【54】7-② ものごとの本質を追う真摯な姿勢━━田原総一朗『創価学会』

◆テレビ出演で「挑発」にハマってしまった私

 ひとまわりほど歳上のジャーナリストの田原総一朗氏のことを、私はかつて畏敬の念を持って見ていた。新聞記者願望の強かった私ゆえ、その道の大先輩として憧れていたといってよい。特に取材対象を追い詰めるその手法の鮮やかさには惚れぼれする思いだった。ただし、こちらが政治家になって、勝手が違った。2回ほどテレビで彼の番組に出て、この人お得意の「挑発」を受け、まんまと嵌ってしまった。屈辱感を味わった。それ以来どうも好きになれない。他にも理由はあるのだが、ここでは触れない。

 そんな私だから、テレビの司会番組は観ても、彼の著作はあまり読まずにきた。ただ、『創価学会』については読まないわけにいかない。むかしよく見た懐かしい映画をDVDで見直すかのように読んだ。この道60年の辣腕の人がもたらす手際の良さには唸るばかり。ただし、この人らしいツッコミが足りないところも指摘せざるを得ない。

 田原氏がこの本で解き明かそうとした重要な関心事は2つ。一つは「来世は本当にあるのか」との思想・哲学的関心。もう一つは「創価学会が『深刻な危機』を幾度も経験してきていながらその都度乗り越えられたのはなぜか」との組織論的関心。前者は池田先生との対談で極めて興味深い答えを聞き出したことを明かす。後者は、池田先生と会員一人ひとりとの絆の確かさにあるとの実態を彼は発見した。これに付随する展開を追いながら、ものごとの本質を追う真摯な著者の姿勢に強い感銘を受けた。ほぼ60年程創価学会員として生き、公明党に深く関わってきた人間として、多くの新たな気づきをも得ることが出来た。子どもや孫、友人たちに読ませたいと心底思った。

 ◆〝得意のツッコミ〟の足らなさ随所に

 一方、自民党を批判してきた公明党が今や連立政権を組むに至っていることを、リアリズムに徹したリベラリストの田原さんはどう見ているか。時系列的に追ってみよう。初めて連立政権を組んだ1999年10月の自自公内閣発足時。「(自民党を腐敗政党と批判してきたのに)明らかに豹変であり、私には納得し難い」。世間を分断する賛否両論が飛び交った2015年9月の安保法制成立時。「(自民党のブレーキ役を演じている)公明党がこの姿勢で頑張るかぎり、私は公明党を支持する」──16年後の見立ての変化の謎解き──原田稔会長とのやりとりが興味深い。

 立正安国という信念を持ちながら、どうして日本の政党で一番腐敗している自民党と連立するのかと、田原氏が訊く。それに会長は「連立することで、庶民目線を政治に反映させ、また、政治を浄化させることを目指したのでは」と答える。田原氏は「全然浄化できてないじゃない、どうしてそんな自民党とくっついているんですか」とたたみ込む。会長が「おっしゃられることはよくわかります(笑)」と述べた後、政治の安定の必要性から見て、果たして連立から公明党が外れるのがいいのかどうか、「慎重に(公明党には)考えながら進めてもらいたい」と答える。そこで田原氏は矛を納めている。

 かつて山口代表との対談本で、安倍元首相のいわゆる「モリ、カケ、さくら」問題を取り上げたくだりがあった。あの当時、「さくら」について、安倍さんと山口代表との新宿御苑での壇上でのツーショットが話題になっていた。それだけに田原氏のツッコミには緊張感を持って読んだ。しかし、ほとんど彼らしさがない中身だった。いつもの彼とは違って甘い田原氏が浮かび上がってこざるを得ない。恐らく根っこは人がいいに違いない。この本の締めくくりは「世界広宣流布に挑戦し続ける創価学会がどこに向かうのか。池田が育ててきた弟子たちの動向に、これからも注目していきたい」と結ばれている。

【他生のご縁 テレビで「冬柴さん」と呼ばれて】

 田原総一郎さんのテレビ番組に、出た時のこと。あれこれやりとりした最中に、私に返答を促す際に、「ふゆしばさん」と明確に問いかけられました。瞬時、私は、「赤松ですよ」と大きく言い返しました。彼は、バツが悪そうに「ああ、失礼」と言ったように聞こえました。その後、直ぐコマーシャルタイムになったので、その合間に「田原さん、酷いですねぇ。わざと言ったでしょ?」と伝えました。尊敬する先輩に間違われることに、目クジラ立てずともいいのでは、ということもあるかもしれません。しかし、名札も付けているし、似てもいない私に大きな声で違う人の名を呼ぶのは、失礼千万です。

 また、私が初めて出版した本を田原さんに届けたことがあります。ぜひ一読してほしいと思ったからですが、なしのつぶて。いちいち反応はしておれないということでしょうか。

2023年12月5日の正午過ぎ。上京中だった私は後輩の公明新聞のT 記者とランチを食べるべく、第一議員会館の地下食堂に行きました。入ってすぐのところに田原さんが座っておられました。私は直ちに、上に述べたような過去の思いをぶつけました。遠い過去のこと、恐らくわからなかったのでしょう。それには答えず、「アメリカとの関係が大事だよ、公明党頑張って」とだけ。嗚呼。

 

 

 

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【53】5-④ 映画に歌に昭和を駆け抜けたマイトガイ──小林旭『さすらい』

◆息を飲みっぱなしの連続活劇

 長嶋か王か?若乃花か栃錦か?〝戦後第一世代〟は、プロ野球、大相撲の人気を二分するスターに熱中した。そして映画や歌の世界では、裕ちゃんかアキラか?の選択が今になお続く。石原裕次郎と小林旭。残念ながら裕次郎は52歳で逝ってしまったが、アキラは芸能生活60年を超えて未だ健在。ここで、芸能人を取り扱うのは初めてだが、何を隠そう、私は学生時代に日活調布の撮影所にエキストラのバイトで通ったし、後述するように彼の歌ともご縁がある。そして『渡り鳥シリーズ』の脚本を書いたとされる、後の原健三郎衆院議長は郷土・兵庫の大先輩である。様々な思いをめぐらせながら、「小説風自伝」を一気に読んだ。

 若かりし頃のアキラのタフぶりは、ともかく凄い。「大部屋時代」のバットで襲われるシーン。思いっきり振られたバットが彼の腹の腹筋力で真っ二つに折れた(という)。いくらなんでもこれは怪しい。しかしそれもあるかも、と思わせるような話が次々登場する。

 「渡り鳥誕生」のアキラが殴られて2階から落ちるシーン。吹き替えをやってくれた鳶職人が大腿部骨折をしてしまう。病院に見舞いに行くも、「痛ぇよ、痛ぇよ」と唸り声が聞こえてきた。いらい、自分で痛みを感じる方がまだマシ、と一切吹き替えなしですませたという。保険会社も恐れて逃げたとの逸話も本当だろう。「命知らずのマイトガイ」では、八路軍に殴り込みをかけるシーンで、爆発係の手違いのため相方の左足が大腿部ごと吹き飛んだ。アキラ自身も生死を彷徨って、首の骨を折る寸前の大事故を起こした。息を飲みっぱなしの連続活劇は、怖さをもともないつつ実に面白い。

◆迫力溢れる「日本映画論」

 やがて「昭和42年」に大きな転機がきて日活をやめる。その際に展開される「日本映画論」が実に迫力に満ちていて、この本の白眉である。一言でいえば、作る側も観る方もアメリカ映画に魂を奪われ、骨抜きにされてしまったということに尽きる。アキラは「アメリカにしてやられた」責任は、「先を読めず目先のことに奔走し、セコい作りをし始めていた日本映画界にある」と断罪する。「映画が斜陽だからといっても、まだまだその流れを食い止め、我慢して来る時を待つという手はいくらでもあったのに、ロマンポルノだとか目先の利益ばっかり追いかけた結果、今なお続く映画不毛の国になってしまった」と、手厳しい。

 この本の出版は20年ほど前だが、この流れは止まってはいない。昭和30年代まで日本映画界は、黒澤明、小津安二郎、溝口健二ら枚挙にいとまがないほどの巨匠たちが輩出した。アキラの演じたアクション映画の世界も然りだ。今では欧米どころか、韓国にもすっかりお株を奪われた感がして悔しい限りだ。

 映画界を去ったアキラは事業に手を出し、大火傷をする。いや、その前に、美空ひばりとの結婚(昭和37年)という一大イベントがあって、「公表同棲から理解離婚」の章が一部始終を物語る。世紀の大歌手とのカップルには私も心底驚いたものだが、裏話は興味津々だ。慣れぬ事業の失敗で巨額の負債を背負うものの、へこたれぬ姿は胸を打つ。さぞかし辛かったに違いない。そして、ひょんなことから本格的に歌手への道が開く。

 きっかけは、一世風靡の曲『昔の名前で出ています』だった。私はカラオケは苦手だが、ある時、仲のいい後輩からアドバイスを受け、この曲を練習した。せっせと歌ううちに段々それなりに様になってきた。そのうち、何を歌っても、声が、節回しがアキラにそっくりとまで言われるようになってしまう。その噂が当のご本人周辺に届いてしまった。選挙の初挑戦で落選し、苦節4年の後に当選するまでの間に、アキラの4曲を部分的に替え歌にした。それがなんと、彼の前で私が歌うことになったのである。その顛末はまたの機会に譲りたい。(敬称略)

【他生のご縁 一緒に歩きながら替え歌を唄う】

 私が替え歌にした小林旭の4曲とは?「私の名前が変わります」「ごめんね」「もう一度一から出直します」「お世話になったあの方へ」です。最初のは、選挙に出るにあたり、私の仕事が変わるということに引っ掛けました。次のは、みんなに応援いただきながら落選してしまってごめんなさいとの意味に変えました。三つ目は、文字通り、落ちた時の心境です。最後のは、応援していただいた皆さんへの感謝の言葉です。時に応じて、カラオケで歌っていました。

 アキラさんの曲を私が歌うのを聴いた仲間が、噂していたのが、ある著名な方の耳に入りました。その人は、知る人ぞ知る小林旭の友人で、毎年年末恒例の「小林旭ショー」に幾人もの知人を招いていました。そんなときに、私に白羽の矢が立ちました。会場を移動する際に、挨拶もそこそこに「アキラさん、私の替え歌聞いてください」と言いつつ、触りの部分を歩きながら歌ったのです。「うーむ。俺の歌をそんな風に歌ってくれるの、あんただけだねぇ」と、感心されたのはいうまでもありません。天下のアキラと並んで歩きながら、彼の持ち歌を替え歌にせよ、聞かせるとは。我ながら呆れると同時に、誇りに思っています。

 

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【52】4-① ものづくりは何処へいったのか──内橋克人『新版 匠の時代』

◆「市場原理優先」への反抗心

 神戸新聞で先年連載されていた『共生の大地へ 没後一年 内橋克人の歩いた道』で改めて内橋さんの凄さを知った。この人は、同紙記者を7年ほどの間勤めた後にフリーのライター、経済評論家になって、88歳の死の間際まで書き続けた。世に最も知られているのは『匠の時代』全12巻だが、その仕事はひたすら市場原理優先の政治経済への反抗に貫かれ、ものづくりにこだわり、人びとの「共生」への道を探し求めたことに尽きるだろう。

 神戸が生み出したジャーナリストの先達として、かねて畏敬の念を持ち続けてきた私とも交流の接点があり、それを大事にしてきた。今でこそ、政権与党の一翼を担う存在であるが、かつて反自民の中核であった公明党とも内橋さんはそれなりの絆があったのだが、この20年はいささか遠い存在になったのは口惜しい。今に健在ならば、その辺りについて弁明をしつつ、教えを乞いたかった。

 実は『匠の時代』を読むよう私に勧めたのは、市川雄一元公明党書記長だった。市川さんはNHKの人気番組「プロジェクトX  挑戦者たち」の主題歌・中島みゆきの「地上の星」が大好きだった。そのわけはこの歌詞のこの部分だと、しばしば講釈を聞かされたものだ。内橋さんとほぼ同世代の市川さんは、新たなものを生み出す挑戦の姿勢を共有していたように思われた。TV番組は一世風靡したが、この本の刊行はそれより遥か前のことである。

 再読したのは、岩波現代文庫全6巻の新版。「余りに多くのことを語らねばならない」との書き出しで始まる「諸言」が胸を撃つ。記述は、2011年3月20日の夜。あの東日本大震災、福島第一原発事故に直撃された9日後のことだ。ここで、特に印象深いのは、このシリーズに著者が取りかかってから35年を経ており(現実には更にその後の10年がプラスされる)、「(この間に)日本社会と経済・産業・技術のすべてが、姿も本質も、歴史的に入れ替わってしまったように思われる」と書かれていることだ。

◆地から空から「もう待てない」との声

 「失われ続ける」日本の現実を横目で見ながら、この本に出てくる栄光の匠たちの姿を追う。世界初のクオーツ腕時計、電卓の開発。汚水、海水をも真水に変えてしまう「逆浸透膜」を可能にした東レの超極細繊維。世界に誇る新幹線の技術、「人のいのち」を救う人工透析の技術などなど、限りなく眩しい技術発掘の歴史が続く。内橋さんは、「技術と人のどんな〝めぐり合い〟あって誕生したものか」と問いかけ、答えを求めて、この本を書き始めた。それが、今やすべてが変容してしまった。「グローバル化時代の当然の帰結という宿命論が通念となった」という結論で済ませていいのだろうか。

 かつて、かの戦争に負けて欧米の技術との差を思い知らされ、日本は立ち上がった。苦節30数年を経てバブル絶頂期を迎える。そして今、半導体を始めあらゆる分野で、中国の後塵を拝し、台湾、韓国に並ばれた。今再びの技術差に喘ぐ。「『市場主語』ではなくて、『人間主語』の時代へ向けて、『匠たちよ、再び』と呼びかけたい」との内橋さんの声がぐっと胸に迫る。

 私はこの人のNHKラジオ第一での朝のニュース解説にいつも聞き入った。フーズ(食料、農業)、エネルギー、ケア(介護、コミュニティ)の頭文字を取った「FEC(フェック)自給圏構想」を提唱し、この三つは市場原理に委ねてはならない、市民が手放してはならないものだと、力説されたものである。こうした言葉の数々を聞くたびに、政治の現場を預かるものの一人としてその非力が恥ずかしかった。

 公明党が世に出て60年。前半は庶民大衆の声を真正面から体して闘った存在であったことは紛れもない。だが、後半の30年は、格差拡大が止まらない。中流層の下流化が懸念されている。グローバル化の帰結やら、失われた年数の増大を自民党のせいだけにはできない。一緒に政権与党を構成してきた責任も問われよう。保守政治の悪弊を中道化の波で変えていくので、今しばらくの猶予をと言い続けて、久しい時間が経った。もう待てないとの声が地の底から、空の闇から聞こえてくる。

【他生のご縁 「神戸空襲を記録する会」】

 「神戸空襲を記録する会」という団体があります。先の大戦での神戸空襲で犠牲になった人々の慰霊祭を毎年開催する一方、死没者の名簿を収集確定する作業を進めてきました。1971年から始まり、2013年には神戸市大倉山公園に慰霊碑を作りました。その第二代会長になったのが、私の高校同級生の中田 政子(故人=旧姓三木谷政子)さんです。この本の挿絵を描いてくれた冨士繁一君共々高校時代からの仲間です。

 この会に神戸新聞出身の内橋さんは多大な応援をしてくれ、2015年5月17日には神戸で『『戦後70年」を抱きしめて──「再びの暗い時代」を許さない』という印象的な講演もしてくれました。公明新聞時代に僅かなご縁もあった私は会場でお会いし言葉を交わしました。中田さんの業績は甚大なものですが、常々内橋さんに精神的支柱になって貰ったと、口にしていたことを記憶しています。

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【51】全文を英語で読みたくなる──岡田光世『ニューヨークのとけない魔法』を読む/9-23

 この本を読むきっかけは、公明新聞の文化欄だった。そこでは、『ニューヨークがくれた私だけの英語』というタイトルの新刊本を紹介していた。中学英語ですべてオッケーといった言い回しが気に入り、本屋に行って、立ち読みした。なんだ、違うじゃないか、が直感的な印象。当方の勝手な思い込みと違って、日本語ばかりが目立つどこにでもありそうな体験記と思え、読む気は失せた。ただし、著者の人物像に好感を持ち、本屋の上の階にある図書館に行き、『ニューヨークのとけない魔法』を借りることにした。全8巻もあるシリーズの第1冊目である▲読みやすく、とても面白い。いっぱしのニューヨーク通になったような気になる。実は私はアメリカ本土には3-4回行ったが、ワシントンが多くて、ニューヨークは一度だけ。そんな人間でも馴染みのあるセントラルパークと、エンパイアステートビルについての記述が気になった。「セントラルパークの丘にすわっていた数人のために、デービッドはギター片手に歌い始めた」で始まるその一文は、That’s what Central Park is all about.   まさにそのためにセントラルパークはここにあるのだ。で終わるのだが、そこに至るまでの文章展開が切なく、胸に響く▲「エンパステートビルの灯」なる一文も。──時に応じてライトの色具合が変わる。同ビルの管理事務所には、昨日の夜のライトは何を意味してたの?との問い合わせがくる。年老いた未亡人と思しき女性からいつも電話があった。I feel like I’m in touch with the world.   世の中と接触があるように感じるのよ、とそのおばあさんは言っていた。が、ある日からその電話が途絶えてしまった。著者は「夜のエンパイアステートビルを見上げる時、私は会ったこともないそのおばあさんが、ひとり窓辺にたたずみ、カーテンの隙間からそのライトを眺める姿を思い浮かべる」と結ばれる▲「世界一お節介で、おしゃべりで、図々しくて、でも憎めないニューヨーカーたち」の立居振る舞いが、とても変わっていて不思議に思えるということが、「ニューヨークの魔法」だというのだが、これって、人種の坩堝といえる場所柄だからだろう。東京との比較が随所に顔を出すものの、アメリカという国がみなこんな風とは違うはず。要するに、世界中からやってきた寄せ集めの人々に構成されるニューヨークの特殊性だと思われる。ともあれ1巻を読み終えて、続けて読みたくなった。ついでに、一文だけの英語ではなく、丸ごと英語で書いてくれないかなあと、魔法にかかったように、ろくに読めないくせに思ってしまう。(2022-9-23)

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【50】稀代の名文家の足跡を追う金婚旅──志賀直哉『城崎にて』を読む/9-17

 若き日に志賀直哉という作家に取り組んだ時期がある。文章研究の一環として、『城崎にて』とか『小僧の神様』などの短編を読んだものだ。後に、長編『暗夜行路』にも挑戦した。人生最終盤になって再び『城崎にて』を取り出したのは他でもない。私ども夫婦が結婚50年の佳節を迎え、どこかに行こうかとなって、兵庫の名湯・城崎温泉を目指し、ついでにこの著名な作品の再読となった次第である。温泉・酒好きの妻の思いとは別に、私の密かな目的はこの作家の跡追いにもあった★この短編は、著者が交通事故(山手線の電車に跳ね飛ばされた)に遭って傷ついた身体を癒すために、この地に逗留した際の実話に基づく。3週間にも及ぶ長逗留の無聊の気まぐれに目にした、蜂、鼠、いもり、蜥蜴など小さな生き物の生と死の描写に過ぎないのだが、名作の地位を不動にしたのはなぜだろう。それはひとえに、〈死ぬはずのところを助かり、何かが自分を殺さなかった、自分にはしなければならぬ仕事があるのだ〉との思いが支配していた時に、生き物の儚さを見たからに他ならない★生と死は両極でなく、「それほどに差がないような気がした」との表現が終わり近くに出てくるが、それこそ、仏教でいう「生死一如」を悟ったということと思われる。私自身も、幼き日に祖母と一緒に伯母の家に行った際に、祖母が急死したことが強い衝撃になった。また、中学校の理科の時間に、蛙を解剖すべく机の端に蛙を叩きつけて殺したことが妙に後味の悪い印象として胸に残り、いまもある。また、つい先年、地域のお堂の脇に生えていた大きな古木を切り倒した際に、その生木の悲鳴が聞こえた(気がした)。こんなことがらがまざまざと時空を超えて甦ってくる★志賀直哉については、奈良にある彼の住居跡を見学したことや、3週間もの温泉療養を思うにつけ、豊かな生活ぶりが気になる。私たちの金婚旅は、わずかに一泊。彼我の差に考え込んでしまう。僅かな散策先に城崎文学館を選んだところ、この地に彼が来てこの小説を書いたことが、今になお〝地域おこし〟の糧になっていることに複雑な思いを禁じ得ない。私たちが訪れた日から25日までの11日間、『豊岡演劇祭2022』が始まった。偶々城崎温泉駅でもスイッチ総研なる演劇集団の観光列車「うみやまむすび」を使っての劇のリハーサルとぶつかった。直哉に代わって、大成功を祈りつつ、一日一本の「はまかぜ」の人になった。(2022-9-17)

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【49】中秋の名月にふさわしい──『竹取物語』を読む/9-10

 9月10日は中秋の名月にあたる満月でした(わが地域では曇天で見えず)。偶々、月にゆかり深い『竹取物語』を読みましたので、それにまつわるお話を。先月のNHKテレビ「100分de名著」で『竹取物語』を取り上げた木ノ下裕一さん(木ノ下歌舞伎主宰)の解説を聞いたのがきっかけです。この人、実にうまいしゃべり口調でした。テレビの後、テキストを読みそして原作を改めて読む気になりました。読後、ぜひ孫たち始め、まわりの子どもたちに勧めたいと思ったのです★この物語こそ日本の読みものの原点でしょう。成熟した大人たちの原点が『源氏物語』なら、こっちは未来ある子どもたちの究極の古典かもしれません。いわくつきの月からの使者・かぐや姫が竹の中に生まれ落ち、やがて言い寄る5人の男たちを手玉に取るといった経験ののちに月に戻るってお話ですが、まさに宇宙を股にかけた壮大なストーリーに魅惑されます。幸か不幸か私はシャーロック・ホームズ的冒険推理小説の世界に魅了された少年時代で、こんなSF(空想科学小説)もどきのものとは無縁でしたが★木ノ下さんは、この物語から「小さ子物語」「異常出生譚」「長者譚」「婚姻譚」「貴種流離譚」などといったさまざまな物語におけるパターンが織り込まれていることを明かしています。さらに、「かぐや姫、月、神秘、竹」などといった物語の設定にすべて意味があることなど、小説作法の入門書の趣きがあるとも語っていました。そして、生きづらさを感じがちの現代の子どもたちにとって、この物語を辛さから逃げ込むための入り口にして、小説、物語の世界にのめり込むことを勧めているのです。私の身近にも自殺願望の強い少女がいますが、何とかそこから救い出すためにも読ませたいと思います★そんな思いで見えぬ月を見上げている時に、残念ながら胸を去来するのは、老老介護に迫られているわが(正確には妻ですが)現実です。亡くなったエリザベス女王と同年齢の義母と同居しているのですが、いま彼女を責め苛んでいる(であろう)ことは、「被害妄想」です。これって、ある種マイナスの想像力の極致といえようかと思います。そんな身内の惨めな姿を見るにつけ、想像力がなまじっかあるために〝狂う〟のであって、無い方がどんなにいいかと思わずにいられません。健康な状態で歳を重ねることがどんなに貴重で難しいかに悩みつつ、見えぬ満月を想像力で見上げつつ考えてしまいました。これを書き終えた直後に埼玉・行田市に住む友人から見事な満月の映像が届きました。(2022-9-10)

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【48】4- ③ 忘れ難いラストバンカーとの因縁── 西川善文『仕事と人生』

◆衆議院総務委員会での出会い

 ラストバンカーこと西川善文さんが亡くなったのは、2019年の9月11日。生前に同氏が受けておられたインタビュー(2013年11月-2014年2月)をもとに、出版された『仕事と人生』を読んだ。この本を読むきっかけは、大阪のある中小企業(食品スーパー)の従業員の皆さんを前に、同じタイトルでお話をする機会が予定され、参考にしようと思ったことが一つ。もう一つは、この人と私には、一つだけだが忘れ難い接点があったからだ。

 それは衆議院総務委員会の場でのこと。日本郵政公社社長としての西川さんに同委員会への出席を願ったのだが、その時の委員長が私だった。三井住友銀行の頭取を終え、郵政民営化直後の中枢として活躍をしておられた同氏。そして、私たちにはそれなりの因縁があった。

 それは、私が銀行マンの倅であったということである。親父の背中を尊敬の眼差しで見ながらも、到底乗り越えられないがゆえに、私は銀行を就職先に選ばなかった。親父が私に銀行員になって欲しかったことは折りに触れ、陰に陽に聞かさていた。だが、その道に入ることの厳しさ、辛さをそこはかとなく知っていた私は、断じて避けたかった。親不孝者である。そんな私は、あろうことか親父が最も気に入らなかった「新聞記者の道」を選んだ。しかも、宗教団体が作った政党の機関紙という、およそ銀行とは縁遠い位置にある「仕事」をすることにしたのである。それには〝巡り合わせの妙〟があるのだが、ここでは触れない。2008年秋のこと、私の高校の同期A君と後輩S君が住友銀行出身で、入社当時に西川さんの厳しい訓練を受けた身であったことも手伝い、ひと夜、4人で「仕事と人生」を語り合いもしたのである。

 ◆失敗したら責任は自分が負う気構え

 この本は、「評価される人」「成長する人」「部下がついてくる人」「仕事ができる人」「成果を出す人」「危機に強い人」の6つの章からできている。亡くなられてから、急遽遺稿を、ということで、慌てて用意されたことが見え見えではある。生前に出された、バンカーとしての回顧録と、日本郵政との取り組みへの意欲を示されたものとの別の二冊の方が重い価値を持つ、とは思う。しかし、より率直に西川さんのお人柄が滲み出ているのはこの本だろうと睨んだ。

 例えば、「わかしお銀行との逆さ合併」についてのくだりが興味深い。ご本人も正直に「私自身、『奇策』と言われるような『逆さ合併』などやりたくなかったが、生き残るためにはしようがない」と、述べている。「感傷的な思いを押し切り、私は住友銀行の法人格を消滅させた」と、小さい下位の企業を残し、大きい上位の方を切った経緯を明かす。ここにこの人の真骨頂がうかがえよう。「失敗したら責任は自分が負う」との強い気構えである。

 この本をつぶさに読んで、私には到底真似が出来ないことばかりだと、早々に白旗を掲げた。と同時に、私の仕事上のボスであり、上司であった市川雄一公明党書記長(元公明新聞編集主幹)を思い出す。このふたり、眼の鋭さが酷似していた。私とは正反対に6つのことがすべてできる人だったことは多くの人が認めよう。

 その市川さんが常日頃口にしていた言葉で忘れ難いのは、「百人ほどを超える部下を持ったことのない人間に、真の意味での政治家は務まらない」というものがある。家族を含め生身の人々の生活をどう守るかということが寝ても覚めても気になる──こういった経験を持たない人間の責任感はたかが知れている、と。

 それを聞くたびに、百人はおろか、まともな数の部下を持ったことのない私は恐れを抱いた。尤も、会社社長経験者なら政治家は務まるのか、と内心呟いたのだが。市川さんは、親父やじいさんから地盤、看板、鞄を継いだに過ぎない2世、3世議員を批判したかったのだろう。西川さんも政治家になっていれば、いい仕事をされたに違いない。

【他生のご縁 「西川学校」で鍛えられた友人たち】

 私の高校同期のA君と一年後輩のS君は共に京大卒で、住友銀行に勤めていました。A君とは中学から一緒。S 君は熊谷組に出向して再建に尽力した強者。どっちもとても優秀な男たちでしたから、西川さんが二人を知らないはずはないと思って、国会の委員会の場でお会いした時に、聞いてみました。ドンピシャでした。入行した時の幹部候補生を鍛える担当が西川さんで、飛び切り念入りに指導訓育されたようです。ぜひ4人でお会いしましょうということになり、A、S両君とも実に久しぶりに会うことが出来たのです。

 この時の話題は野球のことを始め多岐にわたり、まことに楽しいひと夜になりました。西川さんが猛烈な阪神ファンだったことに、南海贔屓だった私が〝セパの違いの講釈〟をたれました。この出会いを通じて私は親父を思い起こさざるをえませんでした。父は旧神戸銀行に一生を捧げたのですが、当時ひたすら仕えた〝岡崎忠頭取いのち〟の人でした。生きていれば西川さんとの出会いを喜んでくれたはずです。銀行員になることを嫌った私が、岡崎さんのずっと後の三井住友銀行頭取と一献傾けるに至ったことに。

 

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【47】②-1 「吉田」ドクトリンは永遠か──永井陽之助『新編 現代と戦略』

 

◆「非核・軽武装・経済大国」路線

 世に「棺を蓋いて事定まる」(人の真価は死後に定まるという意味)というが、事はそう簡単ではない。安倍晋三元首相が狙撃死に遭ってから1年余り、その評価は依然定まりそうにない。彼の死の直後に書いた論考(朝日新聞Webサイト『論座』)において、私は、光と影の両面からその政治的足跡を評価した。光は、混迷する国際政治の中で発揮された外交的手腕。影は内政面での反民主主義的ともとれる強権的手法。このうち、前者について、考えをめぐらす中で、吉田茂元首相との対比に思いが至った。興奮覚めやらぬ中で、岸田首相が「国葬」を決めたことから、1962年当時の吉田のケースと対比されてきたが、私の関心事はそれではない。日本の戦後外交史における吉田、安倍の果たした役割について、である。

 吉田茂といえば、「吉田ドクトリンは永遠なり」との言葉を世に広めた政治学者の永井陽之助『現代と戦略』(1985年3月出版)を思いだす。世に出てから(初出は文藝春秋1984年1-12月号連載)、もう40年近くが経っており、国際政治学における古典といってもいい位置にあるとの評価が一般的だ。再読を思い立ったのは他でもない。この本は、読む角度を変えると、元外務省高官の岡崎久彦批判の書でもある。そして、岡崎といえば、安倍晋三元首相のご意見番ともいうべき親密な関係であったことはよく知られている。2016年発刊の「新編」(第一部)の方には、岡崎による反論と共に、永井との対談「何が戦略的リアリズムか」(1984年中央公論7月号)も併せて巻末に収録されており、極めて興味深い。遠い昔に読んだ記憶を後追いしつつ、「新編」を追った。取り扱われている素材は勿論、古い出来事ばかり。だが底に流れるものの考え方、掴み方は今になお有効であり、大いに参考になる。

 永井はこの書の中で、吉田の「非核・軽武装・経済大国」路線を長く受け継がれるべきものとして位置付けた。確かに、吉田の用いた路線は、ドクトリンと呼ぶかどうかは別にして、この40年というもの、日本の国是とでも言うべき位置を形成してきた。しかし、改めてこの書を追っていくと、岡崎久彦への言及が目立つ。偶々、彼が『戦略的思考とは何か』を発表した直後でもあり、2人の間での積年の議論の焦点が改めて浮上したといえよう。

◆「政治的リアリスト」と「軍事的リアリスト」

 永井は「政治的リアリスト」の自身に対して、岡崎を「軍事的リアリスト」と見立てて、多様な角度から論じている。とりわけ、「日本の防衛論争の配置図」(座標軸)は、論争的興味を惹きつけてやまない。永井からすると、アングロサクソン(米英)絶対視の岡崎への批判の眼差しが伺える。岡崎からすれば、吉田路線への反発があり、2人は食い違う。

 慶大教授の細谷雄一は、安倍がかねて吉田ドクトリンを「安全保障についての思考を後退させた」と、否定的に捉えていた(『新しい国へ』)ことを紹介。その上で、「より厳しい世界の現実に直面する勇気を」持つものとしての「安倍ドクトリン」を推奨している(中央公論2022年9月号「宰相安倍晋三論」)。永井が岡崎を否定的に捉える背景には、軍事的リアリストの立ち位置に、フランスのド・ゴール元大統領風に自国の栄光を追う、日本型ゴーリストの影を見たからではないか、と私は見る。

 40年前と違って、吉田の定めた路線を取り巻く環境は激変した。安倍の捉え方が、より正鵠を射てると思う向きは左右の立場を問わず多いように思われる。先の永井版「座標軸」で、「福祉と自立」重視のグループに組み入れられていた公明党も、その後大きく安保政策を転換した。「同盟・安全」重視の政治的リアリストの仲間入りをして久しい。今、永井ありせば、こうした変化を何というか。それでも「吉田ドクトリンを忘れるな」というに違いない。(敬称略)

【他生のご縁  謦咳に接し得たのは生涯の誇り】

 菅義偉と菅直人──首相経験者の2人が共に、永井陽之助先生に影響を受けたことを国会の場でそれぞれ口にしたことがあります。また、渡辺喜美氏(元みんなの党代表)も菅直人氏への質疑の際にわざわざ取り上げていました。このうち、菅直人氏は東京工大の出身ですが、後の2人は法政と早稲田。どちらも学外から講義を聞きに行ったと思われます。それほど、先生の講義は当時の学生に聞き応えが轟いていたということでしょう。

 遠い昔のことゆえ、慶大での講義の中身は定かではありませんが、私もその謦咳に接したことを生涯の誇りにしています。先生は総合雑誌『潮』にしばしば寄稿されており、公明党についての理解も同誌を通じてのことだったように思われます。私が大学卒業後初めて先生とお会いする機会も同誌関係者による懇談の場でした。先生は後年青山学院大に移られましたが、そこでの門下のひとりに防衛研究所の長尾雄一郎君が加わり(国際政治学博士)ました。彼はかつて私が激励した創価学会高等部員だっただけに、ことのほか嬉しい出来事でした。残念ながら47歳で同研究所第一室長の時に亡くなってしまったのは痛恨事でした。

 

 

 

 

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【46】未だ日本は「米軍の占領下」という現実──山本章子/宮城裕也『日米地位協定の現場を行く』を読む/8-20

 結党当時からの公明党を知っているものにとって、在日米軍基地というとすぐに思い出すことがある。「総点検」である。米国の占領、朝鮮戦争の勃発、自衛隊の発足、日米安保条約の発効から改定と進んだ、戦後20数年の歴史は、思い返すと即米軍との〝内なる戦いの連続〟であった。戦火を交えた国との関係は直ちに収まり変わるものではない。日米軍事協力の基礎である基地の実態を調査点検し、不必要なものは返還してもらおう──これが初期の公明党の発想だった▼1965年(昭和40年)に大学入学と同時に公明党員になった私は、〝調査なくして発言なし〟というこの党の姿勢に痺れる思いで共鳴した。あの頃から60年足らず。米軍基地の現状は残念ながら殆ど変化しているようには見えない。米軍人の犯罪を日本の司法が裁けない。航空機そのものの墜落や落下物も後を絶たない。騒音被害や環境汚染も止められない。これらすべて「日米地位協定」が邪魔をする。私は1993年(平成5年)の初当選いらい、20年間というもの、ほぼ全期間を外交・安保分野で仕事をしてきた。その間、この「協定」の壁に遮られ、幾度となく溜息をついてきた▼要するに日本、公明党、そして我が身の力不足を実感してきたのである。この本のサブタイトルは、「『基地のある街』の現実」。これは、かつて公明党の先輩たちがやった調査をもっと細かくさらに徹底して調べ上げたものだ。著者はふたり。大学准教授と新聞記者。特に前者には沖縄研究奨励賞、石橋湛山賞を受賞した『日米地位協定』なる著作があり、既にこの欄で取り扱っている▼この本を実際に手にするまで、山本さんが沖縄の基地を徹底して歩き書いたものと誤解していた。現実には全国北は三沢から、南は嘉手納基地まで7箇所(首都圏は一括り)が対象になっていて、沖縄はそのうちの一つだけ。その点は失望したが、それは私の勝手な思い込み。改めて、日本全国が米軍のもとで金縛りにあっていることがよくわかった。日本は未だに米軍の支配下にあるのだ。要するに、〝未だ独立ならず〟ということが分かった。「戦場で失ったものは、(話し合いの)テーブルでは取り返せない」という格言が胸に響く。(2022-8-21   一部修正)

 

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【45】気分は「日清、日露に勝った」直後──鈴置高史『韓国民主政治の自壊』を読む/8-12

 韓国は鑑賞する分においては、映画と同じように面白い国だ。尤も、当事者としてこの国と付き合うとなると厄介で、とても面白いなどと言っておれないだろうが。私には韓国ウオッチャーが友人に多い。つい先ほど、新しくその仲間に付け加えたいと思いたくなる人に出会った。といっても、テレビの解説番組を通じて一方的に見染めただけである。失礼ながら、お顔は見れば見るほどユニークである。この人物の書いたものも読もうと言う気になった。それがこの本だ。一読、裏切られなかった。章ごとのポイントを挙げる▼出だしの第1章は、コロナ禍。一度は抑え込んだように見えた。「西洋の没落」到来とばかりに喜んだのも束の間。瞬く間に自らの新規感染者数が世界最高レベルへと逆流。「K防疫こそ韓国人の優秀さを示す」などと呑気なこと言っておれなくなった。次いで、「あっという間にベネズエラ」の第2章。民主主義を掲げて当選しながら、その制度を壊してしまったベネズエラのチャペス大統領と文在寅前大統領は同じ穴のむじな、だと暴く。司法を掌握しようとの試みは、権威主義の国では左派だろうと右派だろうとどこでも起こるから、との指摘は納得がいく▼「そして、友達がいなくなった」との第3章は「反米、従中、親北」路線の当然の帰結だ。米国に歯向かうそぶりを見せつつ、中国に迎合し、北朝鮮と仲良くするとの路線では、誰にも相手にされないのは当たり前だろう。「政治の自壊が止まらない。韓国の知識人は今、激しい内部抗争のあげく滅んだ李氏朝鮮を思い出す」で始まる最終章は、韓国の行方を、縮んだ経済では国民をなだめるだけの分配が難しいと占う▼それでいて、「韓国は経済、外交、内政とあらゆる面で岐路に立っている」と、決定的な断定を避けた口ぶりは、韓国が苦手の日本人には物足りないかも。でも、ご安心を。「おわりに」では、きっちり、落とし前をつけている。まず、「35年間の植民地と独立後の南北分裂、朝鮮戦争による貧困」で、「周辺国から、一人前には扱われず、その劣等感は積もりに積もった」韓国人だが、「今や旧・宗主国の日本を豊かさで超え、誰からも無視されない国になったと自信満々だ」と持ち上げる。その上で、「せっかく描いた『世界に冠たる韓国』という自画像を壊す気にはならない」がゆえに、「韓国の気分は『日清・日露に勝った』直後」だと結ぶ。虚像の上に立った韓国は、波打ち際の砂の城のように、あっという間に流されるとの見立てなのである。(2022-8-12)

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