【140】哲学は真理を教えているものではないー古田博司『使える哲学』

「今大学で何が起こっているか、知ってますか」って、数年前に筑波大学の古田博司教授から投げかけられた。「学問の淘汰が始まっているのです」「細分化された学問がどんどん間引きされ、使えないものには学生が全く見向きもしないのです」ー筑波大の場合では大学院の法学専攻が5年間志願者ゼロでとうとう廃止になった、という。インターネットの本格的展開は、旧来の”知の持つヒエラルキー”を壊した。分からないことがあれば、直ちに手元のパソコンを開けば何でも解決する。勉強をすることで普遍的な知に近づけるというかつての幻想は消えてしまった▼『使える哲学』なる古田先生の新刊本は極めて明快。使えないくせに”お高い雰囲気”を持つ哲学という学問のイメージを完膚なきまでに壊してくれる。めっぽう面白い本である。この本の結論は「近代=普遍知の時代が終わった」ということ。「哲学というものは哲学者が人を説得しようとしている話を聞く(読む)というだけで」、「別に真理を教えているわけではない」。「もしそこに自分にとって役立つものがあれば利用すればよいだけ」という。以前に取り上げた『ヨーロッパ思想を読み解く』で展開された、西洋哲学の基本にある「向こう側」という世界の捉え方から始まって、ドイツ哲学やフランス思想の問題点を曝け出し、イギリス哲学の優位性を説く。相変わらずこの人は知的刺激を猛烈にもたらしてくれるのだ▼これを読んで、私がかつて学生時代にー1960年代のことだがー知った創価学会の提示する価値観を思い起こした。それは、われわれが求めるべきものは「”真善美”ではなくて”利善美”だ」というもの。真理を求めるのは学者に任せて、一般大衆は利用すべき価値を探せとの指摘だと理解して、はじめは大いに驚いたものだ。あの頃はまだ「近代」のただ中で、普遍知なるものを皆が有難がっていた。「ポスト・モダン」の今になって、信仰50年の自分が創価学会の先駆性に気づくというのも気恥ずかしい▼20年あまり前からの知己である古田さんには、朝鮮半島をめぐる深い洞察から東西哲学比較まで、様々に教えを乞う機会が多い。「40年間、朝鮮だけを研究してしまい」、「朝鮮だけで終わってしまった」のが「悔しいから、今ちょっと暴れている」と謙遜されるだけあって、彼の進境はいやまして著しい。本来の儒教を骨格とする東洋思想への知見に加えて、ヨーロッパ思想への斬新なアプローチは余人の追従を許さないものがある。日蓮仏法をかじっただけの私など到底太刀打ちできないことは百も承知だ。しかし、そこは向こう見ずな私のことゆえ、なんとか蛇に怖じず、とばかりに時々無謀にも挑みかかっている。東洋の叡智の持つ「直観」に磨きをかけて、近くまた議論を吹っ掛けたいと思っているのだが。(2016・1・28)

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【139】歴史を図形で捉えることの面白さー保坂正康『昭和史のかたち』

時代を図形で捉えるー実にユニークな発想の本を発見、一気に読んだ。保坂正康『昭和史のかたち』である。図式イメージはすべての理解を助け、早める。かつて私は創価学会という組織を三角形ではなく、円形で捉えることの大事さに気づいた。「組織の頂点や底辺」という言い回しは三角形やピラミッド型を連想させ、暗く重苦しいイメージが付きまとう。それに比べ、明るい躍動的な組織を説明するには、円や球こそが望ましい。民主的組織のリーダーは円の中心にあり、最前線のメンバーは円周上の人々だ、と。遠心力や求心力も組織にとって欠かすことができない力として説明できる、という風に。物事を図式化することは面白い▼保坂さんはこれを歴史理解に適用した。例えば、昭和史を大まかに捉えるにあたり、昭和元年から20年9月2日の無条件降伏の日までを前期。それから昭和27年4月28日までの米軍占領期間を昭和中期。そして独立を回復した日から昭和天皇が崩御した昭和64年1月7日までを昭和後期とする。これらを三角錐の三つの表面体として捉え、それぞれの時代の中心人物に、東条英機、吉田茂、田中角栄を当てはめる。そして三角錐の底の面にはアメリカ、空洞部分には天皇の存在があるとする。3人の首相経験者にはそれぞれ獄につながれた経験を持つ共通点があり、アメリカとの関係が日本の指導者にとって致命的な意味合いをもつことを明らかにしていく▼この本の最大の焦点は、三章の「昭和史と三角形の重心」だ。明治憲法下では、三角形の頂点に天皇、ほかの二辺にそれぞれ統治権と統帥権とで正三角形を形成していた。それが軍部勢力の台頭により、統治権よりも統帥権が上位に立ち始めるという形で重心が移動し、やがて頂点に位置する天皇をも超えてしまう。いわゆる「統帥権干犯」という事態を惹起するわけである。このあたり、実際に図式で説明をすると実に分かりやすい。こうした正三角形から歪な図形へと変わりゆく姿こそ、昭和前期の天皇から軍部への重心の移動を示して余りある▼保坂さんは、この本で「遠くなりゆく『昭和』を、局面ごとの図形モデルを用い」ながら、「豊富な資料・実例を織り込み、現代に適用可能な歴史の教訓を考え」ていく。ただ、おわりにのところに「戦後七十年の節目に、無自覚な指導者により戦後民主主義体制の骨組みが崩れようとしている」として、ステロタイプ的な批判の言葉を投げかけているのは、いかがなものか。「集団的自衛権の行使を可能にした」安保法制の制定は、「戦後民主主義体制」の一側面を修正強化しこそすれ、骨組みは壊されたりしようとしていない。むしろ、そこでいう「体制」の実態とはなんであるのかが問われるべきだと思う(2016・1・17)

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【138】いろはかるたから学ぶ繰り返しの大事さー鶴見俊輔『読んだ本はどこにいったか』

タイトルに惹かれた。『読んだ本はどこへいったか』という。昨年83歳で亡くなった鶴見俊輔さんの「今まで読んだ本の、自分の中でののこりかたの記録」である。私も今日までそれなりに本を読んできたつもりだが、このタイトルを最初は鶴見さんとは正反対の意味にとってしまった。つまり、本は読んだが何も残っていない、との意味に。妻から先年「本を読んでいても貴方は何も身についていない」と揶揄されたことがずしんとこたえているからに違いない。大いなる反省と新たなる旅立ちへの参考とするために興味深く読んだ▼鶴見さんはこの本を⓵自分の読み直しのメモ⓶京都新聞の山中英之記者へのはなし⓷記者の記録への手入れーの手順で作ったという。ご自分の体内に80歳までの人生で読んだ本がどう残っているかを書き残された。その読書生活の全容をこの本が要約しているものとらえることが出来る。「『老い』というフィルターで濾過され、なお残る本は何か」と自身に問いかけ、「私にとっては、これまで実現したことのない著作の形である」と言われる。随所に魅力溢れる様々な本のエキスが抽出されており、あれもこれも読みたくなる▼「哲学のもう一つの入り口」「生活語を求めて」「大衆小説の残したもの」の三章からなるが、「かるた」について書かれた第二章がお正月の今最も読むにふさわしい。「かるたは単なるゲームではなく、人生のいろいろな状況の中から、自分がとれることわざをとる不思議な文学です。遊びでありながら、実人生と相互乗り入れになっている」と持ち上げる。更に島崎藤村と岡本一平(絵)が作った『藤村いろは歌留多』について「(藤村の全著作の中で)最高のものだと感じるのは、七十八歳になった今の私の評価です」とまでいう▼思えば「かるた」に日本人は多くの思いを託し、様々な教訓を学んできた。私など「犬も歩けば棒にあたる」を読んで「人も歩けば票に出くわす」と想起して、選挙への意欲を高めたり、「猿も木から落ちる」から苦手なことよりも得意なことが失敗の因につながることを戒めたものだ。ここで言えるのは繰り返しの重要性だ。子どもの時から何度も何度も口にして覚えたことだから身についてきたのだろう。「好きこそものの上手なれ」である。読んだ端から忘れてしまう読み方から脱却するために、今年は気になったくだりや興味を持ったところを繰り返し読み直したり、更にその中身を人に語ることで身につけていこうと思っている。(2015・1・6)

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【137】世界宗教とは何かを思い知らされるー佐藤優、松岡幹夫『創価学会を語る』

先日、ある会合の席でその世界で高名な神社の宮司さんと話す機会があった。神道と創価学会ーお互いに過去に遡ると、相互に批判しあった経緯がよみがえるが、それも「今は昔」ということに思いが至った。宗教のグローバル化という面から見ると、神道と創価学会SGIでは住む世界が今や全く違っているということなのだろう。方や日本固有の文化の守り手であり、もう一方は世界の民衆の間で圧倒的な賛同を得つつある存在だ。社会に生きている次元が異なっている。いつまでも「四個の格言」(日蓮大聖人が当時支配的な四大宗教を批判した言い回し)にこだわって、「邪宗破折」に忠実たろうとする自分は、少々時代遅れだと気づいた▼佐藤優、松岡幹夫『創価学会を語る』は、雑誌『第三文明』で連載されていたものが単行本としてまとめられた。改めて読み直してみて深い感慨に浸るとともに、ご両人の並々ならぬ力量に感服する。とりわけ「三代会長は仏教の実現者」という章にはひきつけられた。このところの私の関心事について、見事に抽出されていたからだ。松岡氏が「池田会長はたとえば『人権』とか『自由』などというヨーロッパ由来の概念を、日蓮仏法の観点からとらえ直し、普遍化していった」と述べる。これに対し、佐藤氏は「自由や人権などという概念が特殊ヨーロッパ的なものではない普遍的価値だということが、トインビー対談によって初めて明確にされた」と応じている。ここには明治維新いらいの福沢諭吉を先頭にした日本の思想家たちの”知的格闘”を解き明かすカギが潜んでいる▼キリスト教に対して紋切型で批判してみたところで何も創造的なことは起こらない。西洋近代の哲学を批判的に切り捨てても、東洋の思想哲学の優位性がそれだけでは輝かない。池田SGI会長の人生を賭けた壮絶な知的、行動的営みを改めて後付けすることの意味合いの重要性を心底から感じる。佐藤優さんが「キリスト教、イスラム教、創価学会SGIが世界三大宗教だ」ということを今こそ噛みしめる必要性があろう。今創価学会は全く新しい広宣流布の新局面を迎えているのだ▼それにしても両氏の呼吸はぴったりで、実に鋭い。牧口初代会長の「価値論」、戸田二代会長の「生命論」を、池田三代会長が「人間主義の哲学」として完成させた、との松岡幹夫氏の指摘に、「キリスト教神学がどのように形成されていったかを学会教学の理論家の方々がじっくりと学んでみると参考になることがいろいろある」と答える佐藤氏の発言などである。私たちにとって大いに示唆に富む。この書物にぶつかって、安易に読後録はかけないとの思いがひとしきり胸に迫ってきた。佐藤さんのものに加え、松岡さんの様々な著作を今懸命に追っている。(2015・12・30)

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【136】森と熊と光と海とー貝原俊民さんの追悼文集『惜福』に寄せて

昭和61年から4期15年の間、兵庫県知事だった貝原俊民さんが不慮の事故で亡くなってより一年余りが経ちました。このほど『惜福』というタイトルで追悼集が発刊されました。彼の生前中にゆかりのあった313人の人々による文章が収められています。私もその一人として参加させていただいたので、その文章をそのまま転載させていただきます。

知事をひかれた後の貝原さんと私は、ひとつだけ同じ肩書を持っていました。それは西宮市に本部を置く自然環境保護団体「日本熊森協会」(森山まり子会長)の顧問という立場です。私が衆議院議員に初当選したのは1993年7月。ちょうどその年の三月に尼崎市立武庫東中学の理科の教師だった森山さんと、その教え子たち有志が貝原県知事に「ツキノワグマを絶滅から守って欲しい」と訴えました。
貝原さんは生態学視点から、ことの重要性を理解され、ツキノワグマの保護に向けての努力を約束されました。当時は中学生で、今は弁護士となっている同会の副会長を務める室谷悠子さんは、その時の喜びを今なお生々しく覚えているといいます。
明治維新いらい、日本はヨーロッパ文明をしゃにむに受け入れ、科学技術分野での遅れを必死に挽回し、追いつこうとしてきました。その結果としてこの150年ほどの間、外来の思想、文化を日本風に変容させるという伝統的な手法が忘れられてきた傾向は否めません。今、その弊害がいたるところで噴出してきています。ツキノワグマが人里に下りてくるのは奥山が荒廃している予兆であり、森が悲鳴をあげているシグナルとも言えます。人間最優先の考え方で、自然や野生動物を支配しようとするのはキリスト教を中軸とした悪しき文明のなせる業です。人と自然の共生こそ日本本来のものとする考え方を貝原さんと私たちは共有していました。本当に心優しい、得難いリーダーでした。
今、私は、瀬戸内海に世界の観光客を呼び寄せる構想の具体化に、万葉学者の中西進先生や井戸敏三兵庫県知事らと連携しながら取り組んでいます。淡路島と関西国際空港との結びつきの強化を皮切りに、光溢れる瀬戸内海へのクルーズに夢を羽ばたかせています。その時に、かつて淡路島に夢舞台なるものを作られ、2000年に「淡路花博」を開催することを企画・立案された貝原さんの遠謀深慮というものが突然、理解できました。
西播磨の一角に世界一の放射光施設を誘致されて、壮大な科学公園都市を作られたのも貝原さんでした。現職時代の私は常にその構想の壮大さに感心し、支援を心がけたものです。引退した今は、瀬戸内海の東の入り口に横たわる”くにうみの島”を観光振興の一大拠点にしようとされた貝原さんの深い思いに魅入られています。今も昔も、これからも自分は森と熊と光と海を大辞された貝原さんと一緒にいるのだとの思いにとらわれているのです。(一般社団法人 地域政策研究会 発行『惜福 追悼 貝原俊民さん』)

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【135】70歳になっても変わらず本を漁り続ける

この読書録も70歳になったばかりの今回あたりで少し趣を変えたい。一冊づつの読後録ではなく、数冊のまとめ書きにしたい。一冊づつだとかなり突っ込んだ論評を余儀なくされるのでいささか疲れる。かつて20世紀最後の年にこの営みを開始したときは、三冊ほどを取り上げて三大噺風に取り上げたものだが、その方向に戻ってみたい。これだと少々楽が出来そう(笑)だ。中身の解説というよりも本のなかの片言隻語や著者との付き合い方に力点がおかれそうだが、しばらくこの手法をとってみたい▼先日、私の住む町・姫路市の石見利勝市長から一冊の本が送られてきた。随筆集『夢ある姫路』だ。この市長はもとは立命館大学の政策科学部長という肩書を持った教授だった。それだけに単なる政治家の随筆ではなく、深い学識に裏付けられた含蓄ある言葉が散りばめられた素晴らしい本である。特に、色んな方々との出会いに触れた第一章「日々想」が面白く読めた。私も生前にお付き合いのあった河合隼雄先生の看護師と患者の話には笑ってしまった。また。同氏の「世に二ついいこと、さてないものよ」との口癖を引かれて、二律背反(トレードオフ)の難しさを説かれている。市長はこの12年で学者から見事な政治家へと変身された。恐らくは河合先生の言葉を最も深いところで理解されたからに違いない▼と、ここまで書いたところで私の誕生日の贈り物が届けられた。リモージュボックスだ。これはフランスの小型の磁器に真鍮製の金具がついたボックスで、かの国の文化のエッセンスとエスプリが一杯詰まったものとして良く知られているそうな(私は知らなかった=苦笑)。送り主は、相島としみさん。鈴木淑美のペンネームで活躍する凄腕の翻訳家である。この人の仕事は数多いが、今は彼女が訳した『交渉に使えるCIA流 真実を引き出すテクニック』なる本を読んでいる。これはその道のなかなかの「専門書」(笑)だが、訳者あとがきが興味深い。話し相手から本当のことを引き出すには「『相手への理解、共感』であり、その深さは事前準備によって左右される」と述べている。元日経の記者だった頃のインタビュアーとしての経験に基づいての指摘だが、元ぶんや稼業だった私もまったく同感だ▼石見市長は前掲書で『人間性の心理学』の著者・マズローの「欲求5段階」説に触れている。私も親友・志村勝之との対談電子本『この世は全て心理戦』で取り上げていらい、この人の理論に強い関心を持っているが、相島さんの指摘するところとの共通点は少なくない。ともあれ70歳に突入した今もなお、新しいこと、面白いことを求めて今日も本を漁り続けている私だ。(2015・11・26)

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【134】本当の日本を考える糸口にもー橋爪大三郎、植木雅俊『ほんとうの法華経』

今朝の神戸新聞に興味深い記事が掲載されていてむさぼり読んだ。「転換期を語るー戦後70年の視点」で、編集委員の「混迷の世界です」という問いかけに、社会学者の橋爪大三郎さんが冒頭にこう答えている。「西欧キリスト教文明は19世紀、20世紀を通じて、人類世界に対してわがもの顔にふるまってきた。だが、21世紀は、欧米が『俺たちに合わせろ』と言っても、『イスラムで何が悪い』『中国のやり方で何が悪い』と言い返される時代だ。逆流の始まりである」と。この問題意識にまったく異論はない。ただ、見出しにあるように、「国際社会は不透明な融合へと向かう」のだから、「日本はまず相手を知る必要がある」との結論にはちょっぴり異議ありだ▼橋爪さんについてはかつて宗教学者・島田裕巳さんとの対談『日本人は宗教と戦争をどう考えるか』という本を読んだときのことを思い出す。例の「9・11」の翌年あたりに出されたものでタイトルにひかれて購入した。今でも印象に残るのは島田さんがまえがきで評論家の加藤周一さんの『日本文学史序説』を「日本の文学史であるとともに日本の宗教史であると言える」としたうえで、その中で「加藤さんは外来の超越的な思想が、日本の固有の土着的世界観によって骨抜きにされていく姿を描き出している」と述べているくだりだ。日本の近代化が西欧近代合理主義の前に膝を屈した形で進められてきてすでに150年近い。その過程に入る前は、まさに加藤さんがいうように、外来の思想を骨抜きにしてきた。しかし、今や日本固有の思想が骨抜きにされているのではないかとの思いが募る▼実はこの加藤さんの本の中で法華経について、富永仲基がその無思想性について指摘しているところが気になって仕方なかった。そこで、法華経のサンスクリット訳などを新たに手掛けてその現代語訳を完成させた植木雅俊さんの仕事に注目した。この人は『仏教、本当の教え』や『思想としての法華経』など次々と世に問う気鋭の仏教思想研究家である。根源的に法華経を無視している富永仲基やそれを是とする加藤周一といった人の見方、考え方の誤りを世に喧伝していかなければ、結局は仏教も、法華経も誤解されたままに終わるのではないか。こうした懸念を私は抱き続けてきた。なんとかそれを払しょくしてほしい、そんな思いで植木さんの本を読んできた。で、彼の師である中村元さんの生涯を描いた『仏教学者 中村元』のなかに見出した。しかしその記述はまことに物足りなかった。これでは世の批判に勝てない、と▼そんな思いを植木さんは知ってか知らずか、直近にだされた、それも橋爪大三郎さんとの対談『ほんとうの法華経』の中にしっかりと書いてくれていた。二か所出てくる。一つは「法華経には、直接的な言葉で表現されていないが、だまし絵のように重要な事がさり気なく盛り込まれています。これを見落とすと、富永仲基のように、法華経は最初から最後まで仏をほめてばかりで、教理の内実がないと批判することになるんでしょう」。もう一つは最後に、(こういったことを富永が言ってるのは)方便品に<深い意味を込めて語られた事は、理解しがたい>とあるように、法華経の深い思想を読み取ることができなかったのではないでしょうか」と。この本はまことに法華経をめぐる様々な深い意味を分かりやすく説く素晴らしい本であり、これまで集積してきたものをさらに深めることができる。ただ、橋爪さんが数か所で「目茶苦茶だ」と法華経の記述について述べているところは、揚げ足取りだと思うものの気にはなる。そして、冒頭に指摘したように橋爪さんが「日本は相手をまず知る必要がある」というが、「日本はまず自らを知る必要がある」のではないか。つまり、近代化の中でキリスト教欧米哲学に圧倒され続け、骨抜きにされた自らを知ることが必要で、しかる後に、相手をも知る必要があるのでは、と考える。その際に法華経の位置づけを改めてやり直すことも大事ではないか、とも。このように、植木、橋爪対談本は”本当の日本”を考える得難いきっかけになる。(2015・11・13)

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(133)面白すぎるスウェーデン人の書いたドタバタ喜劇ー『国を救った数学少女』

「目茶苦茶に面白いよ。こんな本こそあなたに書いてほしい」ーメールとともに、一冊の本が私の手元に送られてきた。ヨナス・ヨナソン『国を救った数学少女』(中村久里子訳)である。送り主は笑いの伝道師・高柳和江女史。ほかに読む本はいっぱいあり、あまり気のりはしなかったのだが、読み始めた。二か月ほどかけてようやく読み終えた。いやはやまさに面白く、”喜劇小説の王女様”かもしれない。ただし、少々長い。暇な人は一気に読めるだろうが、御用とお急ぎのある人には進められない▼この著者はスウェーデン生まれ。地方紙記者を皮切りにメディアの世界で活躍してきた。この作品の前にも『窓から逃げた100歳老人』を出版。世界中で1000万部を超える大ベストセラーとなっているという。確か、すでに映画にもなったと記憶する。100歳の老人アランが活躍するハチャメチャな喜劇小説だったが、今度のは南アフリカ出身の少女・ノンベコが爆弾一個を巡って王様と首相と世界の危機を救うというドタバタ喜劇。笑いを生涯のテーマとする高柳先生ご推奨のことだけはある▼前作もそうだったが、この人の持ち味は史実とフィクションを巧みに織り交ぜるところ。どこからどこまでが本当か分からなくなり、人によっては全部本当だと思ってしまいそう。随所に皮肉を利かせた語り口は最高だ。エリツインが公式にスウェーデンを訪問した際に、石炭発電所がひとつもないこの国に対して石炭発電所を閉鎖せよと要求した、その酔っ払いぶりなどはかわいいが、ジョージ・ブッシュが「サダム・フセインが持ってもいない武器を排除するという目的でイラクに侵攻した」というくだりは痛烈なアメリカ批判で単なるブラックユーモアを超えている。現代世界批判をこうした笑いに紛れ込ませる手法は巧で鮮やかである。ジャーナリスト出身の手際の良さと造詣の深さが頼もしい▼この本のタイトルは、現作では「The Girl Who Saved the King of Sweden」となっており、数学は入っていない。数学少女で良かったのかどうか、疑問は残る。わが友・高柳女史は笑いで日本中を救うという壮大な試みを展開しているが、この本は彼女の感性に見事にフィットした小説に違いない。読んでいてしばしばノンベコとダブって見えてくるから不思議だ。私も生涯で一冊ぐらい小説を書いてみたいという気がしないでもない。その本のタイトルは「国を救った笑医」とでもして、彼女の一代記を書くか。英訳されると「The Woman who Saved Japan with lauh」ということになるかもしれないーなどと考えてるうちに秋の夜の夢から覚めて、今宵二度目のトイレに立った。(2015・11・10)

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(132)”平和の光と影”に苦い思いを抱く━━畑中丁奎『戦争の罪と罰 特攻の真相』

 大変に中身が濃い貴重な本に出会った。「息子が書いた。よかったら読んでくれ」といって、親しい友から渡されなかったら、恐らく手にすることはなかったろうし、読まずに終わったに違いない。畑中丁奎『戦争の罪と罰 特攻の真相』は強烈な刃を現代に生きる日本人に突きつける問題の書である。今なお曖昧模糊とした戦争責任の一角を確実に突き崩す効力を持つものと評価したい。著者が巻末に掲げた主要文献の一覧は数多い。とりわけ防衛省防衛研究所の所蔵する膨大な資料などを読み込んだ著者の熱意には頭が下がる。これらの資料の数々は亡くなっていった特攻隊員たちの墓標のように私には見えてくる。

 私も、そして著者の父親も昭和20年生まれである。正真正銘の戦争直後にこの世に生を受けた。先の大戦の戦禍を直接には知らず、戦後の経済復興を始めとする恩恵だけを、ぬくぬくと享受して育ってきた。高度経済成長がもたらした”陽の当たる坂道”を駆け上がるようにして喜寿を超え、やがて傘寿を迎えようとする世代はいま、「平和の光と影」に苦い思いを持つことを余儀なくされているのだ。著者が本書の題名の由来について語るくだりはとりわけ胸に迫ってくる。「特攻が『民族古来の伝統』に発したものならば、なぜ本書で追及した特攻の命令者達は自らの所業を明らかにしなかったのか」「公にできないことを拒否権の無い兵達に課すのは罪悪である。自身の行いを認めないことはなお罪である。そして彼らは戦後このことに関して罰を受けなかったどころか、戦後の社会を形成していった」と。役割の軽重はともあれ、紛れもなく戦後社会を形成してきた一員として、その自覚の足りなさを恥じざるをえない。

★「忘れ去られた皇道派」への思い

 先に私は半藤一利、保坂正康『賊軍の昭和史』を読み、明治維新いらいの軍国日本の歴史の内幕に分け入った気がした。今、本書の最終章「忘れ去られた皇道派」のなかで、真崎甚三郎の名誉回復を試みる著者の努力に接すると、さらにその深部にいざなわれた思いである。正直言って「統制派と皇道派の対立、抗争」などにはこれまでさしたる関心はなく、どちらかといえばやり過ごしてきた。どっちもどっち、同じ軍人、同じ戦争責任者たちではないかとの安易な見方に与してきたからだ。そこへ畑中氏によって新たな視点を与えられた。今は亡き同世代の友人、歴史家・松本健一との直接の語らいの中でさえ、その主張は「遠い砲声」にしか聞こえてこなかった。そんな自分だったが、さらにぐっと若い著者からの指摘はただならぬ響きを持つから不思議である。

   先の大戦における特攻隊員をめぐる問題については、既に様々に語られ、描き尽くされてきた感が強い。それを戦後35年ほどが経ち「もはや戦後とは言わない」頃に生まれた著者が、改めて克明に真相を追おうとする姿はまことに新鮮でまぶしい。そう、35歳年下の著者に「戦後生まれの私たち」といわれると、妙な気分になってしまうのだ。もはや役立たずのオヤジさんたちは後ろに下がっていてくれと、言われているような気もしてくる。著者の親父・畑中三正(株)赤のれん会長に「こういう本を書く息子って、暗くないかい」と訊いてみた。ユーモアと笑いを身上とする私には気になるところだ。「いやいや、明るいやつだよ」と、ニヤリとしながらの答えが返ってきた。神戸に住む、この新進気鋭の「戦史家」との直接の出会いが待ち遠しい。

【他生の縁 大学同期の息子】

 前述した畑中三正氏とは同い年で、大学同期。慶應在学中は残念ながら交流はなかったのですが、卒業してから、というより私が衆議院議員になってから、今日まで実によく付き合ってきました。というのも、私の中学、高校、大学と親しかった友人A(故人)や、大学時代からの親友F(元広島市議)らと、私とは別に昵懇の関係をこの人は持っていたから、です。私は彼のことを「政商」と半ば揶揄していうぐらいに、神戸を中心に政治家に詳しい上、交友関係は幅広いのです。本当によく様々な友人を紹介してくれ、衆参の選挙、とりわけ慶應の後輩・赤羽一嘉(前国交相)の支援をしてくれました。私たちにとって得難い存在です。

 その彼の次男がこの本の著者ですが、高校の英語の教師をしながら、せっせと作家活動に勤しんでいます。先に、劇作家の鴻上尚史が『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』(2017年)を出版し、ベストセラーになった際には、私も読みました。ドラマチックに仕上げられた読みやすく面白い本でした。百戦錬磨の達人とも言うべき、この道の先達に、とても同じ分野で勝負は出来なかろうと、同情を込めて、「どうだい。あの本は?」と、問いかけてみました。

 「いやあ、あんなものに負けません。次なる作品では必ず」と言った意味の言葉が返ってきました。心意気やよし。応援団として、次なる作品を期待しています。

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(131)歯、歯、歯の歯ー河田克之、赤松正雄『ニッポンの歯の常識は?だらけ』

1999年から始めてもう16年にもなる私のブログ『忙中本あり』。初めは「新幹線車中読書録」だったが、今や、新幹線に乗る機会はほとんどないため、専ら「新快速読書録」だ。今回はその歴史の中で初めて自著を取り上げたい。尤も自著といっても対談本だから共著ということになる。姫路に住む歯科医師の河田克之さんと一緒にこのほど出した『ニッポンの歯の常識は?だらけ』である。サブタイトルは長ったらしく、「反逆の歯科医と元厚生労働副大臣、歯の表裏事情に迫る」である。この本、共著といっても実際は河田さんが主役で、私は話の引き出し役。第一部の対談では患者の立場から恥ずかしげもなく訊いた。また第二部のQAでも初歩的な質問を性懲りもなく繰り返した。まぎれもない脇役だ。ただし冒頭の序論には力を込めた。また、あとがきも。ただし、共にユーモアたっぷりを忘れずに▼もともとは電子書籍の一環として作るつもりだった。というのも本を出版するのはコストがかかる。とても貧乏な元政治家にそんなお金は捻出できない。「デジタルファースト」なるNPO法人をわが友・朽木一憲の勧めで彼と一緒に立ち上げたのが国会議員を辞めた直後。彼は元出版社の社員。本を出したくても出せない人のために役立ちたいというのが狙いだった。で、見本としてまずは櫂より始めよで、私が出した。読書録の続編『60の知恵習い』を皮切りに、小中高大の友人たちと対談をしてそれをまとめた。五冊分全部併せると、対談者全員がことし70歳の面々で、『現代古希ン若衆』というタイトルが相応しい。その次の企画として私が考えたのが各分野の専門家との対談だった▼偶々歯槽膿漏に悩む、親友の勧めで読んだ本が『青山繁晴、反逆の名医と「日本の歯」を問う』。そして自らの歯の治療にも河田歯科医院へと赴いた。いらい、一年半ほど。意気投合して電子書籍を出そうというまでに殆ど時間はかからなかった。私の電子書籍第七弾になるはずだった。準備も進めていた。ところが朽木が病に倒れてしまい、電子書籍の出版が難しくなった。そこで方向転換。急きょ紙の本に、ということになったのである。若い人向けに歯科医療について噛んで含めるように、分かりやすくをモットーに語り、話して貰ったつもりだ。私は序論の題を「歯、歯、歯の歯のはなし」にしようと真面目に思っていた。徹底的に歯の大切さを面白く語ってみようと狙った。その通りになってるかどうか。読んでいただいてのお楽しみだ▼河田さんは日本の歯科医療の世界に大げさでなく、革命を起こそうとしている。それが証拠に衆参全国会議員にこの本を贈呈するという挙に出た。およそ100万円かかる。止めましょう。無駄もいいとこだ。国会議員の連中が読むはずがない。封筒を開いて表紙を見たらそのままゴミ捨て場に直行する、って私は主張した。しかし、それでもいいと彼は言う。せめてタイトルを見てくれたら、こんな歯科医が存在すると頭の片隅においてくれたら、本望だ、と。その熱意に負けた。その費用は全額彼が出してくれるとはいえ、勿体ないとの思いは私のような貧乏性の人間には消えない。そこで、議員諸氏が読んでくれるように、私はある仕掛けをすることにした。その結果がどう出るか。何れの日かの続報を楽しみにしてもらいたい。(2015・10・30)

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