【124】「ガザの地獄絵図」という現実━━柳澤協二、伊勢﨑賢治、加藤朗、林吉永『戦争はどうすれば終わるか?』を読む③/4-15

 さて、もう一つの戦争──ガザにおけるイスラエルとハマスの戦いについては、昨秋10月7日のハマス側からの急襲によって火蓋が切られた。4人の緊急寄稿がこの本の第3章に並ぶ。まず、それぞれの主張を要約する。まず柳澤氏から。国連総会(10-27)でヨルダンが提案した休戦決議に121カ国が賛成。反対したのは米国など14ヵ国のみ。G7各国は日英など6カ国が棄権(仏は賛成)し、戦争を止めるのに反対はしていない。BRICS首脳会議(11-22)では、双方を非難しつつ、「停戦と市民保護のための国連部隊の派遣を本気で考えなければならない」と提案めいた指摘をしている。加藤氏は、イスラエルの苛烈極める報復について「言語空間では、親パレスチナ、反イスラエルの言説が膨れ上がって」おり、「中東を超えて反イスラエル感情は世界中を覆っている」と率直に語っている◆林氏は、「ハマスの攻撃がイスラエル側の『怨念・憎悪」に火をつけ『ハマスに対する殲滅戦争』を決断させている」とし、これを止める手立ての困難さを訴えた上で、「先の大戦後、70余年も『非戦・避戦』を貫いた日本」こそ、その「時代精神を造る国際社会の旗手」たれと、重要な呼びかけをしている。さらに伊勢﨑氏は、イスラエルが「『事前予告』を盾に攻撃を正当化している」ことについて、「国際人道法が戒めるのは、事前予告の有無ではなく、あくまで攻撃の【結果】である」として、「ガザの人口の約半分の110万人の強制移動そのものが国際人道法違反、つまり戦争犯罪」だと、厳しく断罪。結論として「イスラエル軍のガザ侵攻の結果がこれからどうなろうと、ハマスは、すでに勝利しているのかもしれない」とズバリ。このように、戦争が勃発した直後のことではあるが、4人とも一致してイスラエルへの非難を強調している◆その後の状況の変化を踏まえても、両者を取り巻く基本的な構図は変わっていない。つまり、「言説空間」における「地獄絵図」のガザを救えとの支援を求める声は強いが、「現実空間」でのイスラエルの強引な力づくでの殲滅作戦は進行している。その背後には米国の不決断という曖昧な側面のあることが見逃せない。イスラエルを口で非難しても、力の行使を翻意させるだけの実効力を伴わないようでは、「平和」は絵に描いた餅に終わるのは当然である。この問題をめぐる日本の受け止め方は、この4人と相通ずるものが多い様に見受けられるものの、イスラエルの側に立つ向きも少なくない。外交に通暁した著名なある作家は数ヶ月前のことだが、先に仕掛けたハマスの責任を非難していた。こうした角度については、伊勢﨑さんが「イスラム学、安全保障論の研究者の一部に、〝ハマス殲滅〟を掲げるイスラエルのガザ攻撃を支持する声が聞こえる」として、「『人間の安全保障を犠牲に国家の安全保障を優先させる御用学』に成り下がっている」と手厳しい評価を下しているのが印象深い◆イスラエルとパレスチナは、共に世界史の上で、領土をめぐって特異な位置を占めてきている。〝ナチスのユダヤ人虐殺〟に見るように、イスラエルは想像を絶する〝地獄の苦難〟の挙句、シオニズム運動の果てとして新天地を得た。一方、パレスチナには〝英国の三枚舌〟に騙され、本来の自分達の住処をのちに来た他民族の故に、追い出されてきた〝辛苦の経緯〟がある。しかし、この地での争いに、ユダヤ人もいけないがパレスチナ人も、といった、〝どっちもどっちの喧嘩両成敗的見方〟は否定されるべきだろう。早尾貴紀東経大教授の「ガザ攻撃はシオニズムに一貫した民族浄化政策である」(『世界』5月号)との論考における、欧米の人種主義と植民地主義の歴史全体の中に根本的原因があり、日本も無罪たり得ないとの言及には目が醒める思いがする。多くの日本人の平凡な世界観を打ち壊すに十分過ぎるといえよう。ここは、国連を中心に、今に生きる人類の知恵の証しを打ち立てる以外にないと思う。そこには過去の歴史から見て、欧米よりは未だずっとフリーハンドの身にある日本に出来ることがあるはずだと確信する。(2024-4-15一部修正)

 

 

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【123】現実空間と言説空間の大いなる落差━━柳澤協二、伊勢﨑賢治、加藤朗、林吉永『戦争はどうすれば終わるか?』を読む②/4-7

 現実空間と言説空間の相互作用──社会における現実の動きに対して、それを解釈する言葉が影響を及ぼし合うことを意味する。ごく卑近な例でいうと、現実が人の噂で左右されて、噂が噂を呼んでやがて現実にまで変化をもたらし、それがまた現実を変えてしまうことだといえようか。この本では、加藤朗氏がウクライナ戦争をめぐってのこの両空間にまつわる問題提起をし、それを受けて4人が戦争解決へのカギを握るものとして議論していく。世界の関係各国を始め、日本でもほとんどの人が現実には行ったことも見たこともないウクライナの現場を、当事国の政治家の発信やら国際政治学者、軍事専門家らの解説、評論をメディアを通じて聞いて、あれこれ論じている。それが開戦以来の現実の事態を変え、停戦を難しくしているというのだ◆加藤氏の「戦争は情報の相互作用である」との発言は実に刺激的なもので、この本の白眉だと思われる。この人は開戦直後の2022年4月1日に「矢も盾もたまらずに、という感じで」ウクライナに向かった。国際政治学者として戦争の現場で「戦時」のありのままを見て、なぜこんなことが起きるのかを考えたかったのだと思われる。しかし、「実際に戦時下にあるウクライナに行ってみても情報がないので戦争がどうなっているかは分かりません」。その上で学者として、考え抜いた所産が、「言説空間の二分化」であり、それが現実の戦争に影響を与えているというものだ。当初は停戦交渉への機運があったのに、「ブチャの虐殺」の情報が拡散して一気に変わった。その後の両国間の応酬や取り巻く国々の動きから、今では、この戦争は「欧米などの民主主義国家集団と露中など専制主義国家集団の対決という言説」を生み出した、というのだ◆これを受けて、柳澤氏は、「今までの地政学的な対立──東西の対立とか、あるいは大陸国家と海洋国家の対立とか、さらには専制主義と自由主義の対立とか」といった観点からの解釈にはまり込むことを否定する。むしろ、国際秩序が大きく変わる節目にあるとの位置づけに留め置いて、そこから先の方向を予め決めてはいけないというのである。さらに具体的に、政府が2022年12月に閣議決定した「『国家安全保障戦略』にあるように、ウクライナ戦争を専制主義に対する戦いであると定義してしまってはいけない」と、手厳しい判断を下している。加えて「そんなことをしたら、この先、戦争の世紀が待っているという結末にしかならない」と。積極的に停戦交渉を進めようとするなら、戦争当事国の枠組みを勝手に決めるなどと言った余計な判断は棚上げにすべきだというわけである◆このテーマでの伊勢﨑氏の発言はまた興味深い。プーチンは開戦前の2021年秋にウクライナの「非ナチ化」──つまり東部ウクライナのロシア系住民が受けている圧政から解放する──を言い出しており、これが日本を含む西側社会の言説空間を支配した、という。これをロシアがするということは、体制転換、レジームチェンジすることであり、広範囲な軍事占領を長期にわたってするしかないことを意味する。果たしてそんなことがロシア一国でできるのか?問題を提起した同氏は、ロシア人専門家の言を引いて、プーチンの真意は、ウクライナの「内陸化」だろうというのだ。黒海に面した地域部分を制圧して、ウクライナが外洋に出られないようにする狙いが本当のところではないのか、と。こうした議論を聞くに付け、戦争の成り行きが極めて困難を極めていることが分かろうというものだ◆この討論を読んでいて、元航空自衛隊の最高幹部であり、戦史研究家の林氏が、日本人はウクライナの戦争を茶の間で食事しながらテレビで見ているが、その戦争観のベースはどこにあるのか気になると、根本的な疑問を投げかけている。第二次世界大戦後78年が経って、いわゆる先進国家群の中で、唯一戦争の当事国になったことがない日本。大震災が起こるたびに、自衛隊の活躍を有り難く思っていても、戦争は海の遥か向こうの遠い国で起こるものと思い込んでいる人々が殆どであろう。かく言う私も、戦争を語り、平和を論じる言説空間ではそれなりの役割を果たしていると自負してはいるものの、現実空間については、殆ど無知であると告白せざるを得ない。そんな身でありながら、ウクライナ戦争を語る時に、単純な二分化の解釈に加担してきた。これについての弁明は稿を改めたい。(2024-4-7  つづく)

 

 

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【122】ウクライナ戦争の終わらせ方━━自衛隊を活かす会編『戦争はどうすれば終わるか?』を読む①/3-31)

 この本は、私の古くからの友人である柳澤協二氏(元内閣官房副長官補)が代表を務める「自衛隊を活かす会」が編纂したものだ。柳澤氏や伊勢﨑賢治(東京外大名誉教授)、加藤朗(国際政治学者)、林吉永(元防衛研究所戦史部長)らの4氏が昨年9月25日に集まって行った議論がベースになっている。構成は、第1章で、「ウクライナ戦争の終わらせ方を考える」のタイトルのもと、全員の発言が披歴され、第2章で討論が収録されている。さらに、直後に起こったガザの戦争(イスラエルとハマスの戦い)をめぐって、第3章「人道危機を考える」で、4氏の発言が再録され、最後に第4章「戦争を終わらせた後の世界に向けて」の表題のもと、4人の寄稿文が掲載されている。いずれも極めて興味深く、読み応え十分な中身である。ここでは、2つの戦争ごとに、4氏の発言のうち私が注目したものをまとめた後、「戦争」の総括を試みたい◆まず、ウクライナ戦争の終わらせ方についてから始める。柳澤氏は、戦争の大義を両国それぞれに見たうえで、一般的な戦争の終わり方を考えては見るものの「現在進行中のこの戦争が終わる論理が見えてこない」と嘆いている。その中で停戦をどう実現するかについては①2022年3月のウクライナ提案(●NATOに加入しない●クリミア問題は15年棚上げ●東部2州の扱いは首脳同士の協議に委ねる)は合理的なラインである②国連は安保理ではなく、もっと大きな国際世論の多数に力を与える方向での改革が望ましい③サウジアラビアやアフリカ連合などグローバルサウスの動きが注目される──などと述べる一方、停戦については、当事者双方だけでなく国際社会も不満を抱えることになるし、終戦を語るには、我々がどういう戦後の状況を望むのかを考える必要がある、と強調している。ただし、戦争はこうすれば止まるというアイデアは出せない、と締めくくりの発言はいつものこの人らしくなく弱気に見える◆この柳澤発言に対して、伊勢﨑賢治氏は──この人も私の古い友人だが──開戦後2ヶ月経った2022年4月に、石破茂、中谷 元の防衛大臣経験者との3人で、「提言案」を作ったことを紹介している。その中身は、「①国連緊急総会による停戦の勧告②国連の仲介による停戦合意の実現、そして③国連による停戦監視団の派遣を、日本政府として正式に働きかけること」であった。さらに、これとは別に同氏独自のものとして①現在の戦闘地域に「緩衝地帯」を設け、軍事行動を禁止する②緩衝地帯に、国連が主導する中立・非武装の国際監視団が入り、停戦状態を維持する③緩衝地帯にはウクライナ東部のドネツク州バフムト、あるいはすでに国際原子力機関が常駐するザポリージャ原発を提案。緩衝地帯は複数つくり、停戦状態を広げていく──といった具体的な「停戦案」を提示している。国連PKO の幹部として世界各地の紛争現場で武装解除の指揮に当たった人とらしい巧みな視点だと思われる◆これを受けた討論の冒頭で、柳澤氏は「伊勢崎さんのお話を聞いていると、難しいけれど、あるいは難しいからこそ、とにかく誰かが動いて話をしなければいけないというのは、まったくそうだと思います。だから、即時に停戦ができるという幻想を持てるわけではないけれど、そして、私にはまったく力がないけれど、やはり停戦に向けて、誰であっても、当事者間の対話を求め続けることが最低限必要なのですね」と同意の声をあげている。元防衛官僚ではあるものの反政府の立場に変化した柳澤氏の微妙な立ち位置が伺えて興味深い。加えて、加藤朗氏が「現実空間と言説空間の情報の相互作用」という注目すべき発言をされた。戦争そのもののリアルな展開と、当事国や周辺国のリーダーの言説とが、相互に重大な影響を及ぼしあうというのだ。これについて柳澤氏は「新たな秩序観」の共有と言った問題を提起して、話題は進展していくのだが、そこいらは次回に回したい。(2024-3-31 つづく)

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【121】虚空への旅立ちと生命の躍動━━帯津良一/五木寛之『生きる勇気 死ぬ元気』を読む/3-25

 昨年暮れに金沢に旅した際に、同地の文芸館に足を運んだところ、作家・五木寛之さんのコーナーがあったことは既に書いた。その際、医師・帯津良一さんとの対談本が並べてあったことにも触れた。このおふたり相当に息が合うと見える。そして当方もつい読んでしまう。元を正すと7-8年前に前議員の会合が国会であった時に、帯津さんの講演を聞いたのがきっかけだった。軽妙洒脱なお話ぶりにすっかりハマってしまったことを覚えている。奥様を亡くされていらい、経営される病院で、夕方になると、看護師さん、女医さん、薬剤師さんたちと一献傾けるのが楽しみだと言われたのが妙に耳に残っている。また、死ぬときを最も最高の生命状態に持って行き、ロケットが宇宙に飛び出す時のようなエネルギーで、と言われたことも覚えている◆元気がなくなって来るから死ぬのに、最高の生命状態にどうしてもっていけるのか?当然の疑問が誰しもわいてくる。そのあたりこの本で確かめてみた。「命というのは、エネルギーですから、いたわって病を未然に防ぐのではなくて、もっと積極的にエネルギーを日々、どんどん勝ちとっていく」「死ぬ日を最高に持っていって、そしてそのいきおいで、最後のクライマックスで、いっきに死後の世界に突入するというふうに」とおっしゃる。こんなことは中々難しい。最後のクライマックスは「一週間か、二週間でいっきに加速する」とのことだが、同時に「あんまり年をとって死んだんじゃあできないから、もう少し手前の方で死んだほうがいいんじゃあないかといってるんです」とか。何となくわかったような、わからないような。これを他人に話すと、100%理解して貰えそうにない◆死ぬ時がいつかわからないから苦労する。つい早まってエネルギーを高めてしまい、空振りに終わることがあるかもしれない。このあたりについて、自分の「死にどき」をいつだと思うかと、五木さんに問われて、帯津さんは「ひとりで下駄履きで居酒屋に行けなくなったら、もう死んでいいかなと‥‥(笑)」──笑い話風にごまかしている。それにもめげずに「実際の話、死にごろというのはわかるものなんですか」と、五木さんに、二の矢を放たれて「それはわかりますね」と、帯津さんは続けているのだが、それは医師として、「患者の死にごろ」がわかるとの話にすり替わっている。五木さんも、それ以上しつこくこだわらずに、「お迎えがくる」との表現に絡めて、超常現象を目撃したことがあるかとの問いに替えてしまっているのは、読者として少々物足りなくもない。で、文末の「二人の結論」というミニコーナー欄には「日ごろから、そろそろという、自分の死にどきの判断基準をもっておこう」とある。それがもてれば苦労しないと決めつけずに、挑戦するしかないのだろう◆帯津さんは、我々のその挑戦へのヒントを「あとがきにかえて」で触れてくれている。「人間の命は宇宙の大きな流れのなかで循環している、死後、人間の魂は、肉体を離れて、魂のふるさとである『虚空』へ還る旅に出る」というのだ。サマセット・モームが短編集『コスモポリタンズ』で描いた「旅情」にこと寄せて「人間は虚空からの旅人。しかも、一人でこの地球の上に降り立ち、一人でまた去って行く、孤独なる旅人である」とあたかも詩を吟じるかのように断じている。さらにまた、哲学者ベルグソンの「生命の躍動」を持ち出して、それは、内なる生命に生まれる直感と、虚空に生まれる予感が一体化することを指すのだ、と。「私たちは死してのち、虚空の懐に帰り、虚空と一体となるのだから、これのリハーサルが生命の躍動ということになる」とも。つまり、死ぬことは虚空への旅立ちであり、生きている間に生命の躍動という準備を重ね、最高のリズムを覚えた上で、ジャンプする瞬間が大事だ、と仰っているのだ。このイメージはそれなりに分かる。あとは日ごろからのトレーニングなのだろう。(2024-3-25)

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【120】技術革新の進む時代だからこそ━━島内景二『源氏物語に学ぶ十三の知恵』を読む(下)/3-18

 次に、著者の島内さんは「自分が自分であるために」(第9回)のなかで、源氏物語が「自分さがしの物語」であることを再確認する。そして、3回続けて「宝物はどこにあるのか」(第10回)、「宝物に学ぶ人生」(11回)、「宝物を問い直す」(第12回)と、源氏物語が「宝物さがしの物語」でもあることを強調。最後に、「源氏物語と共に未来へ」(第13回)で、この物語が日本文化の至宝であることを力説する。その上で、それが受けいれられていない日本の現状をどう打開するかに論及している。ここで著者は、源氏物語が人生を生きる上で、いかに貴重な教訓を提示しているかについて、繰り返す。例えば、「2つで1セットの宝物は1つも失うな」とか、「宝物は正しく扱わないと失われる」やら「大きな宝物は小さな宝物を引き寄せる」など、キーワードとしての「宝物」に注目しているのである。結論的に、幸福は良好な人間関係の継続にあり、それをもたらすことが出来るものこそ「宝物」だとしているのだ◆源氏物語は54帖にも及ぶ大河小説だが、中心人物は光源氏であり、藤壺である。この物語は光源氏が出家し表舞台から消えるまでを正編に、その後の子や孫のことを描く42帖から最後までを続編とする。(他に、正編を光源氏が40歳になった「若菜」巻で区切って1部と2部に分け、続編と合わせ3部構成とする捉え方もある)。正編の1部では通常の人間では手にできない栄華を極めた時期を経て、2部でやがて零落していく光源氏の物語を追い、紫式部は読者にさまざまな人生の教訓を提示していく。江戸時代中期まではその教訓を金科玉条のように大事にし、多くの人びとは生きる上での糧にしてきた。だがそれを覆し、日本古来からの生き方(もののあはれ=大和魂の強調)に立ち戻れと言ったのが本居宣長であり、それをも伝統的な「教訓読み」は包含したと見る立場に島内さんは依拠する。光源氏が退場したあと、続編の「宇治十帖」では柏木から薫、浮舟といった後継の登場の場面へと移り、その顛末は未消化のまま幕を閉じる。この結末については、中途半端だと見る向きもあるが、自分さがし、宝物さがしは読者にゆだねるべく、紫式部はわざと突き放しているとの見方がなされる◆最終の第13回で、島内さんは大学時代に源氏物語研究の権威である秋山虔氏から「源氏物語を原文で読みたければ北村季吟の『湖月抄』を買いなさい。できれば本居宣長の説を追加した『増註・湖月抄』があればベストですね」と言われたエピソードを紹介。その通りに実行して原文を読んだ結果、「私の人生は大きく変わった。源氏物語を読むことで生まれ変わった」という。そして「ここには人生と文化、文明を導く知恵がぎっしりと詰まっていて、何でも創造できる。源氏物語こそ、最大の力である。まさに日本文化の至宝である」とまで絶賛する。さらにその宝物を、AIが発達した、「技術革新が起きている今こそ原文で理解できる好機である」とする一方、「千年間の豊饒な読みを未来に伝える『提供の方法』を、これからも模索したい」と決意を披瀝する◆私自身は、源氏物語の原文に幾たびか挑戦しようとはしたものの、途中で投げ出してしまい、何人かの現代語訳を齧っただけ。「教訓読み」にはもとより食指が動かない。むしろ本居宣長の「もののあはれ」論に興味を持つ。しかし、明治維新から今日までの、二度の「77年の興亡」における、キリスト教・西洋思想との相剋のなかで、「大和魂=大和心」は誤解、曲解されてきた。明治維新における「リセット」の役割はひとまず成功したが、先の大戦にいたるまでの流れでは見事に失敗。そして戦後も未だ正しい位置を得ていないように思われる。それゆえ、「第三の77年の興亡」の始まりにあたって、もう一度、〝源氏物語の復興〟を考えるのは面白いと思われる。かつて藤原俊成が「源氏見ざる歌詠みは、遺恨のことなり」と言ったが、現代日本では、「源氏読まざる小説家は遺恨のことなり」の段階にとどまっており、幅広い大衆のものとなるにはまだほど遠い。島内さんが問いかけた、今の日本にとって必要なものは、「和の思想なのか、リセットの思想なのか、それとも第三の思想なのか」については、私は第三の思想であると確信している。その中身については、また別の機会に述べたい。(2024-3-18)

 

 

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【119】「もののあはれ」と大和心の思想性━━島内景ニ『源氏物語に学ぶ十三の知恵』を読む(中)/3-12

 それにしても島内さんの源氏物語への入れ込み様は凄まじい。「人生の知恵」と「今を生きる知恵」がたっぷり詰まっているうえ、光源氏は「人類の象徴であり、人間の生き方の象徴」だとまでいう。前回は、基本的な読み方を誤ると、紫式部が意図したことと正反対の方向に堕しかねないとされていることに触れた。その視点から歴代の注釈書に迫ることで、源氏物語がいかに「教訓」を示しているものかをみたのである。今回は、⑤から⑧までの4つの章を取り上げるが、それぞれの標題とポイントを挙げてみよう。⑤は「和」の精神で楽しく生きることが、標題で、そのポイントは、象徴天皇制にみる「和」のシステムだという。以下、⑥正しい生き方とは、平和につながる生き方のこと⑦心をえぐる笑いとは、気持ちよく笑うこと⑧リセットの荒技あってこそとは、新しい文化を生み出すDNAを意味する──ということになろうか。その中で、一条兼良の『花鳥余情』、宗祇による「古今伝授」、北村季吟の『増註・湖月抄』などの注釈書や教えに触れている。そして、その挙句にリセッター(壊し屋)としての本居宣長が登場するのだ◆宣長は1730年から1801年まで生きた人である。まさに江戸時代中期。源氏物語が誕生した頃から続いた激動の時代とは対照的な「平和」を謳歌した時代だった。宣長は、平和に安住する同時代人の安逸を覆そうと、その著作『玉の小櫛』で、源氏物語の読み方を根底から見直した。700年ほど続いた「教訓読み」の時代は、⑤⑥⑦で示されたように、「和」「平和」「笑い」を中心に据えた「和学」の時代であり、その本質は、神道と仏教の神仏習合に、儒教や道教が加わって出来た「異文化和合」であるとされた。宣長はその捉え方は誤りだとして、異文化を排除した純粋な「国学」への回帰を主張したのである。◆その考え方の中核は「もののあはれ」であった。島内さんはこれこそ「大和魂=大和心」と同義であるとし、その精神を代表する和歌こそ「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」に尽きる、という。「山桜花のように美しいものを守るためには、自分の命さえ捨てても後悔はしない、そういう激しく純粋な心を意味する」のだ、と。源氏物語にその核心が込められているとみる、宣長の「もののあはれ」論は、従来からの「和学」と対立するものではあったが、最終的に『増註・湖月抄』のなかに取り込まれていく。これがまた、徳川300年の眠りを覚まし、結果として「『倒幕』と『攘夷』の大変動──瓦解──を呼び込んだ」明治維新に繋がっていく◆こうした日本における思想対立の淵源が源氏物語にあるとの見方は、一般的にはあまり定着していない。思想の書というよりもあくまで小説だとの位置付けが強いからだろう。しかし、明治維新をもたらした起爆剤が宣長の思想にあり、やがてそれが西洋の思想と対立する日本の思想の根幹を形成していったことを認める向きは圧倒的に多い。このズレ、落差をどう埋めるか。著者は、第8章の最後で、今の日本に必要なものは、「『和』の思想なのか、『リセット』の思想なのか、それとも第三の思想なのか」と問いかけ、その答えを導くカギが源氏物語にあると断定している。「21世紀の日本文化の再生と創造に、最も必要な『教訓』を、源氏物語から呼び出そうではないか」と呼びかける一方、「現代の教訓読み」の重要性を強調しているのだ。(2024-3-12  以下、下に続く)

 

 

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【118】宝の山を探り当てるか、背徳の書に溺れるか━━島内景ニ『源氏物語に学ぶ十三の知恵』を読む(上)/3-5

 今年のNHK 大河ドラマ『光る君へ』は、ご存じ『源氏物語』の作者・紫式部の生涯を取り上げている。今のところ毎週見て楽しんでいる。昨年の「家康」、その前の「頼朝」のように、戦闘に明け暮れた「武士の世界」ではなく、女性しかも文人の目から見た「貴族の社会」を描いて興味深い。権謀術数の数々に辟易しつつも、次第に引き込まれている。そんな折に、手元にあったNHKの『こころをよむシリーズ』のテキスト(2017-1〜3)を引っ張り出して読んだ。著者の島内景二って人は国文学者にして電気通信大教授。テレビで見ることの多い、徒然草や方丈記の研究で知られる島内裕子さんは女房殿。いかにも親しげに云ったが面識はない。放送大学の講義でお顔を見ただけだが、千年ほど前の女御を彷彿とさせられ、ほっこりする。このおふたり、国文学が結んだおしどり学者夫婦だと勝手に想像している◆さて、この著書は『源氏物語』の手引書として役立つ。古典は原作にあたれ、解説書なんか無用との〝賢人のご忠告〟は良く分かる。だが、愚人の務めとして敢えて紹介したい。日本最古の、世界に名声轟く、長編小説『源氏物語』の所以は何かと。このテキストを三等分して、まず第一回から第四回目までを一つにして取り上げてみたい。4つの章のタイトルとそのエッセンスは①源氏物語から大いに学ぼう(複雑怪奇な人生からの学び)②積み重ねることの大切さ(異文化の積み重ねからの学び)③世界とのつながりを見つけよう(人間関係の絆の発見)④輝く人こそ影がある(人の多面性を見抜く)──といったものになろう。著者によると、この物語は小説の糸(ストーリーを追う)と評論の糸(コメントを楽しむ)とが絶妙に織り交ぜられているという。生真面目な私などからすれば、前者は怪しすぎて疎ましいし、後者は面白くてためになる◆前半部分で最大の読みどころは、教養の崩壊現象とでも言うべきものが起きている21世紀の日本では、「文学は何の役に立つのか?」であり、「源氏物語」は今日、世の中の役に立っているのか?」と著者が問いかけているくだりである。これは言い換えると、歴史的事実と文学的虚構との違いであり、ドキュメント、ノンフィクションとドラマ、フィクションと、どちらが人間の世界をよりよく明らかにするか、との問題設定にもつながる。著者は、紫式部が「真実には、限界がある。あるいは、虚構というかたちでしか語れない『人間の真実』がある」と、光源氏の口を借りて言わせているというのである。ここは実に重要なポイントだろう。一般的に、真実と虚構を立てわけ、ウソかまことかと単純に裁断してしまう傾向がある。島内さんは読者がその落し穴に陥ってはいけないことを強調していると思われる。「虚構の力を利用して『人間の心』の真実を明らかにしよう」というのが紫式部の戦略だということに気づけというのだ◆この本で私が新たに気づいたことが2つほどある。一つは、源氏物語の最初の本格的な注釈書としての四辻善成の『河海抄』(かかいしょう)の存在である。ここには源氏物語には、「君臣の交わり」(主君と従者の忠義の道)、「仁義の道」(人間社会の道徳)、「好色の媒」(なかだち=夫婦や男女の結びつき)、「菩提の縁」(極楽往生するための道心)など、「ありとあらゆる人間関係の教訓」がとかれている、と。確かにそうだ。二つには、九条稙通の『孟津抄』(もうしんしょう)や北村季吟の『湖月抄』(こげつしょう)など後年の注釈書の役割である。例えば、前者では源氏物語は、安易な気持ちでなく、しっかりした心持ちで、「盛者必衰の理(ことわり)」を胸に秘めて読めと言っている。安易な気持ちだと、好色の勧めだと錯覚し、人の道を踏み誤りかねないと忠告しているのだ。これもまた重要である。まるで注釈書の解釈本を読んだようだが、源氏物語という小説は〝宝の山〟ではあるが、読みようによっては正反対の〝不道徳の手引き〟ともいえる「背徳の書」だとも捉えられかねない。このことはしっかりと銘記されるべきだと思われる。(一部修正 2024-3-9)

 

 

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【117】全てディープステートのせいとする主張━━秦正樹『陰謀論 民主主義を揺るがすメカニズム』を読む/2-26

 11月に行われる米大統領選挙に向けた共和党の予備選挙で、ドナルド・トランプ前大統領が連戦連勝を続けている。本選挙で民主党のジョー・バイデン大統領との再対決の公算が高まってきているとの報道が専らである。トランプ氏といえば、2021年1月6日に起きたアメリカ連邦議会襲撃事件に深く関わっていることを思い出す。前年の大統領選において「選挙不正」があったと訴えるトランプ氏に共鳴した支持者たちが、バイデン大統領の就任を阻止せんと暴挙に出たものだった。この行為の背景に、事件の首謀者たちが「Qアノン」と呼ばれる陰謀論を妄信していたこともまた既に多くのメデイアが報じている通りである◆この動きと呼応するかのように、日本にあってもトランプ氏絡みの陰謀論的な主張を支持する人びとは少なからずいる。また、新型コロナ禍の中にあって、ワクチン接種をめぐっての陰謀論も散見されたことは記憶に新しい。かねてから気になっていたこの問題について、標題の本を読むに至ったのは去年1月に民法テレビで思想家で著名な先崎彰容氏(日大教授)との対談(「陰謀論の正体と危険度」)を観たからだが、「今なぜ陰謀論か」「どう対応すべきか」を考える上で、とても大事な本であることを認識した。この本の特徴は、日本の陰謀論の実態の実証的研究の上に立って、陰謀論が受容されていくメカニズムを解説していることである。個人の政治観やメデイア利用との関連を追う一方で、どう対抗措置をとることが「民主主義の病」を予防できるかまでを丁寧に説いていることが注目される◆陰謀論をめぐって、この本では、幾つかの注意すべき発信源を挙げた上で、「私たちが最も気をつけるべき存在は、もっと公的な存在、すなわち政治家や政党ではないだろうか」と、警告している。そして、具体例として、ノンフィクションライターの石戸諭氏が「中国の軍事研究『千人計画』に日本学術会議が積極的に関わっている」とした陰謀論を取り上げて、その拡散に、「自民党元幹事長の甘利明が大きく関わっていたこと」を指摘している。これは後に、日本学術会議の関与について明確な根拠はなかったことが判明した。だが、甘利氏は「日本学術会議と中国千人計画は『裏でつながっている』とする主張をした」。その結果、「反中国的態度を持つ右派的な支持者たちを中心に広く拡散される事態となった」という。このくだりは全体的に抑制したトーンの中で、際立つケースだと見られよう◆大統領自らが陰謀論の先頭に立つかの如き動きをし、「分断」の音頭取りと見られる行為を率先してやっている米国の場合と違って、日本は未だそこまではいっていない。だが、土壌は深く広く耕されつつあるかに思われる。とりわけ、「ディープ・ステート(deep state)と呼ばれる闇の秘密結社の暗躍がすべての『元凶』であると指摘する」人びとは増えつつあるように思える。この主張の日本代表は、元ウクライナ大使だった作家、評論家の馬淵睦夫氏である。この人は、4年前のバイデンの当選は不正選挙だと断言するなど、トランプ支持を広言して憚らない。ウクライナ戦争も、ロシア対ディープステートの戦いだとし、ロシア革命から、共産中国の誕生を経て、朝鮮戦争からベトナム戦争や、米大統領不正選挙からウクライナ戦争まで一貫しているとの立場だ。私の友人にも彼の本を愛読し、ユーチューブを見逃さず、断じて陰謀論ではないと固執する人がいる。また昨年末、彼の講演会が姫路で開かれ、日本の現状を憂える多くの人々が集まったとも聞く。著者は、終章の末尾で「『何事もほどほどに』という教訓について触れた。それに加えて、『自分の中の正しさを過剰に求めすぎない』という姿勢こそが、今の社会に求められているように感じられてならない」と結んでいる。同感する。(2024-2-26)

 

 

 

 

 

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【116 】ふらつく異教徒へのヒント━━芥川龍之介『さまよえる猶太人』を読む/2-19

 ユダヤ人という言葉から何を連想するか。私たちの世代では、一にヒトラー・ナチスの虐殺の被害民族。二に中東の軍事大国イスラエル。三に、イザヤ・ベンダサンこと山本七平の著した『日本人とユダヤ人』と云ったところか。今はまた、パレスチナ・ガザ地域での戦闘状態が気掛かりだが、私が標題の芥川の短編を手に取って読み、ここに読書録を書くことになったきっかけは、前々回に取り上げた『人間と宗教──日本人の心の基軸』を読んだことによる。寺島実郎さんが第一章「人類史における宗教」で、この書をイエス・キリストを考える中で、突然に思い出したものとしてあげている。ご縁を実感し、読んだ◆芥川はここで、キリストへの2つの疑問について取り上げている。2つの疑問のうち1つ目は、さまよえる猶太人が日本にも渡来したかどうかという事実上の問題。もう1つは、イエス・キリストを十字架にかけられるよう追いやった人間は恐らく数え切れない程多かったはず。「それが何故、彼ひとりクリストの呪を負ったのであろう」か。また、「この『何故』には、どう云う解釈が与えられているのであろう」──この2つの疑問への答えが偶然発見された古文書によって解決された、という。ゴルゴダの丘の刑場に曳かれていく途上、キリストはしばらく息を入れようと立ち止まった。その時に群集心理に悪乗りしてヨセフという男が小突き回した。キリストは「行けというなら、行かぬでもないが、その代り、その方はわしの帰るまで、待って居れよ」と言った。この「一言がヨセフの運命を変えたどころか、人類史を変えたとさえいえる」(寺島実郎)というのだが、その罪をひとりヨセフが何故背負うのか◆古文書によると、「御主を辱めた罪を知っているものは、それがしひとりでござろう。罪を知ればこそ、呪もかかったのでござる。罪を罪とも思わぬものに、天の罰が下ろうようがござらぬ。云わば、御主を磔柱にかけた罪は、それがしひとりが負うたようなものでござる。但し罰をうければこそ、贖いもあると云う次第ゆえ、やがて御主の救抜を蒙るのも、それがしひとりにきわまりました。罪を罪と知るものには、総じて罪と贖いとが、ひとつに天から下るものでござる」という。罪を罪と知るものだけが罪と贖いの所産を一緒に得られるというのなら、皆こぞって自身のおかした罪と向き合うことになるというわけだろう◆アイルランドのノーベル賞作家であるサミュエル・ベケットの作品に『ゴドーを待ちながら』という戯曲がある。ポストモダンの究極と云われる作品で、ただひたすらゴドーという存在がやってくるのを待つと云うだけの芝居である。かつてこの読書録でも取り上げたが、いささか戸惑いが残った中身だったように思えた。だが、今この短編を読んで、「ゴドーを待つ」と云うのは、ヨセフに触発された「さまよえる猶太人」から始まって、世界のイエス・キリストの再誕を信ずる人々の心理を表現したものかもしれないと、思わないでもない。日蓮仏法徒の私にとっては、法華経を信じるか信じないか、その罪と罰を巡って、大いに悩んできたテーマと共通する。信じている者が不信の罪を蒙り、信じていない者には無縁だというのはどういうことかとの疑問である。異教とはいえ、原理的には同じ仕組みのもとにあるといえよう。このヒントを得て、豊かな心持ちを抱くに至った。(2024-2-19)

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【115】「国体の本義」は蘇るのか━━佐藤優『日本国家の神髄』を再読する/2-13

●正統派保守思想の源流からの読み解き

 2017年3月。安倍政権が復活してから4年ほど経っていた頃のこと。日本史の表面から消えていたはずの「教育勅語」が蘇った。「憲法や教育基本法等に反しないような形で教育勅語を教材として用いることまでは否定されることではない」という「閣議決定」がなされたのである。「教育勅語」が誕生したのは明治22年(1890年)の明治憲法の発布と同時だった。以後、軍国日本の精神的支柱となった「国家神道」の具体的な展開の手立てとしての役割を果たすのだが、1945年の敗戦によって、天皇の人間宣言と共に、その奉読は禁止(1946年10月)され、その存在は消えたかに見えた。しかし、米国による占領主体のGHQによって強制的に差配されたものの、その根源は断ち切られていなかった。象徴天皇制や戦後民主主義が新たな憲法によって、広く知られても国家の神髄とでもいえるものは埋み火のように社会の地層に残っていた。「教育勅語」は中軸で、その実体こそ昭和12年(1937年)に文部官僚らによって編纂された『国体の本義』だったのだ。

 元外交官で作家の佐藤優氏が類い稀な思想家であることはよく知られている。その佐藤さんが国家神道の魂的存在である『国体の本義』の解説に取り組んだ本がこれである。出版は冒頭に触れた閣議決定の3年前。安倍首相再登場の1年後だった。キリスト教プロテスタントの彼が北畠親房の『神皇正統記』を中心にいわゆる右翼イデオローグたちと議論を重ねていることは、私も見聞きするに及んでいた。が、『国体の本義』にまで関心が及ばず放置していた。佐藤氏がこの書を読み解く必要性を痛感し、行動に移したのは日本のこれからの有り様に大いなる危惧を抱いたからに違いない。「新自由主義」の台頭や、ヘイトスピーチ、排外主義などの伝統的保守思想に潜む病理への危機意識が引き金となった。「正統派保守思想」の源流に立ち返り、誤れるまがい物的保守の生きかたを糾そうとしたのだと睨む。

●外来思想を土着化する重要性

 『国体の本義』の中で、天皇については、「高天原の神々と直結して」おり、「重要なことは知(智)、徳、力という世俗的基準で皇統を評価してはならない」うえ、「そのような人知を超越する存在なのである」と位置付けている。この書が基盤にあって、天皇の軍隊が行動を起こした。軍隊と天皇の関係にどう触れているかが気になるところだが、最終章に僅かに論及されているだけ。物足りない。読み解く対象としての「国体の本義」に、「軍事に関する記述は短い」のなら、そこは補ってほしかった。「高天原に対応する大日本がその領域である。従って、日本の軍隊は世界制覇の野望などそもそももっていない」といわれても、現実の動きに照らして困惑は禁じ得ない。天皇と軍隊にまつわる基本的な疑問の解消には結びつかない。

 ただ、日本の思想史的課題についての言及はわかりやすい。日本文明の特徴は、外来の思想を取り入れて、これを換骨奪胎し、日本風のものに取り込んできたことにある。仏教や儒教もインド、中国から外来思想として入ってきた。それが同化され日本独自のものへと変容していった。明治維新以降の近代化においても、西洋列強による植民地化の脅威をかわしつつ、その思想を懸命に取り入れ同化する取り組みに励んできたのだ。その結果はどうだったか。「国体の本義」の書き手たちは、遡ることほぼ半世紀の間における、個人主義、自由主義、合理主義の徒らな氾濫を厳しく自省する。既に1931年(昭和6年)の柳条湖事件からいわゆる「15年戦争」に突入していた日本は、その戦意を高め戦闘態勢を整える上で、自堕落な人間形成をもたらす西洋思想の受容の失敗は我慢ならなかったと思われる。

 いらい、敗戦を経て90年余。佐藤氏は「1930年代にわれわれの先輩が思想的に断罪した『古い思想』(すなわち、個人主義、自由主義、合理主義)が二十一世紀の日本で新自由主義という形態で反復した」という。日本お得意の外来思想の受容が、うまく行かず失敗した。ではどうするか。佐藤氏は、日本人と日本国家が生き残るために日本をどう捉えるかが焦眉の課題であるとし、「日本の国体に基づいた外来思想を土着化する必要がある」と強調するのだ。要するに、西洋思想を日本風に捉え直す作業を急がないと、国家神道の再起をもたらすだけだと言っているように、私には聞こえてくる。

【他生のご縁 『創価学会と平和主義』で私の発言が引用される】

 佐藤氏は、私を『創価学会と平和主義』(朝日新書)を始め、『世界宗教の条件とは何か』サイト版(潮出版社)などの媒体で取り上げています。いずれも鈴木宗男衆議院議員(当時)や佐藤氏との関係についての衆議院予算委員会証人喚問での私の発言に関するものです。

 「あやまちを改めるに憚ることなかれ」を私が実践したことを過大に評価されたわけで、面はゆい限りです。世界宗教としての創価学会SGIが世界広宣流布の展開に本格的な取り組みを強める上で、この人の「キリスト教指南」が一段と重要性を増すに違いないと思われます。

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