった」(前掲の「風知草」)西山は、遅れ来る「記者」たちに対し「すべて主権者たる国民に正確な事実を報告する義務がある」と神妙に言い遺して去って逝った。
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【75】ありきたりのことを鍛え直す─小山哲・藤原辰史『ウクライナのこと』を読む/2-24
ウクライナでの戦火が続く。ロシアのプーチン大統領が「特別軍事作戦」の名で軍事侵攻を始めた日から今日24日で一年。心騒がぬ日はなかった。昨秋、欧州政治に明るく心優しい友人(元T新聞政治部長)がウクライナ関連本をどっさり贈ってくれた。その中から〝すぐれものの一冊〟を紹介したい。タイトルには、頭にそっと「中学生から知りたい」との添書きがつく。その意味は、「基本に立ち返る」ことだけではない。①大人の認識を鍛え直す②善悪二元論を排除して相対化する③国際政治学的分析でなく歴史学的分析に立つ──の3つが含まれる。ポーランド史と「食と農の現代史」を専門とする歴史家2人の共著。〝どうするこの事態〟との観点だけの軽いものとは違って深い趣きがある◆冒頭、「自由と平和のための京大有志の会」の「ロシアによるウクライナ侵略を非難し、ウクライナの人びとに連帯する声明」(2022-2-26)文が掲げられる。これを受けて、今回の出来事をどうとらえるか?❶ロシアの軍事行動は、純然たる国際法違反である❷ロシアとロシア人を同一視してはいけない❸プーチン病気説には最大限の警戒心を持ちたい❹歴史を学び直して、点検し、少しでも改善する努力が大事である❺旧来の戦争観では追いつかない事態である──極めて的確なとらえ方でわかりやすい◆尤も、こう認識したのはいいが、そのあとの「地域としてのウクライナの歴史」(小山)を読んで、生半可な知識が見事に吹き飛んでしまった。まったくこの地のことが分かっていない自分に愕然としたのだ。それを次の「小国を見過ごすことのない歴史の学び方」が癒してくれる。私たちの大国に偏った歴史の理解の浅さを自覚させた上で、「NATOとロシアという二項対立図式から離れ」ることの大事さが力説される。プーチンによるウクライナの民間人の殺戮を欧米と同じ角度から批判するのでなく、「(欧米とは)異なった論理で、欧米より厳しく批判する糸口を見つけ出すこと」を迫る。「地政学風の力のゲームの議論」から、〝二項対立の罠〟に陥った論調。巷の現状に如何ともし難い我が身も反省するしかない◆最後の質疑での「日本がこれから中国の軍事大国化と米国との同盟の狭間でどのように生きていくか」という問いかけに対する答えが白眉だ。「あくまで中立であることを早期に宣言するという道を私たちはあまりにも最初から諦めている。この思考停止こそ、実は危険ではないか」とのくだりである。対米追従一本槍のお家芸になす術なしの我々国民大衆も耳が痛い。いま〝落日のムード〟が強い日本で、「米国か中国か、将来、どっちにつくのか」との〝地獄の選択〟を思考上で弄ぶ向きが少なくない。それをここでは嗜めつつ、「このテーマについてずっと考えています」と結ぶ。それは私とて同じ。自主独立の道と強靭な外交力の展開──「占領状態」を形の上で脱して70年。未だに見果てぬ夢の域を脱していない現実に天を仰ぐ。(2023-2-24)
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【74】2-③ 国のかたちを阻む戦後の形──船橋洋一『国民安全保障国家論』
◆信頼に足る政府の存在こそ
コロナ禍とウクライナ戦争によって、日本という国が改めて「国家の形」を持っていないことがはっきりした。阻んでいるのは「戦後の形」である──船橋洋一氏は、この認識のもとに、国家と経済と国民の3つさながらの安全保障の構想を早急に確立すべきだと、この本で強調している。「天は自ら助くるものを助く」との「自立」の大事さを強調した格言をサブタイトルに使い、明治開国の時代の「独立自尊の精神」の学び直しを、「ウクライナの指導者と国民」によって教えられたとする。2020年春のコロナ危機から2022年春のウクライナ危機までの2年間に書かれた評論集を一冊にまとめた本──幾多の知的修練を経た、時代を代表する言論人の所産を前にして、かつて中国への関心と共にその背中を追いかけてきた私は感慨深い。
筆者は湾岸戦争(1990-91)の時に「一国平和主義」が問われ、東日本大震災による福島第1原発事故(2011)の際には、「絶対安全神話」(ゼロリスクの建前)が問われ、今、コロナ危機にあっては、「平時不作為体制」が問われているという。前二者はともかく、3つ目は補足が必要かもしれない。コロナ禍は、国民の生命と暮らしを守るために、〝信頼に足る政府〟の役割が決定的に大事である。いざという場合に、国民の自由な行動を制限し奪ってしまうのだから。
平和憲法のもとで、「自分の国さえ平和であれば」「原発は事故を起こすはずがない」「平時は別に何もしなくてもいい」──このような〝危機管理ゼロ〟でよしとしてきた戦後の形の是非がいままさに突きつけられているのだ、と。この認識には誰しも共感するに違いない。「湾岸戦争」は遠い海外の中東でのこと、「福島第一原発」も日本だが特殊なケースと、たかを括っていた日本人も、我が身のそばの〝死に誘う接触者〟がいつ襲ってくるかもしれないとなれば事は別である。しかも、「ウクライナ」は「湾岸」の再現とも見え、「尖閣」「台湾」を連想させる
船橋さんは「湾岸」時に「日本の(カネさえ払えばとの)身勝手さが恥ずかしかったし、右往左往する自民党政権が情けなかった」と。さらに「尖閣ショック」時には「民主党政権の不甲斐なさと外交無策ぶりに憤りを覚えた」と嘆く。そして今は、コロナ危機に直面しながら、「泥縄だったけど、結果オーライ」(第一波での民間臨調)の能天気ぶりは、「デジタル敗戦」から医療崩壊寸前に追い込まれた「ワクチン敗戦」(第四波)を生み出したからだ、と手厳しい。
それに触れた上で、「日本に特異なのは危機対応における国家としての明確な司令塔と指令系統がしばしば『総合調整』の場でしかなく、また、平時と有事のそれぞれを律する法制度の明瞭な切り分けがなく、いわばグレーゾーンの曖昧性を残している」と指摘。「日本は自由を守り、民主に則るためにも有事の法制度を構築しなければならない」と根源的な課題を挙げる。
◆国の形さえ定まらぬ日本の漂流
事ここに至るまで危機管理対応ができないまま戦後78年が経った。私が『77年の興亡』で主張したのは、戦前の明治憲法の下での天皇支配による軍国主義に代わって登場した、「国民主権・基本的人権・恒久平和主義」の戦後憲法の内実の脆弱さだった。それは「国の形」と呼ぶにはあまりにも理想に過ぎた。国際政治の過酷さの現実に耐え得る強靭さを兼ね備えていないという他ない。
船橋さんは、第1部「国家安全保障:レアルポリティーク時代の幕開け」で、「最も恐ろしい日米中の罠」を、こう書く。「米中対立が軍事対立へと激化すると、日本は米国の同盟国としての義務と自らの実存的必要性のギリギリの矛盾に直面させられる」ので、これを回避するべく、「中国に日本の自国防衛の意思と能力、日米同盟の抑止力の有効性、科学技術力とイノベーションの力を常に理解させるべきである」と。米中対決の中で日本が選択肢を失う罠に陥らぬことを力説してやまない。
グローバル化の進展と共に、経済・通商の分野では益々国家の枠組みを超える交流が望まれる。コロナ禍発生時には、国家間相互の支援の機運向上が期待された。しかし、時代の流れは不幸なことに国家の内外を問わぬ〝分断化〟が拍車をかけている。民主主義国家と専制主義国家の枠組みの危機到来などと騒いでいる中で、国の形さえ定まらぬ日本の漂流は哀れと言うほかない。戦後の形の最たるものである憲法の見直しこそが求められていると私には思えてならない。
【他生のご縁 市川、中嶋、西村氏らとの繋がり】
朝日新聞時代の船橋洋一さんとのご縁にも市川雄一先輩の介在がありました。かつて西村陽一記者(後に常務取締役等を経て退職)が『プロメテウスの墓場』を書いた時に、4人で中国、ロシアを語り合ったのが最初で、印象深い出会いを覚えています。後輩のデビューに目を細める船橋さんでした。
後に、中嶋嶺雄先生が秋田国際教養大学でシンポジウムをされた時のコーディネーターのひとりが船橋さんで、私も秋田まで遥々と聞きにいきました。私の処女出版での催しに世話人としてその名を連ねて頂きもしたものです。
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【73】「巨悪」と「被災」に挑む「仕事人」──西岡研介『噂の真相 トップ屋稼業』を読む/2-13
『神戸新聞』から『噂の眞相』へ。新聞記者からトップ屋へと転身した筆者は、その後、週刊誌などを舞台にフリーランスの物書きとして活躍している。この本が世に出たのは2001年。あの頃、直ぐに読んだ。新聞記者時代の彼をそれなりに知っていて、大いに興味を持ったからだ。
読み終え、不思議な爽快感を感じた。こういう男に睨まれると、スキャンダルの主は怖いだろうなあと思った。うち続く不条理な出来事。その影でうそぶく悪者。誰かこんないい加減な奴を始末してくれないものか。世間一般の秘められたる期待を背に、快刀乱麻を断つ‥‥。
実は、2023年1月8日に久しぶりに放映された新シリーズ『必殺仕事人』(東山紀之主演)を観た。スカッとした。そして、改めてこの本を思い出し、ほぼ20年ぶりに再読した。「そうか。西岡は『仕事人』なんだ」と独りごちた。〝強きをくじき、弱きを助ける〟──彼の人生の〝変わりばな〟となった本を前にして、そう合点する。
彼がターゲットにした最初の人物は、N高検検事長。いわゆる女性スキャンダル。いつでもどこでも起こってきたし、今もある不祥事。珍しくはない。だが、この事件は、やくざな『噂の眞相』が取り上げたものを、かたぎの『朝日新聞』が追いかけてトップ記事にしたことが違った。結果的にはスクープした西岡記者の名を高からしめるに十分だった。
彼の手にかかった有名人は数多いが、この本で読者としての私の印象に残ったのはN弁護士、I元知事、M元首相の3人。本には勿論それぞれ実名で激しく攻撃されているが、故人であったり、噂の域を出ぬものもあったりするのではと、あえて実名は書かない。彼は新聞記者から『噂眞』に転職した理由を、「マスコミ報道が孕む『構造的欠陥』に悩んだ私は、批判の対象を権力者、しかも大物に絞るというこの雑誌の編集方針に共鳴したからこそ」と書き、そこに「逃げ込んだ」と心情を吐露している。彼のいう「構造的欠陥」とは「『ペンを持ったお巡りさん』よろしく、捜査当局と一緒になって、罪を犯した『元一般人』を追い回し、その過程で罪なき人まで傷つけ、時には『冤罪』まで作り上げる‥‥」ことを指す。耳の痛い事件記者は多かろう。
この本は、いわゆる大物の「噂」を追って一撃を加えるトップ屋の実像を描いただけではない。阪神淡路大震災に直面した地元記者としての、辛くいたたまれない経験もしっかり書き込まれている。加えて「災害や事故、そして犯罪による被害者に対して傍若無人な振る舞いをして恥じないマスコミは必ず社名を挙げ、徹底的に批判した」とまで述べて、自分の属した世界に厳しい刃も向け続けた。しかし、彼は、それと同時に、自身が転職をした背景に「自分は震災から逃げた」ことも忘れていない。
この時から約10年後の2012年4月に出版された『ふたつの震災 [1・17]の神戸から[3・11]の東北へ』は、同僚記者だった松本創との共著だが、その思いへの決着の書でもある。「一瞬にして5000人以上の命が失われ(最終的な死者は6434人)、住民や警察、消防による懸命の救出活動が続いていた現場で、西岡はあまりに無力だった。救出を手伝うでもなく、悲しみにくれる遺族にカメラを向けることはもちろん、声を掛けることもできず、ただただた佇んでるだけだった」──ここから始まる「神戸から東北へ」の被災地でのトップ屋の筆致はいかに、と新たな西岡を追う読者の心は妙に高まるのだ。
「阪神・淡路大震災で私たちの前に立ち塞がった最大の敵は、自らの記憶も含めた『風化』だった。当時、ともに20代のチンピラ記者だった私たちはそれに、いともたやすく打ちのめされた。(中略) 今後も東北の被災地を歩き、愚直に、言葉を紡いでいく──。阪神淡路大震災で味わった無力感や後悔を今も抱え続けるもの書きの、ささやかな抵抗である」。こう、西岡記者はあとがきを結んでいる。スキャンダルへの厳しいタッチと大震災地への優しい眼差しと。ジャーナリズムが追う二つのジャンルは、「人災と天災」という2つの災害に立ち向かう人の心根をも分ける。
新聞記者として人生のなりわいをスタートして、政治家を経て今は、元記者として老境を迎えた私も、西岡記者の激しさと優しさを前にして共感することは少なくない。『仕事人』の原点は、社会悪、巨悪への怒りである。その点を忘れぬようにと、自らを戒める。と共に、縁あった記者であり、トップ屋の行く末も見届けたいものである。
※他生のご縁 取材する側からされる側へ
筆者と初めて会ったのは、私が衆院選に出馬した時。今からほぼ30年前。彼は候補者を担当する駆け出しの記者。その後の〝変身〟が信じられないほど「純な印象」でした。と、思う私自身も似たり寄ったりでしたが‥‥。
ここで取り上げたように、彼は堂々たるもの書きに〝進化〟していきました。彼の活躍を見るたびに私も原点を銘記するのです。
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【72】6-⑥ 医師と患者の軋轢の原因探る━━小松秀樹『医療崩壊』
◆勤務医たちの現場の苦労に警鐘
コロナ禍もほぼ収束して、いっとき盛んに危惧された「医療崩壊」も落ち着いてきたかに見える。この言葉をメディア上で最初に私が聞いたのは、小松秀樹さんのこの本による。既に出版後17年ほどが経つ。だが、ここ数年使われている「崩壊」とはいささか異なった意味合いだった。コロナの蔓延によって、医師や看護師からベッド数に至るまでが足らずに、通常の医療行為が出来なくなるということではない。この場合は、医師たちが診療に対する患者の不満やら、警察官僚の介入などに至るまでの攻撃から逃避する現象をさす。
著者はそれを「立ち去り型サボタージュ」と命名している。勤務医が病院から、より小さな病院や町医者へと転身するかたちをとるようになることを意味する。この現象は、その後も止まることなく、じわり着実に浸透している。そこにコロナ禍が襲いかかった。より一層事態は深刻になっていることは間違いなさそうだ。医療が抱える深刻な課題を考えざるをえない。
この本を小松さんが書いた当時は東京の虎ノ門病院の泌尿器科部長だった。実は、これより先に、『慈恵医大 青戸病院事件』を出版し、患者と医師の対立がこれ以上増幅すると、日本の医療は崩壊すると危惧して警鐘を乱打した。その事件は、前立腺全摘手術を施行された患者が低酸素脳症で死亡したことから、同病院の医師3名が逮捕された(2003年9月)ことに起因する。小松さんは当時、「国民に極悪非道の医師像が刻印された」としている。その3年後にこの本を書き、翌年『医療の限界』を出している。
◆死生観含む医療についての考え方の齟齬
1作目は、発端としての「事件」を描き、2作目では、広範囲な問題の「所在」を明かし、3作目で、医療への幻想を断つべく持論の「普及」を図った。こうした一連の「医療危機」を訴える三部作は、大きな話題を呼んだものだ。いわゆる「医療ミス」は、日常茶飯の出来事のように見えるが、その判別は難しい。医師の側を非難するメディアの力に対抗する存在は珍しい。まして、開業医ではなく、勤務医の立場からの擁護論は新鮮だった。小松さんは、前者のバックにある「医師会」に対抗して、弱い立場の勤務医のための「第二医師会」の創設まで提唱した。
この人は「医療崩壊の原因は患者との軋轢」にあり、そこから「使命感を抱く医師や看護師が現場を離れつつある」との認識を示す。そこから起きる「医療の崩壊を防ぐために」、「医療事故・紛争に関して現状を改革し、医療への過剰な攻撃を抑制する必要がある」という。少し前にテレビで『ドクターX』なる番組が人気を博し、「私失敗しないんです」とのセリフが流行語のように使われていた。どんな病状でもいかなる事態にも100%の成功はあり得ないが、それをやってのけるスーパー女医への憧れは、正反対の現実を裏返した庶民願望の表出だった。
現実は至るところで、「軋轢」が噴出している。どんな名医でも新人の頃は手元は覚束ない。いかなる患者もやがて必ず死ぬ。にも関わらず、病院に、巷に外科手術は100%の期待感に満ち溢れている。このギャップから始まって、善意の医師と患者が相互に憎悪の対象になり、いつ何時混乱の坩堝と化すかもしれない。
小松さんは、個別具体的な対応策の前に、最も大事なことは、「死生観を含めて医療についての考え方の齟齬が大きいことが最大の原因である」として、「まず最初に、日本人の行動様式を含めて、基本的な認識と考え方について、国民に注視される中で象徴的議論を行い、総論としての齟齬の解消を図らねばならない」としている。言いたいことはそれなりにわかるものの、なんとなく回りくどく釈然としない。
要するに、「死生観を含めた医療の考え方」とは、死への覚悟と延命措置のバランスに尽きよう。医療は万能ではない、基本は持って生まれた個人の生命力と寿命に由来するとの思想、哲学にあると思う。昨今、日本人の長寿化に伴い人は限りなく生きるもので、よほどでないと死なないといった勝手な考え方が蔓延している。それゆえ、「日本人の行動様式を含めた基本的認識」は、従来の医療従事者への尊敬と信頼が薄れて、クレイマーの対象へと貶められている。ともあれ、小松さんは極めて重要な問題を提起された。しかし、「国民注視の象徴的議論を」という提案が宙に浮いたままなのは、まことに残念なことである。
【他生のご縁 虎ノ門病院で「腎臓結石」の手術を受ける】
実は私は小松さんの三部作が出始めた頃、たまたま偶然に、虎ノ門病院の泌尿器科のお世話になりました。小松部長の指導担当のもと、若い医師によって私は「腎臓結石」の手術を受けたのです。いらい、親しくなりました。
その結果、党の理論誌『公明』誌上で、医療にまつわる対談を行うことになりました。その後、私は厚生労働省で「高齢者医療改革」を担当するような巡り合わせに。およそ医療についてはド素人だったので、小松先生の理論が大いに刺激になりました。あれから約20年。色々と毀誉褒貶がおありになったこともあり、残念なことに疎遠な関係が続いています。
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