【96】占領期から冷戦の同盟者として━━『大統領から読むアメリカ史』から考える②/10-3

 2回目は、第二次世界大戦後の冷戦期の前半。日本がアメリカとの戦争に敗北した時の大統領はハリー・S・トルーマン。実は、戦争の間中は、4期にもわたってずっとフランクリン・D・ルーズベルトが第32代大統領だったが、1945年4月に急逝し、副大統領だったトルーマンが昇格した。彼は苦労人で大学も卒業していない、庶民出身の大統領であった。私のこれまでの印象は、彼が原爆投下を決断した点と、日本人に人気のあった連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーを更迭したことの2点で、あまり芳しいものではなかった。だが、著者は、原爆投下でソ連の侵攻に伴う日本の分断国家化を防ぐに至ったこと、大戦の早期終結で、日米間に抜きがたい怨恨が残らなかったことなどをプラス材料にして、高い評価を与えている◆日本は1952年(昭和27年)まで米国占領下におかれるが、この占領政策の直接の最高責任者はマッカーサーであった。トルーマンと次の大統領のドワイト・D・アイゼンハワーとの間に、筆者は戦後の日本社会に民主主義を確立したリーダーとしてマッカーサーを挙げ、それを番外のコラムに詳しく書いている。そこでは「後期の占領政策には、戦争の勝者が敗者に強いるような一方的な押し付けは見られなかった」などと、持ち上げていることは特筆に値しよう。「敗戦を奇貨として変革に取り組み、アメリカと手を携え、時には対立しつつも、したたかに戦後復興に注力した」日本だったからこそ、との側面はあるものの、日米両者による共同作業によって、奇跡が起こったと見ても言い過ぎでないかもしれない◆一方、トルーマンに代わって大統領になったのは、軍人として欧州戦線で大きな功績のあったアイゼンハワーだった。彼が1953年から8年間大統領を務め、現代アメリカを完成させたと言われるが、マッカーサーといい、アイゼンハワーといい、軍人出身の人材に恵まれたことが日本との違いだったと言えるかもしれない。その後がジョン・F・ケネディである。「キューバ危機の13日間」や、黒人の政治的権利を大幅に拡大する「公民権法案」の提出など光の面と、ベトナム戦争への介入など影の面が交錯するものの、「アメリカをよりよい方向へと前進させた類まれな指導者」だったと見るのが素直なところだろう。狙撃死したケネディに代わって副大統領から昇格したリンドン・B・ジョンソンは、前任者から受け継いだ「偉大な社会の建設」にはいい結果を出したものの、戦争継続という負の遺産に押し潰されてしまう◆この後、リチャード・ニクソンは、ウオーターゲート事件で辞職に追い込まれる(1974年)までは、国際政治学者のヘンリー・キッシンジャーを大統領補佐官に抜擢し、電撃的訪中で米中接近を図ったり、米ソデタント(緊張緩和)に貢献するなど幾多の実績を上げた。だが、最終的には政治不信の元凶として最悪の烙印を押されることになった。日本ではドル価値下落に伴う衝撃などと併せて「ニクソンショック」の名で呼ばれることになった。途中で大統領職を受け継いだのが、ジェラルド・フォード。この人は前任者の汚辱という「前代未聞の状況からアメリカを救った」大統領として、筆者は高く評価している。トルーマンといい、ジョンソンといい、フォードといい、副大統領からのリリーフ役に恵まれるアメリカは凄いと言うほかない。(2023-10-3)

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【95】没落の兆し漂う超大国と日本━蓑原俊洋『大統領から読むアメリカ史』から考える/9-28

 

 いま、超大国アメリカはおかしくないかとの懸念がつきまとっている。それを言い出すなら、英国も、中国も、もちろんロシアもとっくに狂ってる、そして我が日本も、との声が聞こえてこよう。つまり地球全体、全人類にそこはかとない不安が漂っている。その問題意識の上に立ち、まずアメリカという国の歴史をつぶさに見てみたい、と思った。そんな折、『大統領から読むアメリカ史』を手にすることになった。建国の父ジョージ・ワシントン初代大統領から46代のジョー・バイデンに至るまでの46人を6つの章に分けて解説している。順序よく「建国期」からスタートせず、最後の「冷戦後」から読み始めた。なぜ「分断」が常態になったのかを探るために◆ドナルド・トランプ前大統領の登場がもたらした「危機」に至る「転換点」となったのは43代のジョージ・ブッシュ(息子ブッシュ)だと、著者は見る。学生時代は、殆ど勉学に背を向け、酒に溺れていたことはつとに有名だが、結婚を機にキリスト教メソジスト派の妻の献身的な働きで立ち直る。といった家族や周辺の努力もあり、大統領になったものの、本人はいたって凡庸な指導者だったことが描かれる。しかも2001年9月の同時多発テロの勃発以降、政権内のネオコン(新保守主義者)に主導権を握られ、急速に自由主義世界のリーダーとしての矜持を捨て去り、単独行動主義へと邁進することになった。著者は、「ブッシュの最大の過ちは、建国の父たちが希求した崇高な理想を蔑ろにしたこと」と断じ、「かつてのアメリカの輝きはブッシュの時代に一気にその明るさを減じた」と言い切る◆実はその背景に、深く横たわるのが、カナダのジャーナリスト・ナオミ・クラインいうところの「ショック・ドクトリン」の蔓延という問題があると思われる。これは、テロや大災害などの恐怖で国民が思考停止している最中に、政治指導者や巨大資本がどさくさ紛れに過激な政策を推し進める悪辣な手法のことを言うのだが、ブッシュの時代に一気にこれが広まったと見られる。「ハリケーン・カトリーナ」への対応の中で、この魔の手法が被災地を蹂躙したことなども、国際ジャーナリスト・堤未果の解説が詳しく暴いている。この辺りについては、既にこの欄の89回(「特筆すべき民衆からの反撃」)で書いた通りだ。このあと、44代のバラク・オバマがブッシュの残した禍根を払拭するべく、果敢に改革に挑戦する。ただ、オバマは変革の風を吹かせたのだが、多くの実績を残した半面、同性婚の容認などリベラルな価値観をいしずえとする変革の動きが、畏怖の念を抱く保守層の反動の機運を一気に高めることになった。さらにオバマはシリアによる化学兵器の使用や、ロシアのクリミアへの侵略・併合といった肝心の場面で、弱腰な姿勢に終始し、口先だけの指導者との印象を内外に与えてしまう。黒人のリーダーであるが故のリベラルなスタンスも逆に作用し、一部白人の経済的苦境をベースにした、貧富の差への被害者意識を助長したのである◆つまり、トランプが登場する前に、ブッシュがアメリカ国内に「悪魔的手法」が跋扈するのを放置し、次のオバマが、アンバランスな形で「人種差別の空気」や、共和、民主両党の過激な差異化をもたらしてしまった。そんなお膳立ての上に、45代のトランプが自由勝手な大統領として君臨し、米国内の「分断」を決定的なものにしたというのだ。現在のバイデン大統領に、その「分断」を根底的に是正する力は、トランプとの直接的対決の当事者だけに、望めそうにない。それよりもむしろ、プーチンのウクライナ侵攻から始まった世界の「分断」という、もう一つの攻めに喘いでいるのが米国の現実だといえよう。著者は、これからの世界が、応仁の乱以後の日本の戦国時代のようになるのか、ナポレオン戦争終結後の「ウイーン体制」のように、超大国が不在でも大国同士の連携が進むのか、という二つのシナリオを想定している。その上で、後者への道が日本の積極的関与で可能になると希望的観測を述べ、それこそ「意味をなす国家」日本の生き方だというのだが‥‥。(2023-9-28)

 

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【94】画竜点睛を欠く「ウクライナ」記述の欠如──山崎雅弘『第二次世界大戦秘史』を読む/9-18

 「周辺国から解く 独ソ英仏の知られざる暗闘」とのサブタイトルが付くこの本が発行されたのは昨年2月末。ロシアのウクライナ侵攻とほぼ同時期。筆者と出版社は戦争勃発に驚いたのか、折り込み済みだったのかは分からない。「ウクライナ」に無知だった読者としては、この本に取り上げられた、先の大戦の舞台になった周辺国20に、ウクライナが入っていないのは画竜点睛を欠くと見えてしまう。と、いきなり、この本に注文をつけた上で、大国による戦争遂行の経緯に偏りがちの一般的な歴史記述に対して、小国の視点を重視するこの本の独自性を称賛したい◆小国の立ち位置でまず注目されるのは、ポーランド。この国への侵略が引き金になり、またユダヤ人虐殺の元凶の地となったアウシュビッツが同国内にあることから、ただひたすら蹂躙されただけの国に見えてしまいがちだが、さにあらず。著者は、自由ポーランド軍が「国家そのものが地図上から抹殺されてしまったにもかかわらず、「(欧州の)各戦域でドイツ軍と戦い、1944年の夏からはノルマンディーやオランダ、ドイツ領内でも激闘を繰り広げて、米英連合軍の勝利に少なからず貢献した」ことを強調する。また、ポーランドが「どれほどの苦難に直面しても決してギブアップしな」かったし、「誇り高い国民性」や「不死鳥にも喩えられる強靭な精神力」を持つという風に、過剰なまでに美辞麗句を連ねてほめそやす◆また、フィンランドについては、歴史的には硬軟取り混ぜての外交、軍事戦略を駆使して隣国ソ連と長く対峙してきたことで知られる。だが、大戦時にあっては、対ドイツ戦がこれに加わり、独ソとの「板挟み」状態となった。その苦労の末、大戦終結後にフィンランドが得たものは、ソ連の軍事支配をあきらめさせたうえに、「非共産主義の資本主義国として独立を維持することを容認」させたことだった。大戦中にソ連がいかにフィンランドに手を焼いたかがわかろうというものである◆独ソの狭間での苦難といえば、フィンランドに並んで、バルト三国(リトアニア、ラトヴィア、エストニア)のそれが挙げられている。1934年にソ連に併合された三国は、5年後独ソ戦の開始と共に、ドイツの対ソ進撃の通路と化す。実は当初はドイツをソ連からの解放軍的存在として捉える向きもあったが、やがてそれは失望することになる。このように、20の小国が置かれた位置について事細かに著者は書き上げていく。400頁にも及ぶ紙数を割いて「(これまでの歴史書は)大国の動向ばかりが記述され、周辺国兵士の戦いは、脇に追いやられたり、無視されることがほとんど」だったことを批判しているのだ。という観点からも、冒頭に述べたように、「ウクライナ」が全く欠落していることは訝しい。バルト三国と同様に、当初はドイツを救世主とする向きがあった彼の国について、なぜ触れなかったのだろうか。この辺り、この本の出版元系列の雑誌が補足的に場を提供したことをネットを通して知ったが、時すでに遅しの感は否めない。(2023-9-18)

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【93】日本近代化への遥かなる光線──司馬遼太郎『オランダ紀行』を読む/9-8

 夏の高校野球──107年ぶりの優勝を果たした慶應義塾高校の校歌(塾歌)が映像で日本中に流れた。実はこの歌はオランダに深い関わりを持つ。富田正文(作家・福沢諭吉研究者)によって昭和15年に作詞される際に、諭吉の塾創設への深い思いが込められた。福沢はオランダ語の習得を通じて西洋の思想に深く拘泥していったのだが、17世紀に世界の覇権国家として一時代を築いたオランダも、200年を経て衰退の道に陥っていた。明治維新(1868年/慶應4年)当時には、世界各地からオランダは後退。その国旗がひるがえる地は長崎・出島ぐらいしかなかった。諭吉は当時戦乱の巷にあった日本の国内情勢と覇権国家・オランダとを重ね合わせて、学問に励むことこそ一国の自主独立を成り立たせると、塾生に強調した。🎶見よ 風に鳴る 我が旗を で始まる歌詞は、慶應義塾の旗を指す一方、オランダへの福沢のあつい思いも込められたのだ。このことは歌詞を追っても殆ど分からないが、私は福沢諭吉研究センターの都倉武之准教授から聞いて知った◆司馬遼太郎はこの紀行を「事始め」と題して、オランダ製の咸臨丸に乗って諭吉や勝海舟らが1860年(万延元年)春に米西海岸に到着したことから書き出している。と共に、「(『自伝』に)オランダ人はどうしても日本人と縁が近いので‥‥。とあるのが印象的」だと、続けている。1600年(慶長5年)は「関ヶ原」の年である。と同時に、徳川の時代の幕開けを待っていたかのように、オランダ人が日本に通商を求めて初めてやってきた。のちに長崎・出島という4000坪足らずの扇状の埋め立て地に橋を架け、外界と遮断しつつ接続をも可能にした。「針で突いたような穴」にかすかに射し込む光が、幕末まで続き、諭吉がその光の恩恵を最も適確に浴びたことを、司馬はいとおしむかのように紹介している◆オランダは、「大航海時代」(15世紀半ばから17世紀途中まで)に、ポルトガル、スペインの二か国が世界の海を席巻した後に、世界史における植民地争奪戦の三番手として姿を見せる。そして、後に控えた英国の本格的登場に替わって、後衛に退く。キリスト教カトリックのポルトガル、スペイン両国は布教の下に鎧が見え隠れしていたことを、時の支配者・秀吉は見抜いた。それに比べて、オランダは新教プロテスタントによる自由な通商国家であった。布教よりも実利中心で交易熱心だったのである。司馬はこの国の実像を、様々の歴史的事例、文化的様相などを通じて、ジグゾーパズルのように描いてみせ、やさしく引き込む◆オランダが出島で細々と、日本とのよすがを繋いでいるほぼ2世紀のあいだ、同国は東インド(現インドネシア)の植民地支配に精を出し、台湾支配をもうかがった。アジア全域でタイを除く各国がヨーロッパ先進諸国の餌食になったことに着眼すれば、1633年からの日本の「鎖国」(オランダと清国だけを例外とした)の持った〝国力温存の効果〟に驚く。このことは「関ヶ原」前夜に至る「秀吉の時代」のキリシタン浸透への「弾圧」からくる「脅威」が大きかったに違いない。カトリックの二国がキリスト教の布教を矢面にかざしたことで、慎重極まる「覇王・家康」は、海外からの侵略の狙いを警戒した。結果として、江戸から明治に至る「日本防衛」を可能にした。おまけに、出島ルートで近代化への準備をも可能にしたことは、まさに僥倖だったといえよう。(2023-9-11 一部再修正)

 

 

 

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【92】凄味漂う朝鮮民族との付き合い方━━司馬遼太郎『韓のくに紀行』を読む/8-31

 司馬遼太郎さんは、韓国に行きたいと思ったのは十代の終わり頃だと『韓(から)のくに紀行』を書き出している。その目的を問われて「韓国への想いのたけというのが深すぎてひとことで言いにくかった」から、「(たがいに一つだと思っていた)大昔の韓国の農村などに行って、もし味わえればとおもって」と答えたと、続けている。この時(1971年)に遡ること30年ほど前に、彼は現実のその地に念願叶って行った。だが、その時の記憶は、徴兵で運ばれた列車のレールの上から垣間見た風景の断片でしかない、とさりげない◆朝鮮半島と日本の関係史にあって、大きないくさは3つ。最初は白村江の海戦である。西暦663年8月のこと。唐と新羅の連合軍と百済と組んだ日本のいくさだったが、「日本の水軍は恐れも知らず全軍突入し簡単にやぶれた」。「わが水軍が、それぞれ先を争って猛進すれば唐の水軍はしりぞくだろう」との見立てだった。「日本人のいくさの仕方は、この時代から本質としては変わっていない」と、司馬さんは厳しい。「おろかなことをした」のちの日本の政治的心情は、「国際環境についての恐怖心」であり、唐と新羅が攻めて来はしないか、と怯えたという。いらい1360年ほど、この心情は今も大筋変わっていないと思われる◆その一方で、日本は朝鮮民族を舐めきってきたと言わざるを得ない経緯がある。それは後の秀吉の朝鮮出兵であり、日清戦争での勝利に起因する。司馬さんは、どういう方法で誰が計算したか知らないが、「朝鮮民族が外敵の侵入を受けた回数は有史以来五百数十回だそうである」と驚き、北から南から常に侵入されながら「ほろびることなく、南北とも堂々たる近代国家として国際社会に存在している。こういう例は世界史でもめずらしい」とまで褒め称えて、「凄味がある」としている。南の韓国はともかく、北朝鮮が堂々たる近代国家と言えるかどうか。大いに疑問だが、専制国家としてのマイナスの存在感は確かに大きい◆七十代後半の今の歳になるまで、私が韓国に行かなかったのは、ひとえに「気が重い」ことに尽きる。日韓、日朝の関係史を思いやるにつけ、「創氏改名」を代表とする、彼らの日本人への「怨恨」にまともに付き合いたくないからだ。司馬さんも「朝鮮人と政治問題を語ることを無数の理由から好まない」と明言している。この人は、あたかも美味しい魚を食べる際に、小骨が喉に刺さらぬように、「政治」を選り分けているかに見える。「文化・芸術」的視点から、この民族の持つ素晴らしさを語ってやまないのだ。ただ、選別され取り出された骨のなかに、「中国」という大骨が混じっていることが気にかかる。ここは骨までしゃぶる覚悟で、小骨は噛み砕くしかないのかもしれない。(2023-8-31)

 

 

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【91】「侵略失敗」から「友好展開」への歴史の変遷━司馬遼太郎『モンゴル紀行」から考える/8-20

    1923年(大正12年)に生まれた作家・司馬遼太郎さんは、21世紀を待たずして1996年に亡くなりました。今年は「生誕100年」というわけです。それを記念して様々の企画が催されているのは周知の通りです。NHK スペシャルで放映された「街道を行く」シリーズを幾つか観てみました。そのうち、「国家と人間」というものを考えさせられる外国編について取り上げてみます。まず、『モンゴル紀行』からです。モンゴルといえば、13世紀における「蒙古襲来」(文永、弘安の役)を思い出さざるを得ず、日本史を振り返る際に「国の防衛」というものを考えさせてくれる存在です◆フビライ・ハーンのモンゴル帝国が日本に攻めてきたという史実を思うにつけ、中国大陸と朝鮮半島を乗り越え、海を挟んで対峙したことの重大さに改めて気づきます。海洋国家の有り難さを痛感せざるを得ません。当時は鎌倉時代北条政権の後期。決して万全の国内政治情勢ではなかった日本だったのに、一致団結して守り切ることに成功しました。その後、600年を経て西欧各国の攻勢を受ける江戸時代末期まで、平穏を保ち得たことは〝海の効用〟という他なく、〝モンゴルの教訓〟とでも言うべきものが歴史に刻印されてきたことを実感します◆『モンゴル紀行』を読み、テレビでの映像を追うと、かの国の兵士たちがユーラシア大陸を駆け巡ったすえに、西はウラル山脈を越え、東は日本海に迫ったことが俄かに信じられない思いになります。境目なき大空と平原、夜明けや夕陽の想像を絶する光の饗宴、あまた降リ注ぐ星の降臨はおよそこの世のものとは思えません。30年余も前に同じ選挙区で戦った文人政治家・後藤茂代議士が、ご自身のモンゴルへの旅でのその辺りの記憶を、巧みな表現で語ってくれたことを昨日のように思い出します◆司馬さんがこの紀行文と共に、『草原の記』でもツェベクマさんという老婦人との交流について種々触れているのが印象的です。馬と共に成長しゆく少年、ひつじに寄生するように生きる大人たち。草原を流れる放牧民族の数奇さを、あたかも国家御用達の語り部のように伝えてくれる彼女。生き生きと語りゆくその姿に司馬さんとの意気投合ぶりが窺えて読む者の心がなごみ、高揚させられます◆現在の日本とモンゴルの関係は、大相撲の力士をめぐる話題に集約されます。NHK解説委員出身で、内閣官房副長官、外務副大臣を務めた浅野勝人元代議士が元横綱白鵬関のこよなき友人で、折に触れて交わしたメールを纏めて本にし、「ほんづくり大賞」特別賞を受賞したことは知る人ぞ知る話です。かくいう私も、一方の雄・鶴竜関の姫路後援会の一員として毎春の大阪場所直前に同じテーブルを囲んだものです。尤も、私の場合はメールを交わすどころか、会話のネタを探すのが精一杯という無様さでしたが。「日本侵略」に失敗したモンゴル民族の末裔たちが今、「日蒙友好」にそれぞれの汗を流していることは「平和」そのもので、微笑ましいことといえましょう。(2023-8-20)

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【90】大衆のための視点が忘れられていないか━中北浩爾『自公政権とは何か』を読む/8-14

 自公政権が誕生して20年余り、かつては次々と組み合わせが変わっていった連立政権だが、今では当たり前のようになっている。それはこの本のサブタイトルにあるように、自公両党の「『連立』にみる強さの正体」を見抜くことがポイントなのだろう。様々な政治学者や評論家がアタックしているテーマであるものの、中北氏のこの本が4年前に出版されて以来、最も核心をついた書籍として定評がある。今取り沙汰されることの多い「揺れる自公関係」を考える上で、大いに参考になる◆著者は、「あとがき」で書いているように、「政治学の連立理論に位置付けることに努め」、「比較可能なものとして捉え」たという。サブタイトルに「正体」なる言葉を使ったのは、「暴露する」のではなく、「色眼鏡で見ない」という意味をも込めている、と。確かに、これまでは、公明党の最大の支持母体である創価学会を「色眼鏡で見」た「暴露本」的傾向を帯びたものが多かった。それに対して、この本は、前世紀末からの連立政権の歴史を丹念に追いながら、最も長期に渡って安定を見せてきている自公政権の奥深くに取材先を求めて、その実態を描き出している◆その意味で、現実に展開する政治に関心を持つ人々にとって興味深いものには違いない。ただ、私のように公明党誕生直後からこの党をウオッチャーとし、またプレイヤーとして見聞きしてきた人間からすると、やはり物足りなさは残る。それは、この本が結局は「連立という視角からみた自民党研究」であることに起因する。要するに公明党研究ではないのだ。自民党との連立政権のパートナーとして定着した公明党として、最も忘れて欲しくないのは、大衆のためになる政治の実現である。政権の「安定」を第一に考えると、「改革」がおざなりになってしまう。庶民を苛めたかつての自民党政治は変わったのか?知らず知らずのうちに、権力の側の片棒を担いでいないかどうかをチェックする必要がある◆中北氏は、この本の結論で、「固定票の分厚さと選挙協力の深さの両面で、自公ブロックの優位が顕著」であり、野党ブロックが政権交代を目指すには、「選挙制度改革を含む政治改革を行う方が近道かもしれない」と述べている。この4年、その兆しはない。立憲民主党の共産党との共闘問題に終始し、行き詰まりを見せているだけで政治改革の動きは弱い。むしろ、国民民主党の「自民党か維新か」の選択や、維新の自民党との距離が取り沙汰されていることに見るように、現実政治は〝与党の肥大化〟の方向に流れがちだ。それでいいのかどうか。大いなる論争が待たれよう。(2023-8-14)

 

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【89】特筆すべき民衆からの反撃━━ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』の解説(堤未果)を読む(下)/8-2

 

 最終章で、あの「3-11 東日本大震災」ショックに際して、宮城県の村井嘉浩知事が「民間活力」こそが「創造的復興」の実現にとって最も大事だと主張したことを否定的に取り上げています。また、仙台空港が国の管理空港の民営化第一号となったのに続き、関西国際空港、大阪国際空港(伊丹空港)が民営化を実現したり、宮城県の上下水道と工業用水の運営権の民間売却や大阪府の医療特区化したことを取り上げ、「この二府県は、いわば、日本におけるショック・ドクトリンのトップランナーと」位置付けています。さらに、急速なデジタル化の先に管理社会の危険性が見えてくること、また自民党が目指す「憲法改正」のプロセスに、「緊急事態の宣言」項目の対象として、「自然災害」や「感染症」が加わる公算が高い危うさを指摘しています。いずれも本格的なショック・ドクトリンが仕掛けられてくる環境が刻々と整備されようとしていると、警鐘を鳴らしているのです◆このように、日本におけるショック・ドクトリンが跋扈している実態に触れて、冒頭での「今こそ日本人が知るべき、『衝撃と恐怖』のメカニズム」との触れ込みに応えた形になっているのです。「惨事」を狙う主体としての、新自由主義経済学者ミルトン・フリードマン率いるシカゴ学派の悪どい手口を次々と暴いてみせているといえましょう。ところが、最後のところで、「一番悪い敵は、誰なのか?」という思考に陥らないように、と忠告し、21世紀のショック・ドクトリンの「最大の特徴は、敵の顔が見えないこと」だと強調しているのです。20世紀後半の時点で、姿を現した時の主犯格は紛れもなくシカゴ学派だったのですが、21世紀になって、そのドクトリン展開の主役は、変化の様相を示しているというのでしょう。それを著者は、「相手は人間でなく、果てなき欲望を現実化するための『方法論』」だといいます。恐らく悪いのは誰彼というのでなく、「惨事便乗型資本主義」だというのでしょう◆ところで、私は、この本を読み、自然界における「大災害」と、人間世界における「ショック」がないまぜになって襲ってきている時代が今だ、というように理解しました。つまり、庶民大衆が犠牲になるドクトリンが仕掛けられている悲劇の時代の到来だ、と。しかし、著者も解説者も、「民衆のショック・ドクトリン」という表現で、最終章において、各国地域で民衆の側が自立して主権を取り戻す実例を挙げているのです。これでは読み手はいささか混乱してしまいます。災害や惨事に便乗する国家悪、企業悪を指して「ショック・ドクトリン」だと思わせられたのに、民衆の側にも火事場泥棒的手合いがいるのか、との誤解を招くのではないでしょうか◆ここでは、「ショック・ドクトリン」なる言葉を使いたいのなら、せめて「アンチ(反)」の文字を付けて欲しいと思います。確かに、アルゼンチン、ブラジル、ベネズエラ、エクアドル、レバノン、南アフリカ、スペイン、中国、ロシア、ボリビア、ポーランドなどで、また、日本でも、ショック・ドクトリンの「恐怖戦術」から抜け出して、新たな道を歩き始めているような、〝特筆すべき反撃〟とでも言うべき動きが見えます。これは民衆の側からの対抗措置であり、ショック・ドクトリンに打ち勝つのは、「人間の知性」だといいます。さて、この戦い、断じて負けるわけにいきません。与党になって20年を超えた公明党の真価が問われます。(一部修正 2023-8-3)

 

 

 

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【88】騙された後の種明かしに呆然━━ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』の解説(堤未果)を読む(上)/7-27

 戦争や自然災害などの危機に乗じて、多国籍企業などが富を奪うに至るメカニズムを『ショック・ドクトリン』と名づけ、同名の著作を著したナオミ・クライン。この本が世に出て既に16年が経つのだが、日本ではあまりこれまで知られずにきている。ここにきて、ようやく人の口の端にのぼり始めた。それは、国際ジャーナリストの堤未果氏によるNHK 「100分de名著」の同名の解説本とテレビでの紹介の力によるところが大きい。原書は勿論、日本語訳書も読まずして、解説書を取り上げる安易さには後ろめたさを伴うが、いっときも早くこの本の魅力を伝えたい◆彼女が示すそのメカニズムとは、①クーデター(あるいは大自然災害)によるショックが発生する②それに乗じて、IMF(国際通貨基金)を使って、新自由主義経済の手法としての民営化を導入する③外国資本が参入し、利益を掻っ攫う━━といったもの。1970年代半ばのチリの独裁政権誕生から、1980年初めのイギリスのフォークランド紛争騒ぎを経て、1990年代後半のアジア通貨危機などが典型例として挙げられる。これらの背後には、米国シカゴ大学のミルトン・フリードマン教授を中心とするシカゴ学派およびその弟子たち(シカゴボーイズ)の連携プレイがあった。このドクトリンは、後進国から先進国まで、資本主義国家は当然のこと、中国、ロシアなど社会主義国家をも巻き込んで、世界中を席巻した。更に21世紀に入ってすぐのイラク戦争では、まさにやりたい放題となった事実が暴かれていく◆これまで地球環境の悪化と共に起こる、自然災害の多発という事態に「大災害の時代」との呼称が使われてきた。そこには、天災に起因するものだけしか視野に入っていない。だが、改めてクライン氏によって、この半世紀ほどの〝人災に基づく時代の特徴〟を整理されてみると、「ショック・ドクトリンの時代」と呼ぶべきものが浮かび上がってくる。今に生きる我々現代人の足元に巣くった元凶は、憎むべき対象ではあるが、あまりに見事な騙しのテクニックと、スピード感溢れることの運び方に、種明かしをされてもただ呆然とするばかりだ。しばらく経って、国家とイデオロギーにばかりに眼を奪われ、国家をまたぐ多国籍企業とカネの動きに頭が回らなかった我が身の拙さが哀しくなる◆とりわけ、イラク戦争をめぐっての日本の対応は惨めだったという他ない。小泉純一郎首相のもとでの自公政権は、米英の軍事介入に同調し、「後方支援だから」と自らを慰めた。岡崎久彦、山﨑正和氏ら名だたる学者たちが、あの当時、やがてイラクには、民主主義の根が定着し、見事に立ち直るはずだと楽観的な未来予測をしたことを思い出す。米英両国首脳は、「大量破壊兵器の存在」に事よせて自らの暴虐を正当化したのだが、後にその事実が虚構だったことが明らかになった。彼らは自らの誤りをそれなりに認めた。しかし、日本では総括すら未だなされていないのである。(以下続く 2023-7-27)

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【87】健常者よ障がい者の修行に学べ━山本章『出でよ!精神科病棟─大勢で大勢の自立を支援する━』を読む/7-13

 元厚生労働省の役人だったこの人の本を紹介するのは3回目。1作目は「薬全般」が対象だった。2作目の「麻薬」に続き、今度は「精神科」がテーマである。薬剤師というキャリアを十二分に活かすだけでなく、今回は身内に患者を持つ当事者という立場に加えて、同じ障害(以下、著者に見倣う)を持つ人たちの自立を支援する社会福祉法人の理事長として、極めて重要な提言をしている。精神を病む人を身近に持つ人びとだけでなく、今に生きる現代人必読の書と言っても言い過ぎではない。人は生きてる限り、いついかなる時でも障害を持つ(高齢者も同様)身になることは避けられないからだ◆精神に障害が生じてしまった人のことをどう呼ぶか。その昔の差別用語を持ち出さずとも、「精神病院」という呼び方も一般的に憚られるほど、偏見に満ちてきているのがこの病いであろう。最近は「統合失調症」という呼び名で統一されているが、これとて定着化しているかどうか疑わしい。かくいう私自身が「躁うつ病」と、とり間違えていた時期がある。国会議員時代には、イタリアを始めとする欧州各国のように、精神障害者を病院に閉じ込めない風潮に学ぼうという意識に立っていたのだが、所詮は口先だけだったかもと、深く反省する◆この本のタイトルに「出でよ!」とあることは重要なポイントである。これまで精神科の患者は病院から「出すな!」が常套句。街中にそうした患者が出ることを嫌がるのが世の常だった。その原因はひとえに、たまさかに起きる犯罪の容疑者にその病を持っているケースが少なくないからだと思われてきた。しかし、それが主因で、大部分の自立出来る患者を、病棟に閉じ込めてしまうことは、まるで〝座敷牢〟の大量生産のようだ。偶々この本を読みだしたところに、旧知の八尋光秀弁護士(C型肝炎訴訟弁護団の中心者)による「精神科の強制入院の課題」上(毎日新聞7-5付け)に出くわした。「とにかく入れておけ ゆがんだ法律」との見出し。「医療保護」という名のもとに、人の成長過程に国家が介入する非を厳しく断罪していた◆山本さんの本は、単に主たるテーマについての蘊蓄が傾けられているだけではない。世事万般に亘る面白くて造詣の深い話が読み取れることは、すでに前2作を手にされた方ならわかるはず。今回は第9部「生きがいを求めて」に集中する。例えば、第27章「不幸・不運・絶望、されど健気に」の中の次の一節は深く考えさせられた。「障害者・健常者のいずれについても、自立が出来ているかを人の評価指標としたらどうだろうと提案したい」とのくだりだ。「自立こそが障害の有無にかかわらず、人生修行の一大目標とするべきであり、支援付きでいいから自立を目指して健気に生きていく姿が人の心を打つことに着目して、『支援付き自立の健気度』をもって幸せの評価基準とする提案」を掲げている。見渡せば、見せかけだけの「自立」、通り一片の「幸せ」にやせ我慢する日常が多い。他人との比較でなく、自己自身の今日よりは明日への前進こそが尊い。文中、「修行」をめぐる僧侶と筆者の問答めいたやりとりの片鱗が窺え、興味深かった。「障害者の修行の方が余程リアル」との表現に大いに「挑発」された。次の機会には、この人の人生をめぐるエッセイ集を読んでみたい。(2023-7-13)

 

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