(80)新たな繋がりを生み出すきっかけー森田実『一期一縁』を読む

相次ぐご縁の連鎖の発端

 引退後に時折上京する際に、滞在時間中に様々な人たちとお会いし、旧交を温めたり仕事上のお付き合いを重ねるが、そのうちのひとりに第三文明社の社長の大島光明さんがいる。二つ年上の怖い先輩である。この人と初めてあったのは昭和40年代の後半だからかれこれ50年に及ぶ。新聞記者や団体役員、出版社の社長を経て80歳にしてようやく現役をひかれたというから凄い。節目ごとにご指導をいただいてきた。先年、ご自分の社で出版している月刊誌で佐藤優氏の対談が始まっていることから、彼と会われることもしばしばあるようだ。いつぞやの上京の際には佐藤さんのことをあれこれ語り合った。その際に帰り際に同社発刊の書物を数冊戴いた。その中に、森田実『一期一縁』があった。森田さんも佐藤さんと同様に、いやもっと前から公明党に対してまことに得難い応援の旗を振り、確かなる励ましの発信をしていただいてきた。

   公明党兵庫県本部でわたしが代表を務めていた頃に幹事長として長く支えてくれた野口裕元県議は、この森田氏とかねて親交があった。しばしば森田さんを兵庫に引っ張ってきてくれて、講演などをしていただいたものである。森田さんとはそうした私の先輩や後輩とのご縁はありながらも、直接のつながりはなかった。ところが、不思議なことにたまたま私が購入して読んだ姫路の同人誌『播火』がご縁でしっかりとつながりが出来た。『播火』は姫路で作家活動を続ける柳谷郁子さんが主宰する同人誌だが、わたしも時々目にすることがある。今回は、私の元秘書が初めて寄稿したものが掲載されていると知って、真っ先に手にしていた。

全学連の闘士からの変身

    『播火』巻頭のエッセイを開いて驚いた。いきなり、そこには森田実さんの『一期一縁』の中の「われは湖の子」が登場しているではないか。柳谷さんは諏訪湖のそばで生まれ育ったひとなのだが、森田さんの『一期一会』で諏訪湖のくだりを読んで思わず懐かしい故郷のことについて思いを馳せ、筆をとられたようなのだ。「湖(うみ)とは諏訪湖のことである。海のない長野県の諏訪では諏訪湖を湖(うみ)と呼んでいた、とある。私もそう呼んで育った」から始まる文章はなかなか美しい筆致で読む者に感激を呼び起こす。このひともそして元姫路市議だった夫君も(共に早稲田大出身)私はよく存じ上げているだけに興味深く一気に読んだ。何よりもこの森田さんの本は、ご主人が本屋で見つけて、この諏訪湖のくだりを広げて彼女に見てみなさいと差し出されたというところに感心した。夫唱婦随の典型のように感じられ、麗しい思いがしたからだ。

   こうして柳谷さんのおかげで、大島社長からいただいたままになって書棚に積まれていたこの本を引っ張り出して読むことになった。「われは湖の子」から始まって、「平和」と「出会い」についての二章からなる本を読んだ。第一章では全学連の闘士だった頃の森田さんについての生きざまが分かるし、第二章ではその後の彼の人生における交友関係がよく分かる。まさに一人ひとりの人間を大切にして関係を大事に育て上げられる人柄が彷彿としてくる。直ちに大島先輩に連絡し、森田さんの事務所の連絡先を聞いた。ファックスを送り、柳谷さんのエッセイについてお伝えした。すぐさま、森田さんからは「柳谷郁子さんの美しい文章を読み、感動しました。『播火』を読みたいと思います。私のHPの読者の中には地域の同人誌を発行している方もいますので、『播火』を紹介したいと思います」とあった。

   森田実さんは90歳を過ぎて亡くなられる少し前まで、お元気で公明党がいかに素晴らしい政党であるかについて語ってくださっていた。イデオロギー華やかなりしころの一方の旗頭だっただけにその論調はただならぬ重みを持っていた。佐藤優さんと並び立つもう一人の巨大な「諸天善神」的存在だった。柳谷郁子さんは、姫路に拠点を持ち作家活動を今なお旺盛に続けている。先年お会いした時に、黒田官兵衛にまつわる書物を著わしてほしいとの地元のファンの方々の要請を受けているとのことであった。

 この人の先のエッセイの末尾には「その湖畔で育った私はどうしても書きたい小説の構想を抱いたまま未だ果たせないでいる。題名だけは揺るぎなく決まっているのだが」とあった。私より8歳ほど年長だと思われる方だが、いやはや年齢を感じさせぬ創作意欲は凄まじい。遅れて歩むものたちにとって大いに励みになる。

他生のご縁 姫路と諏訪湖の結びつきに陰の役割

 私は、ここで述べたように、森田実氏と柳谷郁子さんの文字通り「一期一会」の繋がりを果たして差し上げたことになります。嬉しい忘れ難い思い出です。もとを正すと、そのきっかけは、第三文明社の大島光明社長です。

 その大島さんが先年姫路に来られた際に、柳谷さんと3人でお会いしました。ここに森田さんが加わると、いいなと思い、口にもしたのですが、果たせないまま、森田さんは他界されてしまったことは痛恨の極みです。

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同時代を共に生きた松本健一さんの死 北一輝評伝と開国のかたち(79)

それはまた突然の電話だった。「仙谷由人です」と。元民主党の代議士で、菅直人内閣の官房長官を務めた人物だ。なんの話か、と耳をそばだてると、「あんたは、確か死んだ松本健一君と親しかったなあ」ときた。「そうだよ。惜しいひとを亡くしたよな」と応じた。彼によると、松本健一氏が亡くなる寸前まで出版に向けて校正に手を入れていた書物を、生前に親しくしていた人々に贈りたいから送り先を知らせろということだった。遺された夫人の久美子さんの意志だという。松本健一さんとは様々な思い出がある。彼も仙谷氏も1946年早生まれ、1945年生まれの私とは同じ学年でもあり、戦後70年の同時代を共に生きてきた。もちろん思想家としての彼の濃密極まりない生き方とは比べるべくもないが▼彼らは東京大学で同じクラス。他に作家の川本三郎氏もいたというからうるさい仲間たちだったと思われる。仙谷氏は、文藝春秋2月号の巻頭エッセイで「わが友、松本健一君を送る」という一文を寄せていて、興味深い。内閣官房参与に就任を依頼した際のいきさつやら、仙谷氏自身が13年前に胃がんを手術した体験を同じ病いに倒れた松本さんに語ったことなどが明かされている。私が彼を知ったのは、公明新聞に彼がかつて寄稿してくれた『1964年日本社会変革説』を読んで鮮烈な印象を持ったことに始まる。代議士になってから党憲法調査会に講師として招いたり、個人的に食事を誘ったりもした。▼届いた本は『評伝 北一輝 Ⅴ北一輝伝説』だった。文庫版のシリーズ5冊目の最終巻である。いかにも北一輝研究の第一人者らしい締めくくり方だ。併せてA4の用紙5枚の表裏にびっしりと書かれた「松本健一著作・著述リスト」が添えられていた。松本亜沙子編 2014年12月23日版とあった。ご長女である。松本さんが逝ったのは11月27日だから一か月ほどの間に亡父のために娘さんが作成されたわけで、いとおしさが募る。それによると、彼の処女作は1971年『若き北一輝 恋と詩歌と革命と』とあるから、まさに北一輝に始まって、そして終わったことになる。あとがきには「ともあれ、わたしはこの全五巻で、わたしの知る北一輝について語り終えた。本格的に北一輝のことを語る最後の人間になるかもしれないとの意識のもとに」とあった▼私の手元には松本さんの著作は数多くあるが、恥ずかしながら北一輝についてはあまり熱心な読者とは言えなかった。むしろそれ以外の歴史ものに目が向いてきた。例えば、『開国のかたち』はほぼ二十年前に出版されたものだが、好きな本の一つだ。「維新運動に女性が登場しないのはなぜか」という章などはまことに面白い。龍馬が寺田屋で襲撃された際にお龍が全裸で急を告げたという有名な場面。これを取り上げた松本さんは、お龍の存在感が際立ってるのはなにも「全裸」だったからではなく、「幕末史において男という志に拮抗する女の肉体として自立している、ということだ」と難しく言う。ここでの「松本的男と女論」は大いに惹きつけられる。「男というものは社会的な存在であって、法や制度や、志やイデオロギーなどによってみずからを支えなくては、生きてゆけない。それらのものに手もなく乗せられる」と。確かに。そして女については、「生活のほうが大事である。生活はじぶんの好きな男との生活であり、もっとつきつめていうと、じぶんの肉体とつながっている子どもとの生活である」と。それもそうだ。そしてそこから天皇へと話を大きく回転する。尊王攘夷運動や国体論において問題になる天皇が本質において「女性格」だとし、「日本における勤皇家、もっといえば志士は、この女性格の天皇のために、ひたすら力を尽すのである。それが「皇国」における忠誠心(ロイヤリティ)というものだった」と結ぶ。なるほどと感心するしかない▼彼は明治維新、昭和の敗戦の過去における二度の開国に続いて三度目の開国を待ち望んでいた。それにふさわしい憲法を持つことこそ新しい開国のかたちなんだ、と叫び続けていた。政治家として同じ志を持った私とは、それゆえに大いに期待を寄せてくれた松本氏と大いに気が合った。これから20年ほどの間には共に生きて実現させたかった。巨星堕つとの深い感慨とともに、どうしようもない喪失感が彼が逝って二か月余りの今もなお私を襲ってくる。(2015・1・30)

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逆説、真説入り乱れての維新史ジャングル(78)

小説家や作家が書く歴史ものは面白い。専門家としての歴史家のものよりも。当然といえば当然なのだろうが、ついつい嵌ってしまう。元テレビ局勤務の記者にして、今は「逆説の日本史」シリーズ500万部突破という売れっ子作家の井沢元彦氏。何を隠そう実は私もファンのひとりだ。単行本と文庫本さらにはビジュアル版までも買い込んでいる。ネットではあれこれと反論が書きたてられており、「逆説の逆説」などとややこしい異論も花盛りのようで、これはこれで面白い。小学館発行の「週刊ポスト」で連載が始まったのが1992年1月というから既に23年も経っている。いやはや凄いことだ。ともあれ現代日本人をそれだけ惹きつけてやまないのだから▼ただ、現職の終わりころには読み疲れたというのか、しばらく読まない時期が続いた。2010年夏からの4年間ぐらいのことだ。ちょうど井沢維新史が始まる頃で、なんだかややこしいことを随分とねちっこく書いてるなあと思ってしまい、自身の人生の転機と重なったこともあって、遠ざかってしまった。それがひと段落ついたのが昨年の暮れ。放置していた18巻から21巻までの「逆説の維新史」全4巻を一気に読んだ。官兵衛を挟んで、龍馬や会津そして松陰など維新を飾った人物、地域をNHK大河ドラマが取り上げてきたこともあって、改めて維新史を整理したいという気持ちも起こってきていた▼どれが逆説で何が真説かなどという”歴史ジャングル”に入り込むつもりはない。前々回にここで取り上げた佐々木克さんのような正統な歴史家の「維新史」も味わい深いし、井沢氏のような異端児のものもどっちも魅力的だ。さらには、井沢氏が「この時代の歴史を学ぶのに最適の入門書である。コミックだから、外国人にもおススメだ。ビジュアルにすべてが表現されているからわかりやすい」というみなもと太郎氏の『風雲児たち』のようなマンガも。佐々木さんから「読み過ぎじゃあないか」と警告されようとも、面白いものには誰しも目が行く。井沢さんの本のいいところは、微に入り細にわたって繰り返して読者に迫ってくるところだ。開国派か攘夷派かといっても羊羹を切るように当時の人物群を分けきれないということは分かっている。しかしながら、それぞれに反幕派と公武合体派がいて、それはこういう連中だったと顔写真入りで一覧表にされると堪らない。ついそれに頼ってしまう。影響力たるや抜群なのだ▼今始まったばかりのNHKの『花燃ゆ』の松陰をめぐっても、井沢さんは通常歴史的素人にはお目にかかれない話を登場させ惹きつける。例えば、吉田松陰と長州藩きっての儒学者・山県太華の論争だ。これは当時、単なる「勤皇」が過激な方向としての「倒幕」へと変化していくうえで、避けて通れない松陰の思想を解くカギだとして語られる。当時27歳の松陰と78歳の太華という組み合わせの妙もさることながら、のちに「一君万民論」と呼ばれる松陰の考え方が現れているものとしても興味深い。これらは、松陰の『講孟余話』などの中身を知らないものにとって大いに関心を呼ぶ。このように書き進めてきて改めてわが身の不勉強に考え込んでしまう。「いままで何をしてきたのか」、「一体何を読んできたのか」と。そういえば、高校時代に日本史を選ばず、世界史と人文地理だったなあ、との若き日よりの過ぎ越し方を思いやってわが身を慰めるばかりだ。(2015・1・24)

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歴史研究にマンガを読むのは許されないか(77)

以前に触れたように幕末史に興味を持って継続的に様々な本を読み漁っている。これまでは歴史家ではない人たちのものを読む機会が多かったが、専門家のものに初めて挑んだ。といっても新書だから読みやすかった。日経新聞で激賞されただけのことはある。佐々木克『幕末史』だ。明治維新史を専門とされている人で、「欧米列強に対して手も足も出すことができなかった軍事的弱小国家日本が屈辱をバネにして立ち直って近代化を達成した、国家建設の物語として」取り上げている。前々回の半藤一利さんのものと全く同じタイトルにしたのは恐らく意図的であろう。反薩長史観に貫かれ、国内の抗争にばかり目を向けたと見られがちなものに、敢えて対抗心を燃やされたと見られなくもない▼ペリーが浦賀に来航した1853年から王政復古を経て明治維新政府の誕生までの15年間を5つの章に分けて論述したあと、明治国家の課題までを追っている。正直に言って最初の2,3章ほどは興味津々の書きぶりで実に面白い。が、後半はいささか冗長に堕して難しく受け取られざるをえず、竜頭蛇尾の感は免れない。ご本人があとがきに記しているように「大腸癌と共生しながらよたよたと歩いている老人」らしいところも散見される。しかしそういう点を補って余りあるほど迫力は漲っており、久方ぶりに読書メモを取りながらの読破となった▼日本の歴史の中でも幕末史は、150年ほど前のものだけに手を伸ばせば触れるような位置にある。歴史家たちが参考にし考え抜く材料となる資料はふんだんにある。それをどう読み解くか。歴史家に交じって様々の評論家や作家、最近はコミック・クリエイターらの参入もあり、幕末史は百花繚乱の傾向にある。既に読み終えており、近く取り上げようと思っている井沢元彦氏の『逆説の日本史』幕末年代史編全4巻などには、みなもと太郎の漫画『風雲児たち』を絶賛していて興味深い。そういう歴史書に見られる昨今の軽い風潮に、74歳の歴史大家としてはじっとしておられぬ思いで一般の人びとの目に少しでも触れるようにと、巻き返しの気概で筆をとられたのであろう。「余計なことを書かなくてもわかるとお叱りを受けそうだが」とことわりながら、「(文久3年8月の政変について)問題なのは審査にあたった編集委員も、同じようなレベルで欠陥を見抜けなかったことである。マンガやアニメの読み過ぎ見すぎではないかと笑ってすまされない」などと延べ「歴史研究の基本にかかわる問題」についてはあえて厳しく言及している▼また、「公武合体派や尊攘派とグループ分けすること自体が問題なのだ」とも。「いま何が緊急かつ重要な問題なのか、その問題設定によって立ち位置がかわり、発言に濃淡があらわれる。何々派だから、このような意見になるというのではない。これが幕末の政治世界なのであり、政党政治の時代ではないのだ」と安易に考えがちな今どきの歴女や歴史好きの甘ちゃんたちをたしなめておられる。当時の目まぐるしく動く状況をてっとりばやく理解するために、一般的には開国派と攘夷派に仕分けしてみたりしがちだ。そのあたり一概に否定すると歴史研究の興をそがれそうになってしまうので考えものではないのか、と私などつい自らを慰めてしまうのだが。(2015・1・19)

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歯の裏表事情を語るに至る道すじ(76)

(76)歯にまつわる言葉でお好きなものはどんなものがありますか?姫路に住む歯科医の河田克之さんに訊いてみた。「歯槽膿漏です」と答えが返ってきた。これには驚いた。一定年齢以上のひとにとっては嫌な言葉の代表格だろうし、若い人にはもはや知らない人が多いだろう。通常は「歯周病」と呼ばれているのだが、この歯科医はその呼び方自体が実態から目をそらすことに繋がっているといってあえて「歯槽膿漏」を大事にする。『さらば歯周病』という新書をはじめ幾つかの著作を持つ河田さんの『青山繁晴、反逆の名医と「日本の歯」を問う』との対談本は実に面白い。このたび河田さんと私が電子本で対談をしようということになり、改めて読み直した▼河田さんの主張は実に分かりやすい。一言でいえば、「歯磨きをしても歯を失う!」であり、歯を失わせる最大の元凶である「歯槽膿漏」は、歯石という異物を取り除く以外にないということに尽きる。「歯槽膿漏」は歯ぐきがいかれることがもたらす災いだと思っていた私は、彼の「歯を支えている骨が破壊される病気」との定義を聞いて驚いた。彼が「反逆の」とか「異端の」といった形容詞をつけられるゆえんはまさにここにある。さらに、彼は「歯槽骨を破壊しているのは、プラーク(歯垢)を含んだ骨の周りにある汚れー特に歯にこびりついたプラークが石灰化してしまった歯石だ」という▼これは一般的にいって、歯周病(歯槽膿漏とほぼ同義)をもたらす原因は歯周病菌であるとの歯学界の定説と真っ向からぶつかる。河田さんは、「歯周病菌を減らすことで歯周病は治せる。そのために歯磨きをせっせとやればいい」とする歯学界の常識に対して、歯周病菌は人間の口腔内に常在する菌であって、取り除こうと思っても取り除けるものではないし、排除する必要もないとしている。むしろ、そういう常在菌をはびこりやすくする口腔内の環境を変えるために、歯石を定期的にとることが大事だというのだ▼彼と姫路の淳心学院中等部、高等部で一緒に学び親友である青山繁晴氏は今をときめくジャーナリスト。いや、今やその域を超えて、青山千春博士と一緒に取り組むメタンハイドレード開発研究をめぐる(株)独立総合研究所の活動は世界の注目の的である。その青山氏が河田氏との対談の結論部分で、「厚生労働省、そして日本歯科医師連盟と日本歯科衛生士連盟ー彼らがガチガチでやってるなかで、ただ働きまでして、自分の本来信じる治療をしようとしているのは、これは特筆に値すると思います」と述べている▼私は、この本の存在を、カリスマ臨床心理士の異名を持つわが畏友志村勝之から聞いた。そして二人で対談電子書籍『この世は全て心理戦』を出版した。言ってみれば、青山・河田対談に激しい触発を受けたわけだ。そして今、今度は河田さんと私との間で、歯にまつわる対談電子書籍を出そうと準備を進めているわけだ。題して『歯、歯、歯の歯の裏表事情』。いやあ、まったくハハハのハだね、これは。(2015・1・12)

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反薩長史観に貫かれた講談調の『幕末史』ー半藤一利(75)

新しい年が明けた。ことしも旺盛に読書に取り組みたい。年明け早々の日経新聞3日付けの一面下の三段広告に「日本経済新聞目利きが選ぶ今週の三冊 12月3日付けで5つ星獲得、井上章一氏評 佐々木克『幕末史』」とあったのが目を惹いた。今年はNHKの大河ドラマに松陰の妹・文をヒロインにした『花燃ゆ』が放映されるから、去年の黒田官兵衛・戦国史から,再び「維新・幕末史」かと、の思いがこみあげてきた。駅前の書店を覗くと、さっそく松陰もの、維新関連本のコーナーが設けられていた。しかし、そこにはお目当ての佐々木克『幕末史』の姿はなく、半藤一利さんの同名の著作が置いてあった。というわけで仕方なく、古い方の『幕末史』から取り上げてみたい(佐々木さんのものはそのうちに)▼半藤一利さんといえば「歴史探偵」の異名を持つ、元「文藝春秋」編集長にして、今は評論家であり作家だ。このひとの『幕末史』は7年前に出版されている。その直前に出た『昭和史』と同様に、少人数の人たちを前にしての「張り扇の講談調、落語の人情噺調」のようなものである。講談調,落語風で極めて読みやすい。前にも触れたことがあるが、この人の娘婿が私の友人で元産経新聞の政治部長北村経夫氏(現在、参議院議員)だ。彼の紹介で半藤さんとも十数年前だがお会いし、ひと夜あれこれと懇談させてもらった。話の中身はほとんど覚えていないが、開口一番「あなたはずいぶんとくだらない本を沢山読む人ですねぇ」と言われたことだけははっきりと覚えている。会う前に私の『忙中本あり』をざっと見られたのだろう▼半藤さんは、この本の主題は「いわゆる皇国史観(薩長史観)に異議を挟みたい」ところにあり、「(戊辰戦争で)西軍の戦死者は残らず靖国神社に祀られて尊崇され、東軍の戦死者はいまもって逆賊扱い」なのは不条理だから、その無念を晴らしたいと「あとがき」でも述べている。彼は越後長岡藩出身の父を持つだけに「賊軍」の汚名を着せられたうらみが根強くあるように思われる。「西郷は毛沢東と同じ」だとか「龍馬には独創的なものはない」などといった定説とは違った見方を提示されると、多義的な歴史の一端を知ることができるようで面白い。例えば、明治維新をどう見るかという一番の根本のテーマでも、半藤さんは「維新」という呼称はおかしい、単なる徳川幕府の瓦解だというし、ほとんど無血革命に等しかったと見る指摘があるのに対して、暴力革命だったと言い切る。この辺り、世界史の視点を含め、公正な見方をすべきだと、薩長、反薩長いずれにも与さない私などには思えてならない▼ただ、事実として、明治の世になった時点で、西軍と東軍のいずれに属していたかで、藩の運命が大きく分かれたことは銘記しておく必要がある。県名と県庁所在地が違うところが17県あって、そのうち14県が朝敵藩だったというのは、新政府の考え方を示していて、えげつないほど露骨だ。私の生まれた地・姫路などそれまでの力からすると、姫路県であるべきなのに、飾磨県にされてしまった。後の兵庫県の中心からも外され、今に至っており、長年の発展の遅れと決して無縁ではない。半藤さんはこうしたエピソードをふんだんに持ち込み、歴史を独自の視点で検証していく。『幕末史』を読んだうえで今度会うと、「くだらない本をやっぱりよく読んでるねえ」ってまたいわれるかどうか。新聞記者から政治家になった娘婿に、また会わしてくれと頼んでみよう(2015・1・6)

【半藤さんとはここで書いたように、 少々劇的な出会いがありました。実は、くだらない本を沢山読む人だと言われた私はいささかムッとしたのです。それで、引き下がらずに、私は政治家の資産公開よりも、どんな本をどう読んだかという、読書録公開といった資質公開が大事だと思うんです。いかがですか?と、突っ込みました。半藤さん、それには「それはそうですねぇ」と同意されました。「だから、つまらない本を読む人は資質が低い」という方向に、話題は流れなかったのは幸運でした。

この人のものの考え方で、私が興味を持って影響を受けたのは、「日本社会40年変換説」です。明治維新から40年ごとに、大きな浮き沈みを経験して来た日本近代を大掴みにする捉え方に嵌りました。半藤さんだけでなく、色んな人が様々な切り口で、この問題を論じているのは知っていますが、一番わかりやすいのが半藤説でした。一時はあちこちで、喋ったり、講演に使ったものです。

亡くなられる直前に、『戦争というもの』を書かれたのですが、その編集から本作りの大枠を孫娘に託されたというのはこの人らしい着想だと思います。お元気だったら、拙著『77年の興亡』について読んで欲しかったものです。「あなたは読むものだけでなく、くだらない本も書くのですねぇ」と言われたかもしれません。(2022-5-20)】

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この父ありて海舟あり、親子二代「覚悟」の男の生き方(74)

大学時代の級友で土佐の高知に住む豪快な男がいる。なにしろ7億円もの借金をくらってもそう気にしている風には見えない男である。かつて若き日に彼のところに遊びに行った際に、桂浜の竜馬像に行こうということになった。途中でビールや酒を買って、そのうちの何本かを像の前に置いた。竜馬に飲ませると云って。誰かが飲むだけだ、もったいないと私がいうと、そんなことはどうでもいい、とまったく気にもかけなかった。妙に記憶に残るこの男がつい最近神戸にやってきて、久しぶりに逢った。談論風発のなかで勝小吉の『夢酔独言』を滅茶苦茶に面白い、と推奨して帰っていった。勝小吉とは勝海舟の父親のことだ。かねて坂口安吾や子母沢寛や大仏次郎らが勝小吉がいかに豪快無比な人物であるかを書いていることは側聞してはいたが、実際に彼の手になる本などあることさえ知らなかった▼およそひどい悪文というか、誤字、当て字のオンパレードで、段落わけもなしで、句読点もうたれず、会話部分に「」もつけていないので、滅法読みにくいことおびただしい。幾度か途中で投げ出したくなった。正直なところ読み終えて何ほどにこの本がいいのかあまり分からない。解説者によれば、生き生きとした文章であるとか、優れた記憶力を持つ任侠に生きた親分だとかべた褒めなのだが、当方にはとんと分からない。坂口安吾は『堕落論』のなかで、この小吉が書いた本には「最上の芸術家の筆をもってようやく達しうる精神の高さ個性の深さがある」と。この安吾自身、相当に変わった人物ゆえ、変わった者同士は分かりあうということだろうか▼私としては小吉の凄さは分かりかねるまったくの小物だが、息子・麟太郎ことのちの海舟との父子関係には大いに興味をそそられる。明治維新における江戸城無血開城に見るように、勝海舟の胆力は父親譲りの比類を見ない豪快なものである。今、私は明治維新にいたる幕末の15年(1853年~1868年)を細々と研究しているのだが、誰よりも勝海舟に魅力を感じる。彼の書いたものといえば、『氷川清話』で、かつて現役時代に国会議員の赤坂宿舎の裏にあった氷川神社周辺を歩きながらよく思い起こしたものだ。まあ、おやじさんのものより数倍読みやすくはある。「男たるものは決して俺が真似をばしないがいい。孫やひこができたらば、よくよくこの書物を見せて、身のいましめにするがいい」と最後に書いたところを、如何に海舟はじめ子孫たちは読んだろうか。『氷川清話』には一方で少々馬鹿にしながらも、他方で「わが父は潔く、細かいことにこだわらずに鷹揚で、われに文武の業を教えるのに、徐々に勧め励ました」とあるを見ると、反面教師にしながらもその恩義を感じていることが伺える▼勝海舟といえば、私が思い出すのは、漫画家黒金ヒロシが語った勝海舟だ。4年ほど前にNHKで「未来をつくる君たちへ~司馬遼太郎からのメッセージ」というタイトルのもと放映されたものを覚えている。改めてそれのDVDを観てみた。黒金さんが両国中学の男女の生徒たち15人ぐらいと勝海舟の凄さを語り合っている番組だった。そこで、彼は、いかに海舟が「覚悟のひと」であったかを様々な側面から説いていた。マズローの人間の欲望についての5段階説やシュプランガーの学説を引きながらの解説はなかなか観させた。死の間際に勝が「これでおしまい」と言ったことを通じて、普通のひとが陥りやすい不条理感に囚われないためには、自分のために毎日を精一杯に生き抜くことに尽きると述べていたことが強く印象に残っている。小吉や海舟と鷹揚なところが似てなくもないわが級友の過ぎ越し方と、行く末を思いやる年末ではある。(2014・12・29)

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現場で人びとと同苦することこそ人生の極致(73)

ほぼ本年最後の読書録になろうかと思われるものに相応しい本に出くわした。チェーホフの『六号病棟』だ。これは先日紹介した『退屈な話』と同じ岩波文庫に収められており、同じ時期に読み終えたが、あえて別々に取り扱いたい。チェーホフは医師として切実な課題に真正面から立ち向かっており、まことに興味深い作家だ。患者たちがいつも長い時間を待たされたあげくに、三分間ほどだけの診療でお茶を濁されることは日常茶飯事である。昨今はパソコンの登場で、画像を見るだけで医師はついに患者の顔すら見ないで済ますことさえあるといった話まで横行している。しかし、医師は医師として過重極まりない医療労働をするにも関わらず、自身が蓄えた医療の技量に見合っただけの報酬を得ていないとの不満を隠そうとしない▼医師という職業は、わが身を顧みず患者の立場に立ってどこまでも人命救済に立ち向かう存在ではないのか、との思いは今日なお人々の心に強く存在している。この『六号病棟』では、精神、心をを患ったひとと、その患者を治療する医師の二人が真正面から人生の本質をめぐって語ることが中心的な命題として設定されている。煎じ詰めれば、ここで登場する医師は、社会の不公正をもっぱら時代のせいだとしてとらえ、人々が苦しむ現実には不感症で、無責任で、冷淡でさえある。それに対して、患者は、無意識のうちに不公正な特権の上に胡坐をかいて生きてきた医師を鋭く告発する。この小説では医師と患者の対立として描かれているが、医師は特権を得やすい職業の代表であって、他のどのような職業でもより人々の尊敬を集めやすいものはすべて共通しよう。政治家もしかりだ▼その医師が「暖かい気持ちのいい書斎とこの病室との間にはなんの違いもありませんよ」といい、「人生を理解しようとする自由で深い思索と、俗事の完全な無視という二つの幸福さえものに出来れば、人間はどんな境遇にあっても心に平安を見出すことが出来る」と述べるくだりを読んで、まさに自分にも突き付けられた刃だと思った。病室を有権者との出会いに換えれば、そっくり政治家にも当てはまるからだ。今の政治の弛緩しきった実態は、政治家が本質的な部分で「人間の安らぎと満足とは、外部にあるのではなくて、内部にあるのですから」との医師のセリフが示すように、外部にある生身の人間の苦悩を解決することを棚上げし、自身の心のうちに逃げ込みがちなところに原因がある▼ことし結党50年を迎えた公明党は、すべての議員が「大衆とともに戦い、大衆のために戦い、大衆の中に死んでいく」ことを最大のモットーにして全国各地で日々活動をしている。公明党の創立者池田大作先生の根本的指導は常に「現場へ、大衆の中へ入れ」だ。大衆との接触を忘れたものはもはや公明党の議員にあらずとの精神こそ尊い。チェーホフが『六号病棟』で言いたかったことは、決して医師の生き方だけではなく、「ノーブレス・オブリージュ」の大事さを言っているのだと思う。私も現職を辞したからもはや自由だというのではなく、どこまでも大衆の現場での悩み、苦しみに同苦し、解決をはかるお手伝いをする人間でありたい。(2014・12・26)

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九州へのやっかみも吹っ飛ぶ葉室麟の想像力(72)

NHK大河ドラマ『軍師 官兵衛』50回分の放映が終わった。一年の終わりに大河ドラマを振り返ってあれこれと考えをめぐらすというのは、今や日本の風物詩になった感がする。恐らく一般的には気分は来年の主人公である吉田松陰の妹「文」に移っているだろうと思われるが、私は12月24日クリスマスイブにちなんで、黒田官兵衛にこだわってみたい。そう、彼はキリシタンだったから。さらに、このドラマは、官兵衛と長政という父と子の深いえにしを描き、主人と従者の濃いきずなをも表現していた。さらには播州・播磨で誕生し、九州・福岡で実を結んだ黒田一族にも興味が惹かれる▼今年の初めには司馬遼太郎の『播磨灘物語』を再読し、数冊の官兵衛ものを読んだ。この読書録にも取り上げた。最後のお楽しみにとっておいたのが、葉室麟の『風渡る』と『風の軍師』の2冊だ。前者は生い立ちから始まって、秀吉の天下となって、朝鮮と明への野望を果たそうとするあたりで終わる。通常の官兵衛もののパターンに負っている。歴史の通説に従った展開である。一方、後者は全く違う。いきなり「太閤謀殺」という章がたてられ、葉室麟の独創力が大きく羽ばたく世界が次々と露わになってくる。官兵衛にまつわる群書を読み散らしたすえに、この葉室ワールドに出くわすとまことに面白く、その虜になってしまうのだ▼著者の独創と思われるものの最大のものは、織田信長に謀反を起こし、あの本能寺で殺害するに至った明智光秀をその気にさせたのは、なんと黒田官兵衛だったというものだ。しかもそれのみにとどまらず秀吉をも謀殺することに執心していた、と。こう書くといかにも軍師というよりも策師であり、謀略家のイメージが沸き立つが、ことはそう単純ではない。背景には、非道の限りを尽くした信長や、晩年になってその師の姿に似てきた秀吉を討たねばこの世に楽土はこないという考えが横たわる。併せて、キリスト教の存在が大きく迫る▼官兵衛がキリシタンであったことを真正面からとらえ、その意味を発展的に展開したのがもう一つのこの葉室氏の独創のすごさだ。『風の軍師』では、九州をキリシタンの王国にして、やがては日本全土に広げようとの遠大な構想をもっていたことをベースにしており、まことに壮大無比だ。当初はあまりに荒唐無稽だと思わないでもなかった。が、「このような想像力を飛翔させた作家は葉室氏以外になかった」し、それは「キリシタン伝来の中心にあった九州というローカリティに腰をすえることで、逆に世界史的視野を得た」という湯川豊氏(文芸評論家)の解説を読み首肯するに至った▼私のような播磨人は、「官兵衛は播磨を忘れてしまったひと」だとのそれこそ小さな地域性にとらわれがちだった。ある地元の言論人に言わせると「官兵衛は裏切り者だ」とまでいう。それは恐らく、九州の黒田の根拠地を「福岡」とし、「姫路」と命名しなかったことにあるのかもしれない。福岡の呼称は、備前(岡山)にある黒田家ゆかりの地の名に由来するからだ。今回の大河ドラマは降ってわいた「官兵衛ブーム」を姫路にもたらした。ある日、バスに乗っていて若いカップルが「お前、黒田官兵衛って知ってたか?全然そんな人物が姫路に生まれてたなんて、これまで知らなかったもんなあ」と言い合っていたのが印象的だった。姫路と黒田官兵衛の関係などその程度との見方もある。そこへ、官兵衛はキリシタン王国を九州に打ち立てようとしていたのだと葉室氏に聞かされると、播磨人としては「参りました」という他ないのである。(2014・12・24)

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むなしく時が過ぎるだけの「北」との関係ー伊豆見元(71)

私には北朝鮮や韓国の専門家が友人に多い。小此木政夫、古田博司の二人が双璧だが、他にも伊豆見元、重村智計氏らがいる。私が現役時代にこの4人は一度は公明党の外交安全保障部会の場に呼んで、講演をしてもらったものだ。前二者はこれまで幾度か取り上げてきたが、後者の二人はほとんどない。このうち伊豆見さんと知り合ったのは1980年代後半、故中嶋嶺雄先生(元東京外大学長、前秋田国際教養大学長)のアジア・オープンフォーラムの会議やら、台湾への旅で、だ。また、重村さんとは、米国への視察旅行先のワシントンのホテルで偶然に出会い知りあった。彼が毎日新聞記者をされていたころだ。もう20年近く前のことになる▼ネットで見ると、重村氏は伊豆見さんのことを厳しく非難しているようだ。その著作で、学歴詐称の疑いがある、と。名指しは勿論避けているが、明らかに彼のことだとわかる書きぶりだ。両方を知っている身からすると辛いし、あまり関わりたくない話ではある。他にも島田洋一氏(福井大教授)がそのブログで叩いているから、伊豆見氏はなにかと標的にされやすいのであろう。いくつか理由があろうが、最大のものはテレビや新聞メディアにしばしば北朝鮮ウオッチャーとして登場する割には、ご自身の手になる著作がない(訳本や共著はある)ことが原因ではないかと思われる。学者という存在は相互に喧嘩が絶えないようで、陰口を耳にするには事欠かない▼その彼が昨夏に出版したのが『北朝鮮で何が起きているのか ー金正恩体制の実相』で、つい最近まで知らずにいたが、偶然に本屋で発見した。朝鮮半島、とりわけ北朝鮮については情報も限られており謎がまだまだ多い。ゆえに、それを書物という形でまとめることは危険が多かろう。得体のしれないものに一定の見方を提示することは相当に勇気がいるからだ。この本では、①2012年4月以降の挑発の実相②金正恩体制の構造と政策課題③北朝鮮はどこに向かうのかーの三章に分けて解説をしている。究極のポイントは「金正恩指導部の三つの課題と三つの条件」である。国民生活の向上、対南関係の安定化と対米・対日関係の正常化という課題に対して、一定の成果をあげるには①非核化②弾道ミサイルの放棄③韓国に対する挑発行為の停止という三条件を満たさなければならない。しかし、これは国際社会にとって必須の前提条件だが、北朝鮮にとっては到底受け入れられない。結論は「時間だけがむなしく過ぎていく可能性が高い」ということになる▼これから日本はどうすべきかについて、伊豆見さんは、日本は今後も北朝鮮との国交正常化を目指していく必要がある、としたうえで、「北朝鮮を『国際社会の責任ある一員』とするべく」、「『生まれ変わらせる』べく努力を続けていかねばならない」と結んでいる。確かにそうなのだが、この「べき」論はそう簡単ではない。アメリカとキューバの国交正常化という新事態を横目で睨みながら、いよいよ地上最後の関係正常化を必要とする標的に「北朝鮮」がなったことに緊張を覚える。伊豆見さんの本の顔写真を見ながら、彼を傲岸不遜な男だという指摘(ネットで見た)は的外れで、わたしからすれば「程のいいひとなのになあ」と同情の思いは禁じ得ない。ま、出る杭は打たれるのか、とここでも平凡な感想を抱くに至った。(2014・12・23)

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