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(第7章)第5節 あの母ありてこの娘あり━━小池百合子『自宅で親を看取る』

  病院か自宅かの選択に悩み抜く

 女性初の都知事になって8年。小池百合子さんはこのたび3期目の当選を果たした。その母親が2013年(平成25年)に肺がんを医師から宣告され、娘の小池さんが自宅で看取るまでの12日間の介護日誌である。2003年〜06年の環境相を経て防衛相(07年)、党総務会長(10-11年)など要職を次々と経て、都知事になる3年前のことだった。当初から短い期間だと分かっていたし、現職国会議員の様々な利点があるとはいえ、「親の介護」はやはり並大抵のことではない。世間では、諸般の事情でしたくともできない。様々の苦労が祟り身体を壊す。あるいは最初からその役目を放棄するなど悲喜こもごものドラマに溢れている。小池さんの「看取り体験記」は実に味わい深くためになる。これまでその政治的信条に好感を抱けず、ご縁のなかった人たちも含め、今に生きる現代人にとって得難い書と言っても言い過ぎではない。

「平成25年の夏、日本列島は記録的な猛暑に見舞われていた」との一文から始まるこの本は実に読みやすい。5行後に続く、「八十八歳の母は疲れきっているように見えた」から一気に引き込まれる。実はこれより少し前の5月末に小池さんの父・勇二郎さんが90歳で亡くなったばかり。父親の場合は特別養護老人ホームに入っていて、併設の病院で「大往生の死」を迎えた。そのショックもあり母・恵美子さんは一段と暑さもこたえたのだが、遡ること1年半ほど前に肺がんを告知されていた。そこから一気に病が昂じていく。その後の状況を確認すべく検査入院をしたところ、医師から「あと1ヶ月」と告げられる。以来、最期を「病院か、自宅か」どちらで迎えるかの〝悩みの顛末〟が克明に語られる。母上ご本人の当初からの希望が「自宅で」にあったことが決め手となった。尤もこの本のサブタイトルに、「肺がんの母は一服くゆらせて旅立った」とあるように、無類の愛煙家だったことが大きい。退院した9月5日から、息を引き取る16日までの12日間の看病。あたかも名画を見るような母娘の愛の交流が麗しい。

随所に挿入される人間「小池百合子」

 この本の構成は①母娘の決断〜娘の覚悟②最期まで自宅で〜12日間の介護日誌③穏やかな看取りのために〜在宅医療の現状と課題との3章となっているが、実は随所に〝ミニ自伝風趣き〟が散りばめられている。両親と兄を含む家族のこと。どんな少女時代だったか。なぜエジプト・カイロ大をめざしたか。政治家に直接関わる部分は行事日程ぐらいだけだが、しっかりと「人間・小池百合子」が挿入されている。中でも、アラビア語を学ぼうと思い立つ場面は興味深い。高校2年17歳の時(1969年)にESSの夏合宿先で、アポロ11号による人類初の月面着陸シーンを観た。鳥飼久美子さんらの同時通訳を目の当たりにした瞬間、「凄い」って心を鷲掴みにされる。と同時に「こりゃかなわん」と、英語の世界での数多の競争相手に抜きん出ることの難しさを自覚した。英語以外の別の言葉で勝負しようと方針転換をしてしまうのだ。何語にするか。ヒントを求めて父親の本棚を眺めているうちに一冊の本が目に飛び込む。『中東・北アフリカ年鑑』だった。石油にゆかりのその年鑑を繰っていくうちに、エジプトの項で、「カイロ大学」を見出す。「これだわ!雷に撃たれたように、私はここで心を決めてしまう。私は、アラビア語を勉強するのだ、それも現地で」と。〝運命の選択〟はこうして決まった。

 我が両親は2人ともガンで逝った。母は父が看取り、父は姉や弟が看取ってくれたがいずれも東京にいた私は間に合わなかった。小池さんの献身的な振る舞いに胸締め付けられる思いがする。最後の章での「延命治療と尊厳死」についてのくだりに特に注目される。経験に基づき「何か事が起こったとき、どこまでの対応を望むのか。それを母がまだ元気な頃に、具体的に聞き、書面にしておけばよかった」と後悔している。そこまでするかどうか。老々介護目前の己がケースでの心構えが問われる。

 小池さんの両親は赤穂市と縁があり、ご本人は兵庫東部で育った。後に彼女が衆議院候補として立った選挙区は旧兵庫2区である。この人の政治家歴で、細川護煕、小沢一郎、小泉純一郎ら首相級の名だたる先輩たちとの〝師妹関係〟はあまねく知られている。故安倍晋三元首相の心胆を寒からしめたのは「希望の党」設立当時の小池さんだった。その動向を衆院選のたびに気にする向きは未だ消えず、いつ再燃するかどうかも誰も分からない。

【他生のご縁 一緒に座り込みをし、応援演説をした仲】

 住専問題で大騒ぎの頃(1996年)。小池さんと私は衆議院予算委員会室の前で同じ政党所属(新進党)の者同士として一緒に座り込んだ。携帯電話が普及する前、AI端末も何もない頃。彼女は必ず近い将来それらが普及することを熱く語っていた。

 「小池百合子さ〜ん。男にしたい、いい〜女性です」━━公明党の講演会で支持者を前に、彼女を紹介するべく壇上に並んで立った私は、開口一番こう切り出しました。あの頃は私も怖いもの知らずだったのです。

 

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(第7章) 第4節 遅ればせながらの「元首相の決断」━━小泉純一郎『原発ゼロ、やればできる』

m自らの過ちへの責任を痛感

 2001年から5年5か月の間。小泉純一郎氏は首相の座にあった。2009年に自公政権が民主党に負けてひとたび下野することになった総選挙には不出馬。次男の進次郎氏に後継を託し政界を引退した。その2年後に東日本大震災とそれによる福島第一原発事故が日本を襲った。この事故のあと、在任中の「原発推進」の立場を翻し、「原発ゼロ」を主張するようになった。その理由をこの本(2018年出版)では、悲惨な風景を突きつけられて、「内外の原発に関する本を数えきれないほどたくさん読んで勉強した」結果、原発の「安全」「低コスト」「クリーン」は全部ウソだったと気づいた、としている。「

 「(首相時代に)騙されていた自分が悔しく、腹立たしい」との心情を吐露して。現役時代から、率直な物言いと歯切れの良さ、感性豊かな振る舞いに定評のあった人らしい「方針転換ぶり」に、〝パフォーマンス過多〟と見る向きもある。だが私が見るところ、そうではない。〝日本崩壊の地獄〟を危うく回避し得た僥倖に胸撫で下ろし、かつての自らの過ちへの責任を感じるが故の一大決心だと信じる。小泉内閣最後の厚生労働副大臣として曲がりなりにもお支えし、その人となりを知っているがゆえに。

 この本の構造はいたって簡単。原発推進派、政府のいうウソをばらし(第一章)、原発をゼロにした後、自然エネルギーが代わりを果たす手の内を明らかにする(第二章)。第三章は一と二をまとめて、震災が招いた「ピンチをチャンスに変えよう」と呼びかけている。ただ、自民党における原発推進派は根強く、小泉さんの呼びかけに簡単に応じる向きはそう多くない。公明党にも〝原発推進確信犯〟がいる。現国交相の斎藤鉄夫氏である。この人は原発無くして日本の経済発展はないと公言してきており、現役の頃の政務調査会の場で原発の段階的解消を主張する私との間で論争をした。その後は党が公式の政策として「着実に原発ゼロに向けて進む」との方針を掲げてきている。表立っては抑えていても内実は分からない。そう簡単に自説を曲げないはずと私は睨む。

 虚しく響く元首相の発言

 小泉さんは論語の「過ちを改むるに憚ることなかれ」を引き合いにして「これまでの失敗を反省してあやまちを改めなければいけません」と強調している。しかし、残念ながら元首相のその言を額面通り受け止める空気は日本にはない。2014年の都知事選で小泉さんが、原発ゼロを掲げて立候補した「細川護煕候補」を応援したことを日本中の人が知るに至っても、同様である。その後4年経ちこの本が出て、さらに6年以上経った今も変わりそうにない。なぜか。

 理由は恐らく2つ。一つはご自身への民衆の不審である。原発に代わる再生可能エネルギーとりわけ太陽光発電関連の推進企業と小泉親子の関わりを指摘する向きがあるのだが、その疑惑が払拭され得ていないからだ。もう一つは、政治家全般への不信である。自民党の派閥絡みの政治資金集めという名の裏金作りは極限まで政治不信を強めている。論語の「信無くば立たず」が示すように、政治そのものへの信頼が完全に断たれてしまっている感が強い。そんな状況下に自民党出身の元首相が何をいえども空しく響く。

 小泉さんは、この書でしきりに、野党は既に「原発ゼロ」に賛成なのだから自民党さえ変わればよく、総理が原発ゼロにすると号令すればできる、と叫ぶ。その通りだ。だがことはそう簡単ではない。小泉さんは安倍首相(当時)に「騙されるなよ」と言っても「苦笑するだけ」だと書いている。先輩首相として、そんな言葉かけだけでお茶を濁さずに大議論をして説得ぐらいして欲しかったと思う。その機会はもはや望むべくもないが、後継の首相たちに迫ったとの話も寡聞にして聞かないのは残念である。尤も、この本の末尾に50頁にも及ぶ「注」がついており、その大量の注の監修をしたのは、なんと立憲民主党の政調メンバーである。驚くべき自民、立民の原発政策の協調ぶりであり、小泉さんの覚悟のほどが伺える。

【他生のご縁 予算委で小泉質問に立った日の記憶】

 2001年4月に小泉純一郎首相が誕生した後に、私は質疑に立ちました。「小泉首相は、女性閣僚や気鋭の幹事長を選んだりして、まるで季節外れの大雪を降らせたみたいですが、汚い自民党政治を雪で覆い隠しても、すぐに雪は溶けて流れりゃ、以前より汚くなる」と口火を切りました。この喩え「最高だ」と後々自賛しまくったものです。

 また、「自公関係は日米関係に似ている。公明党は自民党のいいなりだし、自民党は米国に言われるままだ」ともいいました。小泉さんは「そんなことないぞ〜。公明党は言いたいこと言ってくれてるよ!」と自席から野次ってました。懐かしい思い出です。

 副大臣時代に開かれた首相を囲む会議の場で、仕事の現況を問われました。私はエイズ撲滅キャンペーンの一環としてスーちゃん(キャンディーズの故田中好子さん)と一緒に新宿駅前に立った活動報告をしました。これをめぐっては〝珍問答〟が続きました。紹介したいところですが、もはや「お蔵入り」の話題なのでやめときます。

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(第7章 第3節) 行間、紙背に滲むあつき志──細川護煕『明日あるまじく候』候

次の世への大いなる知的遺産

 作陶、書、水墨画、油絵、漆芸などを手がける元首相が、出版社の求めに応じて書いた古今東西の賢人たちの章句の中から50本を選んだ。題名は、本願寺教団中興の祖・蓮如によるもので「座右の銘」の一つという。副題は「勇気を与えてくれる言葉」。著者が80歳を過ぎた頃から編んだもので上梓された時は83歳。現役政治家を退かれたのは60歳。還暦後に人間として円熟味を増し続けた末の大いなる知的遺産である。この人が何を学び考え、いかに生きてきたかの輪郭が分かって、充実した手応えを持つ。単なる箴言集ではない〝次の世への手引き〟ともいえよう。

 「細川護煕首相」が誕生し、8党派の連立政権が樹立されたのは1993年(平成5年)夏。38年ぶりの自民党単独政権が「宮澤喜一首相」を最後に終わりを告げ、「連立政権の時代」到来となった。この時私も衆院選2度目の挑戦で初当選した。いらい30年余。あの当時を振り返るに際して、この本の持つ意味は大きい。日本新党立ち上げから総理就任を経て、退陣より現役引退まで、政治家としての出処進退に関わる記述が全部で5カ所ある。

 最も注目される場面は首相退陣。「家族や側近たちにも前触れせず、突然退陣を表明した」とある。進退は「自分ひとりで決断するしかない」ことを明かしている。背景には、当時佐川急便からの借金、NTT株購入など政治責任が問われていたことがあった。そこら辺には全く触れられていず、①歴史認識の明確化②自民党一党支配を終わらせた③コメの開放と④政治改革にも区切りをつけた──から「政権は長きをもって貴しとせず」との「細川美学」の披歴のみ。

 政権誕生より半年余り。退陣表明は一年生議員の私には文字通りの寝耳に水。驚いた。去り際の見事さは、政界引退時(1998年)も鮮やかの一語につきた。「座右において折りに触れて読んでいる」『徒然草』(吉田兼好)から「日暮れ途遠し。吾が生既に蹉跎(さだ)たり、諸縁を放下すべき時なり」(第百十ニ段)を引用し、「すべての義理を欠いて、己の心一つに生きていこうとそう決心したのだと」の解釈も付け加えた上で、「そしていまわたしはその通りにやっている」と、意味深長なひと言。ただ唸るしかない。

 突然の都知事選出馬に驚く

 引退後20有余年。「欲無ければ一切足り、求むるあれば萬事窮す」(良寛)との生き方に打たれ圧倒された著者は、「腹六分で老いを忘れ、腹四分で神に近づく」(ヨガの教書)、「一生の間よくしん(欲心)思はず」(宮本武蔵)「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張」(勝海舟)「偉大さは単純なる生活の中にだけある」(イマヌエル・カント)などの箴言に裏打ちされた生き方を貫く。先達の言葉をあげ、解釈を施し文末の数行に己が自身の見解が披歴される。そんな中で、時折「寸鉄人を刺す」くだりが見逃せない。

 例えば、足利政権初期の宰相・細川頼之の「精神を充満すれば、閑雲に高臥するも天下を支配する」との心意気を讃嘆したあたり。いかなる地位についても「徳がなければ恥を天下にさらすことになる」として、人に感化を及ぼすことばかりに躍起となっている政治家の憐れさを強調している。また、ローマの故事を引いて、けれん味のない進退こそいちばん望まれるとする一方、「幕が下りたあとまで、いつまでもポスト・権力にしがみついて喝采を望む者はバカだとしかいいようがない」と切り捨てており、ひときわ印象深い。

 衆議院議員引退後16年経った2014年に都知事選があり、その時に細川さんは立候補した。政府の原発政策に反対して立ち上がったのだった。小泉純一郎元首相も呼応した、〝古きツートップ〟の反原発共同戦線に、個人的には大いに賛同したものだ。日本新党結成当時と同様に「家族はもちろん友人たちからも、そのドン・キホーテ的行動に頭がおかしくなったのではないかと真顔でいぶかられたものだ」。

 しかし、以前には「海鳴りのように呼応して立ち上がってくれた」動きも、その時は鳴りを潜めた。細川さんが立てた旗のもとに結集し国会議員になった日本新党のメンバーから、所属政党の変遷を経た上で、後に首相を始め、野党党首や与党幹事長、参議院副議長や知事になった人材は少なくない。「失われた30年」と位置付けられ、みたびの「77年の興亡」が幕開けしたいま、細川さんのような〝鞍馬天狗的正義感〟を持ち合わせた人物はもう出てこないのだろうか。

【他生のご縁 50歳の誕生日を祝っていただく】

 1995年11月に私は満50歳を迎えていました。そのときに同僚の太田昭宏氏(1945年10月誕生)と共に、細川護煕前首相から誕生日の祝いの席を持っていただきました。場所はとあるイタリア料理店。呼びかけてくれたのは、我々2人の若き日の職場のトップだった市川雄一元公明党書記長です。

 この本の冒頭で「人間50年、化天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり」を引いて、信長が謡い舞った曲舞の謡曲『敦盛』の一節に言及されていますが、あの日、細川さんから胸の内の一端をお聞きしてより、ほぼ30星霜。改めて「海に向かって旅立つ者」の思いで、希望に満ちた新しい時代を切り拓く決意に立っています。

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(第1章)第4節 強く、優しく、美しく、そして賢く━━坂東眞理子『女性の品格』

母親に代わって娘たちに説く

 私が坂東眞理子さん(現・昭和女子大総長)に出会ったのはこの人が内閣府男女共同参画局長当時だったと記憶する。もう20年近く前のことになろうか。今と同じようににこやかな笑顔を満面にたたえた風格に満ちたお人柄だった。官僚経験などを経て現職に就かれるまでの長い歳月があっという間に経った。この間、表題の著作から、直近の『与える人』に至るまで沢山の本を出版されている。

 実は党理論誌『公明』2024年5月号に掲載されたインタビュー記事を偶然に発見し、懐かしい思いで読んだ。それをきっかけに『女性の品格』を初めて手にした。藤原正彦氏の『国家の品格』に続き、一連の〝品格もの〟が書店を賑わせたが、恐らく坂東さんの作品が最も多くの人に読まれたに違いないと思われる。藤原氏の著作が彼らしいユーモア溢れる語り口ながらも、硬質のテーマを大上段に振りかざしているのに比し、坂東さんのものは母親に代わって娘たちに説いてきかすかのようで、極めて読みやすい。

 坂東さんはこの本を書いた理由として①女性の生き方が混乱しており、新しい美徳が求められている②権力、拝金志向の男性と異なる価値観、人間を大切にする女性らしさを社会、職場に持ち込んで欲しい③地球レベルの新たな課題に立ち向かっていって欲しい──の3つを挙げている。これらの目標への到達を目指して、具体的な日常生活での振る舞い方と、生き方、考え方に関わる部分の2つを絡ませながら、品格とは何かが浮かび上がってくるようにしたと「はじめに──凛とした女性に」で書いている。

 思えば、1945年(昭和20年)に生まれた私の世代は、「戦後強くなったものは女性と靴下」だとの言い回しをよく聞いたものだ。戦前は女性に参政権が認められていなかったことに象徴されるように、「男が主、女は従」で、「第二の性」との位置付けがまかり通っていた。お茶の間で話題になったNHKの朝ドラ『虎に翼』が日々鋭く的確に描き出していたように、女性の人権が真っ当に認められだしたのは、新憲法が公布されてからなのである。出版から20年ほどが経つこの本では、日本の「男社会ぶり」を諌める言葉もなく、「女たちよ今こそ立ち上がれ」といった刺激的なトーンも見いだせない。ひたすら「強く、優しく、美しく、そして賢く、古くて新しい『女らしさ』の大切さ」(表紙の言葉)を説いている。

将来品格ある人になりそうな男性を選べるように

 「礼状をこまめに書く」に始まり、「倫理観をもつ」に至る「装いから生き方まで」の7章に66もの指標が挙げられている。このうち私が最も着目したのは、最終章の「品格ある男性を育てる」だ。「人間として品格のある人を、将来品格のある人になりそうな男性を選ぶ女性になってほしいものです」──この一文に著者の思いの全てが込められているように私には感じられる。その理由は私との初めての出会いの時の会話に関係するのだが、後述したい。尤も、ここで結婚についての究極の選び方を挙げたが、そこに至るまでの困難さが現今の最大の問題となっている。以前に観たNHK テレビの「クローズアップ現代」で、地方の若い女性たちが都会に流出する流れの背後には、政府の「地方創生」と「現実とのズレ」があると、鋭く切り込んでいた。「働きがいのある仕事につきたい」のに、結婚や出産に干渉されたり、〝地域での役割〟を押しつけられてしまう──これでは生きづらさを感じるばかりだとのリアルな声が溢れていたのである。

 これは見方を変えると、この本で説かれた品格を合わせ持った女性は苦労しないが、そうでない普通の女性たちは大変だということに繋がるのではないか。そんな思いが頭をよぎった。坂東さんの一連の著作のラインナップを見ると、学長になられてからのここ20年ほどの視点は〝政治離れ〟のあまり、女性を取り巻く課題解決への切り口が少々物足りないように思われる。民放テレビで声を張り上げる元国会議員や激しい政治家批判を繰り返す学者のように振る舞って欲しいというのではないのだが。

 そんな眼で坂東さんを見ていた私が冒頭に触れた月刊誌での「女性活躍のために支え合う社会をつくる政策を」を読んで、思わず「これだ」と快哉を叫んだ。日本の女性雇用の現状は、「期待」「鍛え」「機会」の「三つの『き』」がまだまだ足りないとする。その上で、〝夫婦の人生〟を豊かにする社会に向かって、両親、親族、近隣のコミュニティー、保育所などが分担して支え合う社会をつくる政策を強調されていた。

 尤もそういった考え方で今の若い女性たちに受けるのかどうか。坂東さんと同世代の私はあまり自信がない。

【他生のご縁 国会の部会での私とのやりとりから】

 党の部会にお招きして、男女共同参画社会をどう作っていくかの議論をしていた時のこと。私は坂東さんに、「日本の若い女性に晩婚化や非婚志向が強いのは、今の若い男に魅力がないからでしょうかね」と、軽いノリで問いかけました。

 その時に彼女は、「お母さんたちが、自分ちの男の子たちを〝猫可愛がり〟するからでしょうね。根本は母親の育て方に原因あり、だと思いますよ」と。ギクっとしたものです。

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【133】考える糸口がいっぱい──党理論誌『公明』7月号の読みどころを探る/6-15

 公明党の理論誌『公明』がいま面白い。このブログ『忙中本あり』では初めてのことだが、7月号を取り上げたい。僅か80頁ではあるものの、山椒は小粒でも何とやらで、中身は鋭く深く重い。毎号特集を組んで、3-4本の論考が掲載される。今月のテーマは、「成長型経済への転換」で、4人の論者が①半導体産業の育成②賃金と物価の好循環③男女間の賃金格差解消④日本の活性化を促す──を論じている。このうち最も注目されるのは、①での黒田忠広(東京大学特別教授、熊本県立大学理事長)による半導体産業の見通しである。凋落したとされるのは❶事業環境の変化❷投資戦略の遅れ❸産業政策の不手際などが原因。厳しい冬の時代を経験したが、それを乗り越えた。今は、らせん階段を駆け上がるイメージで捉えられ、世界水準に近づいているとの認識を示す。その上で、先進各国がそれぞれの強みを持ち合うことが不可欠な国際協調の時代を迎えており、「半導体を巡って、覇権を争うのではなく、共通の資産、人類共有財産として世界の繁栄をめざす」という。「日本手遅れ説」を真っ向から否定する楽観論に私は驚く一方、希望を抱いた◆特集の中で興味をそそられたのは④の保田隆明(慶応大総合政策学部教授)の『日本の活性化を促す物語性が必要──「ナラティブ経済学」の視座から考える』である。冒頭から、ふるさと納税、新NISA(少額投資非課税制度)、ChatGPT(生成AI=人工知能)を三題噺のごとく持ち出す。お茶の間や居酒屋で盛り上がる議論の尽きないテーマだと。それこそ「ナラティブの力」の発揮しどころだという。「ナラティブ経済学」とは、一言でいえば、友達につい話したくなる物語性があり、たとえは悪いがウイルス感染のように短期間に広がる特質を持つものを指す概念だ。保田は、「一般国民の暮らしぶりの全体的な改善と社会分断の緩和にも貢献できるものと思われる」と、希望的観測で結んでいる。私など早速、今夜の「酒の肴」にしてみたくなる◆この理論誌が持つ最大の特徴は、当たり前のことだが、公明党そのものを考える素材を提供してくれる論考の存在である。今月は浜崎洋介(京大特定准教授、文芸批評家)の『日本の伝統的価値に棹さす中道政治への期待──公明党に求められる中間共同体の賦活』がそれだ。凡庸な身には、いささかわかりづらい論理構成だが、大事な問題提起がなされている。ここでは公明党に突きつけられている3つの注文についてのみ触れる。浜崎の主張を私なりの解釈と言葉で要約すると、一つは、日蓮仏法に依拠する宗教団体が作った公明党は本来、日本人の伝統に棹さす政党ではないのか。もっと「中道」に自信を持て。二つ目は、偽善と欺瞞の体制である「日米安保」は、真っ当な意味での「軍事同盟」足り得ていない。強靭な「同盟」を模索するために、公明党は逃げずに一度は「離米」を考えるべきだ。三つ目は、今、最も政治に求められているのは、中間共同体の賦活以外のなにものでもない。停滞した現状を招いた元凶は新自由主義(緊縮政策)にある──この3つであろう◆それぞれについて私の見解を述べたい。一つ目は、宗教政党としてもっと旗色を鮮明にすべしとの論調を時に掲げる佐藤優(元外交官、作家)と共通する視点だろう。他の政党との差異が際立つ存在であるにも関わらず、肝心の部分が曖昧に見えるとの指摘に身がすくむ思いだ。「自公連立20年」のなかで、どちらがより相手に影響を与え、感化させたのか。原点の戒めがよみがえってくる。二つ目については、かつて公明党は、「日米安保の段階的解消」から出発した政党であり、在日米軍基地の総点検を実施するなかで、真剣に「離米」を考えた歴史を持つ。国際政治の現実に呼応する過程で「日米安保堅持」に転じた。今も考えることから逃げてはいない。惰性は否めないにしても。三つ目は、とりわけ安倍第2次政権から本格化してきた課題である。経済格差をもたらした根源がアベノミクスにあるにせよ、連立のパートナーとして、その攻めからは逃れられない。歌の文句じゃあるまいし〝時の流れに身を任せた〟で済まさず、総括する必要があろう。ともあれ浜崎論考は刺激に満ちている。国会が閉幕したら衆参両院議員は正面から向き合って考えて欲しい。(敬称略 2024-6-15)

 

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(第2章) 第3節マジメ少年にはグレさ加減がまぶしい━━河合隼雄対談集『子ども力がいっぱい』

素晴らしい笑顔との出会い

 この本は、河合隼雄が亡くなって一年後(2008年)に出された。副題に「あなたが子どもだったころ」とついている。山本容子、鶴見俊輔、筒井康隆、佐渡裕、毛利衛、安藤忠雄、三林京子の7人(掲載順)との対談集である。ほぼ全頁にわたって河合さんと7人の対談相手の写真(時には子どもの頃のもの)が入っている。皆素晴らしい笑顔だ。読みながらこれだけ笑った本は珍しい。

 河合が聞き上手なのだろう。見事なまでの面白いお話が聞き出されており、飽きない。一気に読み終えた。ほぼ全員判を押したように、子どもの時は勉強せず遊んでいたとのこと。そのことを厳しく怒られ続けたのは鶴見俊輔。15歳でアメリカへ行かされるまで、母親は「折檻するだけの人だった」と。この人のエピソードで興味深かったのは、小学校6年の成績がビリに近かったが、中学校へ上がる受験勉強の教科書が「牧口常三郎と戸田城聖の書物だった」ことをうちあけ、「ものすごくいい教科書なんだ。毎日10時間ぐらい必死で勉強した」と助けられたことを吐露しているくだり。俊輔少年の恩人が創価学会の2人の会長だったことを知って大いに驚いた。

 学校での勉強にあまり意味がないことを感じさせたのは安藤忠雄。「成績は悪いけれど、魚捕りやトンボ捕りがうまい子どもだった」安藤は、後にボクシングにはまるものの、ファイティング・原田に出会って即その道を諦め、貯めたお金で外国へ行き独学で建築を学ぶ。「可能性に夢を与える人」と河合はいう。現在複数の内臓に欠陥を持ちながら活動を元気に続ける安藤を私は「無限の可能性を持つ生命力の人」といいたい。「小説家は嘘つき」との私の自論の正しさを追認させたのが筒井康隆。母親の着物を売ってロードショーの高い券を買ったことがバレそうになり、「不良少年に脅かされて」との嘘の話を、以後ずっとつき通したというのはなんとも凄い。山本容子は「母はだめと言う。父はいいと言う。祖父はだめ、祖母はすごい喜んでいる」──「大人はみんな違うとわかってとても面白かった」と述べている。「子どもは迷わないと面白くない。(それが)生きていく勉強になる」と河合は、ユニークな人間の育つ源泉を指摘する。

 「真面目だったからこそ」との自己肯定感

 一番笑えたものは佐渡裕の祖父の話。柔道8段の接骨師。朝からビールにウイスキーを混ぜて飲む豪快さ。京都の警察に柔道を教えにバイクで行きながら、ずっと無免許。生徒から免許がいると聞いて初めて知ったとか。その爺さんが婆さんを乗せて京都から亀岡の家まで帰ってきたら、後部座席にいない。「途中で落としたらしくて戻って拾いに行った」というのだから。毛利衛の場合は父親が動物病院をやっていたが「オートバイに夢中」で「教育に全く関心がなかった」人。「農家へ行って動物の病気を治してくるのはいいがお金を取ってこない」ほどの呑気者。彼が授かった8人の子どもたちの末っ子が宇宙飛行士になるのだからこの世は面白い。最後の三林京子は弟が泣かされて帰ってきたので、代わりに相手の家に行きボコボコに仕返ししたほどの超お転婆娘。文楽人形遣いの娘だが、中学一年から山田五十鈴のところに弟子入りして、女優で落語家になった。他の6人に「インタビューを終えて」を河合が書いているが、彼が対談後に病に臥したため、三林だけは、彼女が代役している。「本はたくさん読みなさいよ。僕は子どもの頃から本が大好きやった」と河合に言われたことがずっと気になる、と。

 この個性豊かな人びととの対談で、河合が自身の子ども時代を振り返っているところが興味深い。鶴見や筒井が思春期にグレていたのに、自分が「マジメ少年だった」から、「芸術的や文学的な才能のないのも無理ない」と。しかし、河合が結論するように「今更反省しても仕方のない」ことではある。過去に私も、自分の面白みのないマジメさを厭ったものだ。だがその都度、「いや、マジメさを貫いたから今の自分がある」と、自己肯定感を募らせたものである。この本での主張に共通するのは、現代の子どもたちがいかに不幸かという点。「お勉強」ばかりで、早くから「子ども力」が衰退させられているとの嘆きである。河合は世の親たちが自分の子どもの「本当の幸せ」は何かと真剣に考えてほしいという。また、子どもの育て方について根本的に考え直す必要がある、とも。こればかりは自己肯定感を持てない自分が恥ずかしい。(敬称略)

★他生のご縁 文化庁長官だった頃に

 河合さんが文化庁長官の頃に、私との出会いはありました。きっかけは文化庁行政に注文を聞きに秘書役が来られたことでした。感激した私はスピーチにおけるユーモア力の磨き方について参考になる本を教えてくれと、伝えました。

 ご自身のある著作を指定されたので、直ちに読みました。ところが一向に面白くない。その通りに返事すると「そうですか。やっぱり」との答え。これには笑いました。自信のないものを挙げないでほしい、と。ともあれ愉快な人でした。

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(第1章) 第1節 映画を観続け解説し抜き到達した境地━━淀川長治『生死半半』

特殊な映画好き人間としての伝説

 「それでは次週をお楽しみください。さよならサヨナラさよなら」──「日曜洋画劇場」の解説で繰り出された淀川長治さんのこのセリフが聞けなくなってもう30年近い。テレビ朝日系列で毎週放映された映画は1629本にも及ぶとのこと。もう一度見たい聴きたいと思う人は多いはず。ユーチューブ全盛の今なればこそアプローチは可能だが、彼の登場する最初と最後の部分だけ観るのでは、やっぱり味気ない。映画そのものを含めてテレビでリアルに観た頃がたまらなく懐かしい。

 私の父親より一つ歳上の1909年(明治42年)生まれの淀川さんは、神戸三中(現長田高校)の出身。宝もののような大先輩である。お母さんのお腹にいる頃から映画を観ていたとは、この人にまつわる「ホラ話」の最たるものだが、その手の〝淀川伝説〟には事欠かない。三中時代に学校をサボって新開地界隈に映画を観に行き、先生から怒られると、「映画を先生も観てから言ってください」と抗議。先生はそれを真にうけて後日観に行ったところ、いたく感動。以後、学校挙げて生徒皆んなで定期的に揃って映画館に行くようになったとか。またこの上なく大好きだった母上が亡くなられた後は、遺体と一緒に数日添い寝されていたとか。虚実ない混ぜの〝淀川神話〟に浸ってきた私も、この『生死半半』を読むに及び、漸く心の整理がついた。淀川さんが、決して化け物ではなく、特殊な映画好き人間であり、孤独な人であることも、分かった。

 淀川長治を知る上でまことに得難いこの本が世に出たのは1995年5月。86歳。約3年後に亡くなられており、遺言の趣きがある。「生と死についてじっくりと考えた」結果、「生の延長線上に死があるとはどうも思えません。人間の中には生きることと死ぬことの両方が半分づつあるように思えるのです」と、「おわりに」の一番最後にある。タイトルの『生死半半』も、ここからきている。私風の理解では、生の中に死があり、死の中に生があるとの、仏教の『生死即涅槃 煩悩即菩提』の原理に繋がるものではないか。生きている現在只今の瞬間に全てが凝縮されてあり、不確かな死後の世界に委ねられ続くものではない、と。「無信教者」の淀川さんが到達された境地が信仰者のそれとピタリ一致する。と、私は勝手に面白がっている。

 一生の伴侶には女性より「映画」

 〝死と老い〟について考える章が続いたあと、「人生の遺言」が来る3章構成。といっても抹香臭い暗いおはなしの連続ではない。彼はなぜ結婚もせず、生涯独身で映画を見続けてきたのか。この興味津々たるテーマが巧みに織り込まれた、〝86歳の青年〟による超面白い人生エッセイ集なのである。その答えは、「家族に気をつかっていたら好きな映画に費やす時間も気力も体力もなくなってしまいます」から、「『女性と結婚するより、映画を一生の伴侶にしよう』と早いうちから決めてしまった」──結婚して家庭を持って、同時に映画も存分に楽しむという〝普通の生き方〟を拒否した人物の「映画人生」から学ぶことはとても多い。

 私の子どもの頃(昭和20年代後半〜30年代始め)の映画は55円で3本立てが観られた。今になって、時折り自宅で取り溜めたビデオを深夜から早朝にかけて観ることが楽しみのひとつになった。若き日に定年後に用意した密かな企みが今現実になって、感慨深い。「四歳のころから父や母や姉に連れられて映画を見ていた」淀川さんが日々感じていたという興奮にはほど遠いものの、類似した追体験にそれなりのわくわく感はある。私の場合はブログ「懐かしのシネマ」に書き込む習慣を我が身に課している。ただ、淀川さんは、「いまの時代に作られた新しい作品を積極的に見に行くこと」が大事であり、「若者が面白いと感じるような映画を同じように楽しめて、初めて『子供のような心』を取り戻すことができる」と書いている。とても叶わない。

 この本には当然のことながら随所に映画の名場面や名セリフが顔を出す。「死」について多くを映画から学んだ彼は、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』やルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』などを挙げてその魅力を披歴する。両方とも私は先ごろ観てブログに書いた。前者は要するに老人のストーカーの話では?後者は結局は無謀な若者の無軌道ぶりを描いたもの?──こうした拙い思いを払拭させる解説に身震いする思いがした。映画って本当に奥が深いなあ、淀川先輩って凄いなあ、それに比べて、うーむ。

【他生のご縁 試写会で見逃す】

 公明新聞時代の仲のいい同期に文化部・映画担当の平子瀧夫記者(元川崎市議)がいました。入社間もない若い頃、試写会に一緒に行かせろと彼に頼み込みました。彼は映画評論家の「小森のおばちゃま」と親しく、信頼されていたので、淀川さんにもきっと会わせて貰える日がくるはず、との密かな企みが私にはありました。

 のちに、それなりに自由がきく部に所属し、ある時、ようやく試写会に潜り込むことができました。確かに同じ狭い空間に淀川さんはいました。ですがアタック出来ずに終わってしまったのです。映画担当でもない人間として怯む思いがあったのでしょう。遠き日の甘酸っぱいような苦い思い出です。あの時、真正面からぶつかってたら、その後の人生はどうなっていたか。

 

 

 

 

 

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【130】「他」を慈しむ優しさと勇気と━━小説『アラバマ物語』を読む(下)/5-22

 ここで改めて、この小説の原題に戻りたい。To kill a mockingbird である。mockingbird  とは、マネシツグミと訳される。この小説の中では、モッキングバード(ものまねどり)について語られるところが数カ所出てくる。最も説明的なのは10章にあり、アティカスがジェムに銃について、教え諭す場面にこう登場する。「(小鳥をねらえるなら)好きなだけアオカケスをうつさ。だけど、おぼえておくんだよ、モッキングバード(ものまねどり)を殺すのは罪だということを、ね」──父の口から、何かをするのは罪だなどと、言われるのは初めてだったジェムは、近所に住むモーディおばさんにその意味を訊く。彼女は「お父さんのいうとおりよ」と述べた後、「モッキングバードってのはね、わたしたちを楽しませようと、音楽をきかせてくれるほかには、なんにもしない。野菜畑を荒らすこともしなければ、とうもろこしの納屋に巣をかけるわけでもない。ただもうセイかぎりコンかぎり歌ってくれるだけの鳥だからね。──モッキングバードを殺すのが罪だっていうのはそこなのよ」とある。明らかにここで、黒人青年トム・ロビンソンやひきこもり青年のブー・ブラッドリーをモッキングバードに例えていると見られる◆他にも、「心なくうち殺されたものまね鳥」という表現が出てきてTo kill a mockingbird という原題に使われた言葉がこの小説の文字通り基底部を形成しているように読める。社会に悪影響をもたらさない鳥を痛めつけ、いたいけな弱い存在の鳥を殺すってことがいかにいけないことなのかを訴えている小説だってことなのだろう。しかし、私は最初に映画を観た際に、実は違う受け取り方をした。それは、単に弱いもの、害をなさない鳥を殺しちゃあいけないと言っているんではなくて、罪なき黒人を貶めることに付和雷同したり、ただ引きこもっている青年を噂だけで恐れるという行為がいかにいけないことか、を訴えており、そういう鳥は殺すのだと捉えられると思ったのだ。つまり、マネシツグミという鳥を優しい声で歌うだけの鳥というのではなく、主体性なくモノマネ的に鳴いて伝播する役割を持つ鳥だと見てしまったのだ◆ところが、小説を読み終えた結果、私の捉え方は作者ハーパー・リーの意図を逸脱した、拡大解釈だということは認めざるを得ない。しかし、あながちそうとだけでもない様な気がしてならない。私の着眼は、モッキングバード=モノマネ鳥という語訳に端を発している。ことの本義を弁えずモノマネすることの非を鳥の名前から連想したわけだが、怪我の功名というべきか、大自然の恩寵と呼ぶべきか、意外に的を外していないと思っている。この本の中で、父アティカスは繰り返し、子どもたちに、相手の立場に立つことが人間として大事だと強調している。単に弱いものを慈しみ、情けをかけることだけが人を突き動かすのではなく、その対象の立場になって考えることが重要だというメッセージだ。その考え方に立って、人種差別や障がい者差別といった間違った考え方をひろめてしまう悪事に手を貸すことはいけない──モノマネは結果的に悪事を広げる、という風に読む大事さと捉えたいと思うのである◆つい先日NHKの人気番組『映像の世紀 バタフライ エフェクト』で放映された「奇妙な果実──怒りと悲しみのバトン」を観た人は打ちのめされる思いを抱いたに違いない。この番組は、「🎶南部の木には奇妙な果実が実る 血が葉を染め 根元に滴り落ちる」との「奇妙な果実」(木につるされた黒人の死体)を歌うジャズシンガーのビリーホリデイの歌声で始まった。アメリカの『タイム紙』は1939年に発表されたこの歌を20世紀最高の歌に挙げた。この小説が描いた、黒人を人間と思わずに簡単に抹殺してしまう1930年代の裁判に見る風潮と、「奇妙な果実」に例えられるほどの悲惨な実態は見事なまでに符合する。同番組では、20世紀後半にかけて広範囲に広がった公民権運動を経て、「変化はいつか起こる」(A change is gonna come)とサム・クックが歌ったように、21世紀になって米史上初の黒人の大統領(バラク・オバマ)が誕生した。しかし、それにも関わらず米社会の変化は未だ起こっているとはいえないとの嘆きで終わっていた◆行き詰まったかにみえる黒人差別撤廃の動きを立ち直させるには、何が必要か。自分本位ではなく、他人のために心を寄せ合う優しさと勇気が欠けていないか。それには人間の生命の平等を真に解き明かした思想哲学があまねく地球上に根付かせるしかないように思われる。ウクライナ戦争、中東でのイスラエルとパレスチナ・ハマスのいつ終えるか分からない憎悪の連鎖を見るにつけても、その感は強く深い。この小説に描かれた好奇心のかたまりの様なスカウトが、映画での仕草がたまらなくいとおしいスカウトが気になって仕方がない。そして小説の著者ハーパー・リーのその後どうなったのかも。映画を観たあと、小説を読んだ後に、このようにまで思わせられるぐらいに不思議な本と映画に私は魅せられてしまった。(2024-5-22)

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【129】謎の鳥「マネシツグミ」を追って━━小説『アラバマ物語』を読む(上)/5-18

 アメリカの作家ハーパー・リーの小説『アラバマ物語』(菊池重三郎訳=1960年刊行)を、同名の映画を観た後に読んだ。グレゴリー・ペックが主演し、アカデミー賞主演男優賞を取った一世風靡の映画だ。「百聞は一見に如かず」で、映像の持つ力は深い印象をもたらし、人の心を揺さぶる。一方、「眼光紙背に徹す」という言葉が示すように、登場人物の心理や感情の動きを表現する小説の持つ力は、読む者しだいで人間存在の奥底にまで迫る。映画で全体像を掴んだ私は、小説で細部を補って、まるでアメリカ社会の陽と陰、表と裏が分かったかのような思いを持つに至っている。この本では、人種差別の悲惨さだけでなく、障がい者差別の卑劣さを子どもの目線から追っている。と共に、父親の子どもへの温かい心情と、強い社会正義感の豊かさを完璧に近いかたちで描いており感動を呼ぶ。1930年代の米国南部の古い架空の町メイコーム(著者リーの故郷・モンローヴィルがモデル)を舞台にしたこの物語は、ピューリッツアー賞を獲得し、数百万部の大ベストセラーになった。読むものの心を揺さぶり感動せしめたにも関わらず、人種差別も障がい者差別も、ある意味で一層深刻になっている。それはなぜか。私はマネシツグミという鳥の存在が解決のカギを握っていると思うのだが。ここではまず、小説のあらすじを追ってみたい◆この作品の主人公ジーン・ルイーズ・フィンチ(通称スカウト)は、小学校に上がる前の6歳。幼き日のリー(出版時38歳)であり、この本の語り手でもある。家族構成は父で弁護士のアティカス・フィンチと4つ上の兄ジェムの3人。母親はスカウトが2つの時に亡くなった。このため、黒人女性のハウスメイド・カルパーニアが食事作りやら躾けまでの母親代わりを務める。そこへ夏休みになると、遠くから近所の親戚の家にやってくるディル(スカウトと同い年)が加わり、3人の子どもたちで遊ぶ。庭にある高い木の上に作った小屋に登ったり、大きなタイヤの内側に入って転がる〈ぐるぐるまわり〉が楽しい。子どもたちの日常を横軸に、父親のアティカスの仕事を縦軸にこの物語は展開していく。子どもたちの最大の関心事は、近所に住む正体不明のブー・ラッドリーという青年の存在。なんらかの心体疾患のために、親が子をいわゆる〝引きこもり〟と〝閉じ込め〟の相乗状態にさせているものとみられている。事情の分からない子どもたちは、その家をあたかも怪物か幽霊の屋敷のように扱っていく。不気味な背景を構成していくのだが、最後で重要な役割を果たすことになる◆一方、父親アティカスについて。ある黒人青年が若い白人女性をレイプしたと濡れ衣を着せられた。その弁護を引き受ける。裁判では彼女の父親ユーイルによる狂言(現実は父親の娘への虐待)ということがアディカスの見事な弁舌で明白になる。しかし、黒人をまともな人間として認めない米南部の風土が決定的に色濃く影響し、白人陪審員たち(黒人はゼロ)はひとりを除いて「有罪」の結論を出す。裁判の一部始終を二階の黒人席でスカウトたちは見ていた。その理不尽な展開に深い疑問を抱く。絶望した黒人は収監先から逃げようとしたところを撃たれて生命を落とす。しかも、弁護士アティカスの公判での追及を逆恨みした〝虐待常習癖〟の父親ユーイルは兄妹を襲う。それを防いだのがブー青年であり、逆にユーイルは死に至るというなりゆきで物語は決着する◆小説の前半部で描かれる小学校一年生のクラス風景は衝撃的だ。21歳の女教諭キャロリンが最初の授業でシラミの登場に慌てふためく。這い出したシラミだらけの髪の毛の主は、粗悪で乱暴な男の子バリス。シラミ騒ぎでの混乱の果てに「席に着きなさい」と、バリスは言われると、「席につけっていうのか、おばさん」と凄む。それをチャックという子が「先生、行かせてやりなさい。こいつは手に負えねえんです。何をしでかすかわからない」とたしなめる。と共に、バリスに向かっては「俺がお前のほうに向きなおったときは、殺されるときだぞ。さっさと帰っちまいな」と脅かす。これには従って帰ろうとするものの「おれがどこへ行こうとおれの勝手だあな!おばさん、おぼえときなよ」と捨てゼリフ。泣く先生を「もうくよくよしないで。お話を聞かせて」と、取り囲んだ生徒たちが励ますという具合だ。実は、バリスはユーイルの子ども。いかに劣悪な生活環境にこの一家があるかが浮き彫りになって、後々の展開の伏線になっている◆私が読んだ「暮らしの手帖社の本」は、表紙のスカウトの写真を始め文中8頁にわたりポイントになる映画のシーンが折り込まれ、楽しませてくれる。小説と映画が一体だ。ただし、当然のことながら映画は短く、誇張されている。黒人メイドのカルパーニアにまつわる部分が小説では大幅にカットされているものの、黒人の教会や牧師についてなど、黒人社会に小説は詳しく触れている。また、小説にはアティカスの姉、つまり伯母が家に住み込みに来るがその役割(レディ教育)は削除されている。重要な違いは小説ではユーイルを殺したのは誰で、どういう経緯だったかが曖昧なまま終わっている。一方、映画は明解にブーが手を下したとしているものの、その罪は問わないと保安官が判断し、アティカスがブーに握手を求めるラストシーンが印象深い。(2024-5-18 =この項〈下〉につづく)

 

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【第1章第6節 「日米相互誤解」がもたらす不幸の連鎖━━R・エルドリッジ『オキナワ論─在沖縄海兵隊元幹部の告白』

 沖縄におけるメディアを痛烈に批判

   赤涙滴り落つとはこのことに違いない。この本を読み終えての正直な感想である。在沖縄海兵隊の政務外交部次長だったロバート・エルドリッジ氏が、意に沿わぬ形でその立場を解かれた事件からもう10年余が経つ。そのいきさつをめぐっての彼の「告白」を今ごろになって知った。事件の顛末もさることながら、彼が当時提起した問題の大半は今なお解決していない。その意味では、改めて日米関係における沖縄の存在を考える契機に、大いになり得る。彼とは私が現役を退いたこの10年余の間に多くの交流の時を持った。しかし、不幸にしてこの「告白」を読まないで付き合っていたためか、肝心要の彼の心の中を恐らく理解しきれていなかった。現役時代の我が持論を、私はただ押し付けるだけに終わっていた。空回りの議論と誤解の連鎖を痛切に反省する。

 ことの発端は、米軍基地前での反対運動の様子を撮影した映像を彼が公開したことに始まる。これが「参謀長の許可なく、メディア関係者と接触した」とのお咎めになり、更迭されるに至った。当初、事実と相違する報道が氾濫する中で海兵隊の名誉が傷つけられたと彼は判断した。映像を公開して真実を伝えたいと考え、行動に踏み切った。ここから沖縄におけるメディア(琉球新報と沖縄タイムズ)の有り様に対して、痛烈な批判の刃を斬り込む。「平和運動家を背後から不当逮捕した米軍の占領者意識というでたらめなイメージ」で、「感情論やレッテル貼りをするような言論には価値を認めません」と、どこまでも厳しい。

 一方で、辺野古移転の根拠にあげられる普天間基地が決して言われるような危険性がないことを丁寧に解き明かし、彼の持論である勝連構想のメリットを強調してやまない。また、かの3-11東日本大地震に際して彼が発案し、実現させた気仙沼市大島での「トモダチ作戦」の防災協力の展開については、今後に繋がる明るい展望として語ることをも忘れない。

 普天間基地での激論が再び神戸でも

 私が彼と初めて会ったのは、この事件の起こる少し前のこと。普天間基地の視察に訪れた私に、現地説明に応じてくれた。その時の会話風景が今も瞼に残る。沖縄での海兵隊による婦女暴行事件の顛末など、私は、日米地位協定の歯痒い現実を根拠に、あれこれと興奮気味に米軍批判を捲し立てた。それに対して冷静沈着な面持ちの彼から、筋道立てた反論がなされた。議論は平行線のまま。それで彼とはお別れしたと思っていた。だが、さにあらず。しばらく経って、神戸の異業種交流・「北野坂会」の場で偶然再会した。両人とも初対面当時の肩書きは変わっていた。そこでまたも論戦が続く。

 幾たびも会うごとに議論は蒸し返された。私は日本のホストネーションサポートに比べて、米側のゲストネーションマナーが悪すぎるとの論法を切り札のごとくに使った。彼は沖縄の「反基地運動」を支える「ペンの暴力」を指弾し続けた。彼が「NOKINAWA(ノーばかりの沖縄)」というので、こちらは「DAMERIKA(ダメなアメリカ)」だと言い返す。論争は果てることはなかった。

 この辺りのことは、拙著『77年の興亡──価値観の対立を追って』の第3章「変わらざる夏──沖縄の戦後」に詳しい。ただしこれは、沖縄における彼の隠された振舞い(不幸な女性を救う活動に挺身していた)を知って、大きく揺らいだ。米帝国主義を紋切り型に一刀両断するだけでは通じない、自由で広いアメリカの良心の体現者としての側面を見逃していたのではないか、と。そして今回この古い「告白」を読んで、自論に変更を余儀なくされるものが湧き上がってきたことを告白せざるを得ない。

 随分と回り道をした。何がこうさせたのか。私の「新聞記者稼業」への執心か。それとも「国会議員特有の傲慢さ」か。はたまた「被占領国民の植民地根性」か。沖縄における新聞メディア両翼のペン捌きを左翼イデオロギーのなせるものではなく、「沖縄ナショナリズム」のためだと、強く見過ぎたせいかもしれない。もう一度、根底から日米沖の関係を考え直して欲しいと、この本が呼びかけているように聞こえてくる。

【他生のご縁 交流は地元から全国まで幅広く】

 ロバート・エルドリッジさんは兵庫県川西市在住。ある時、地域の問題で相談したいので、誰か市議を教えてくれと頼まれました。紹介した江見輝男市議(故人)と交遊が深まり、後に市議選に際して彼の応援演説までして貰う仲になったと聞き、喜んだものです。

 ご自宅を先年、江見市議と共に訪れました。私が関心を持つ話題をだすと、直ちに関係者の名刺や資料を引っ張り出してくれました。それは国会周辺から島根・奥出雲、福岡・北九州市へと実に幅広く奥深いものがあり、学者を超えた人間力の厚味ぶりを垣間見ました。

 彼の伴侶の永未子さんとも度々お会いしました。着物姿がよく似合うとても素敵な女性です。異業種交流会に連れ立って顔を出された際に、つい激論になったしまう我々2人を和かに見守ってくれていました。

 

 

 

 

 

 

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